すっぽりと包まれたワイルドの腕。胸に頬を寄せればぬくもりと鼓動まで伝わってくるような。それなのに、だからこそ、ロレンスは頬などとても寄せられない。気恥ずかしいより、どうしていいかわからない。その頭上、ほう、と満足げな吐息。 「ワイルド……?」 見上げてしまってから、目をそらしたくなる。すぐそこでワイルドが微笑んでいた。いまだかつて見たためしがない彼の眼差し。知らず頬に血が上る。 「なんでもない」 気にするな、呟くよう言ってワイルドは再びロレンスを胸に包み込む。決して離さないと言いたげで、ロレンスは戸惑う。嬉しいことは確かなのだが、舞い上がるには不審が多すぎた。 「なんで、こんなことを。……君は、想う人がいると言った」 言ってしまってから顔から火を噴くかと思うロレンスだった。とんでもないことを口走った気がしたけれど、言ってしまったものは仕方ない。気づいたのかどうか、ワイルドは痙攣するよう笑った。 「そうだよな。あぁ、そうだ。現実のあんたなら、絶対にそう言う」 首をかしげたロレンスだった。何か、齟齬がある。ワイルドは本当に無事なのだろうか。見上げて覗き込んだ彼の表情は、それでも普段と変わらない。 「どう言う意味だ」 「そのまんま。――二度と会う気はないって決めたせいかね。やたら鮮明な夢だよな」 くつくつと笑うワイルドに、ようやくロレンスは納得した。彼はいま、完全に現実を認識していない。怪我の影響なのかどうか。それならばあとでエリナードを問い詰める用意がある。ロレンスは内心で呟き、ワイルドを見ていた。 「なら、教えろ。君が想う人は、誰だったんだ。夢なのだろう? ならば言ってもかまわないはずだ」 ずるいな、とロレンスは思う。あとで合わせる顔がなくなりそうではあったが、いまはどうしても、聞きたい。そんなことを言いつつ彼はいまだこの身を抱く腕を緩めようとはしないのだから。 「その物言いも……。ほんと、再限度が高い」 笑いすぎて傷が痛んだのだろうか、かすかに顔を顰めたワイルドから離れようとしたロレンスだった。それを咄嗟とはいえ、普段の彼からは考えられないほどの力で拒まれた。腕に痕でもついたのではないだろうか。 「悪い。痛かったか?」 問う声にも緊迫感は皆無。やはりワイルドは夢の中にいるらしい。ロレンスは黙って首を振り、いっそとばかり彼の胸に頬を寄せた。途端に、鼓動が弾んでどうしようもなくなる。 「……聞かせろ、ワイルド」 だから、聞きたい。どうしても聞きたい。今更こんなにもワイルドを想う。だからこそ彼がここまで心を捧げ抜いた相手を知りたい。ちくちくと瞼の裏が痛んでも。 「そうだよな。あんたには絶対にわからない。わかるはずがない。だから、言ったんだ」 「何をだ」 「惚れた相手がいるってさ。あんたは、わかるはずないからな」 「……馬鹿にするな」 言い返してもそのとおりだった。いまだにどうしてもわからない。彼が騎士としての尊崇を捧げ、その心まで捧げた相手など思いつかない。 「あれこれ、想像はしたんだぞ、私も。宮廷や、他の騎士団や。知っている騎士たちを思い浮かべては、見た」 「ほう?」 「それでも、君がそこまで想う人なんて、わからない。私にとっては、君以上の騎士はいない。そのせい、かもしれないけれど」 最後は何を言っているのかと自分でも思った。幸いワイルドは聞いているのかいないのか。彼が夢の中でよかった、とロレンスは思う。 「ちなみに、ロレンス」 「なんだ」 「あんたは鏡を見たことはあるか」 「あるに決まってる。どういう――」 血の気が引いた。知らず顔を上げてワイルドを見ていた。にやにやとした人の悪い笑み、これもまた知らないワイルドだった。それにこんなにも惹きつけられて、だからこそ音を立てて血が引いて行く。 「私か!?」 そのとおり、とワイルドがもっともらしくうなずいては、耐え切れなかったのだろう笑いだす。いたたまれないとはこのことか、とロレンスは身の置き所がなくなりそうだった。 「笑うな、馬鹿!」 怪我人だと思っていなかったらきっと叩いていた。いまも笑いに傷が痛むのだろうに。顔を顰めてなお笑っているワイルド。幸せそうだとふと思う。 「笑うさ、そりゃ。あんたは絶対気がつかない。だから、言ったんだ」 「性格が悪い」 「でもな、やっぱり気がつかないだろうさ。気がつかなくていいんだ。――気づいてほしくなんてない」 「なんでだ」 「二度と会わないから。俺が身近にいれば、あいつは絶対に巻き込まれる。巻き込めと言う。助けさせろって言うに、決まってる」 理解されているなとロレンスは思う。小さく笑みが浮かんで、それでも不快だ。こうやって自分を抱いているのに、まるでこの場にはいないかのよう語るワイルド。いまここにいる自分は、夢なのだと全身で拒絶するワイルド。 「俺は、あいつが無事でいるなら、それでいい。ずっと遠くから見てたんだ。これからも、遠くで見てるだけだ。それでいい――」 一足先に騎士叙任を受けるために訓練を終えたロレンス。見送ったワイルド。あの時からずっと彼に見守られていたのか。ロレンスは思う。会いたいと思っていたのは、自分だけではなかったと。気づけばきゅっとワイルドの背を抱いていて、そんな自分が恥ずかしくてたまらない。それでも、離せない。いまは。 「遠くでは、嫌だと言っている」 聞こえなかったのだろう。聞きたくないのかもしれない。これは夢だとワイルドは決めてかかっている。こんなことは現実には起こり得ないと。小さな溜息もワイルドには届かない。 「君の側にいたい。君の行くところに行きたい。君が好きだから、離れない。そう言ったら、君はどう答える?」 「いくら夢でも答えようなんか……ないよなぁ。何度も見た夢でも……いつも答えられない……」 「何度も?」 思わず問うロレンスにワイルドは曖昧に笑っていた。何度も。こんな夢を何度も。ロレンスは胸が詰まりそうになる。同時に、納得もする。だからこそ、夢だと信じて彼は疑わないのかと。 「ワイルド。君が好きだ」 じっとその氷のような目を見つめる。何があってもそらさないとばかり。ワイルドもまた、その紫めいた目を見つめていた。焦れたロレンスが頬に手を当てるまで。 「ロレンス? ――いや。だめだ。二度と合わせる気はない顔でもな、やっぱり怒られそうで。怖い」 そっと寄せた顔をワイルドは笑って拒絶する。その代わり、なのかどうか。軽く額に掠めたもの。彼の唇。思いの深さのようで、ロレンスは泣けてくる。一度彼の肩先を掴み、息を吸い込む。ゆっくりと吐き出したとき、ロレンスは笑っていた。 「意外と根性なしだな、君は。まぁ、いい。次に会う時までにはもう少し元気になっていないと、承知しない。――少し、眠れ」 「あいよ。おやすみ、ロレンス」 言いながらワイルドはロレンスをきつく抱く。夢の奥の奥まで連れ去ろうとするかに。連れ去られたいロレンスなのに、ワイルドには本当のところで連れ去る気があるのかどうか。 「馬鹿者め」 傷が重いのは嘘ではないらしい。疲れてもいるのだろう、ワイルドは。ほどなくことりと眠ったワイルドの頬に触れ、ロレンスは呟く。小さな笑みが浮かんでいた。 「どうしたものか」 ゆっくりと腕の中から逃れ、ワイルドを横たわらせる。それでも彼は起きなかった。朝までがどうのとエリナードが何か言っていたような気がする。このままずっと側にいてもよかった。けれど。 「君は、信じないだろうし。起きたら恐慌状態に陥るのが目に見えている」 溜息を一つ。それでも笑みが滲んで仕方ない。いずれにせよ、想われていたのは自分であった馬鹿らしい事実。 「今夜は、退散する。おやすみ、ワイルド」 ふと思いついて外したことのない印章指輪を彼の枕元へと置いた。騎士叙任と同時にオフィキナリス子爵に任じられたロレンスだ。あのときからそこにあった指輪がないだけで、小指がひどく寂しい。 だが、それだからこそワイルドはこれが誰の持ち物なのか嫌でもわかる。叙任前に新たに作らせた指輪を最初に見せたのはワイルドだったと、彼は覚えているだろうか。忘れた、とはロレンスは思わない。 もう一度彼の頬に触れ、ロレンスはおとなしく部屋を出て行く。そしてぎょっとした。続き部屋だったらしい。居間の長椅子でエリナードが伸びていた。それも、見れば壮年らしい優雅な男の膝枕のままで。どこかで見覚えが、と思えば竜騎士団に訪問して来た男だったと気づく。ならば彼は。 「ん……。話し、終わったんですか。まだ朝までちょっとありますよ。時間になったら――」 ロレンスの気配に気づいたのだろうエリナードが目を覚まし、体を起こしては枕になっていた男に目を留めてぎょっとする。見る見るうちに青ざめるのをロレンスは訝しく見ていた。 「どうした、エリナード」 「いや……。いいですか? じゃあ、改めて紹介しましょうか。こちらは貿易商のジェイク氏です。うちの四魔導師が共同で使ってる幻影でして」 「共同?」 「えぇ、素顔だと色々問題がある場所なんかに出入りするとき用ですね。ここもその一つですが」 肩をすくめてエリナードはここは青薔薇楼と言う娼館だ、と言った。目を瞬くロレンスは生真面目な騎士らしく自主的に娼館を訪れるなどしたことがないらしい。以前の密談場所だ、と言えばようやくここがどこか理解した様子だった。それを横目で見つつエリナードはジェイク氏から離れようとする。 「そこまで嫌がるか?」 「そりゃ、まぁ。嫌がってるわけじゃないですけどね。緊張はしてますよ。――あぁ、いまの中身はカロル師ですよ」 訝しそうなロレンスにエリナードはなんでもないことのよう言った。それでようやく「共同の幻影」の意味がロレンスにも通じる。 「怪我人の面倒はこっちでみとく。心配すんな。――それほど重い傷でもねェしな」 「そうは、見えない。いまも――いや、なんでもない」 首をかしげたカロルにロレンスは首を振る。何があったのかはさすがに恥ずかしくて口になどできない。それでも察したのだろうカロルがにやりとした気がした。 |