ふらふらと足が勝手に寝台の元までたどり着く。腰が抜けるようすとん、と端に腰を下ろした。ただ黙って半身を起こしたワイルドの顔を見ていた。上掛けの上に出ていた手に触れる。弾かれるよう、引いた。 「ワイルド……」 喉に詰まった声が、急に恥ずかしくなってロレンスは拳で涙を拭う。ワイルドもまた、黙ってそんな彼を見続けていた。 「生きて、いたんだな――。よかった」 それだけのことを言うのに、何度つっかえただろう。ロレンスは首を振り、そのたびにまた涙があふれて、どうしようもない。 「すまん」 詫びられたいわけではなかった。生きていてくれた。もう、それだけでいいような気すらする。それでも、こうして生きていたからこそ、疑問も湧く。 「なぜ――。いや、言えない、ことなのだろうな……。そう、だな……すまない」 「いや……」 「なら、聞いても、いいだろうか」 ロレンスのためらいがちな言葉。視線をそらし、どこでもないところを見つつ彼は言う。紫めいた目は泣き続けていたせいに違いない、赤くなっている。自分のせいだ。思えばワイルドはどうにもならない気持ちを抱えるばかり。 「マケインは――」 どこまでロレンスは知っているのだろう。なぜエリナードは彼をここに連れてきた。黙って死んだことにするつもりだったものを。どうして。苛立つ心はいまは抑え、ワイルドはロレンスに問う。 「あぁ、聞いた。家族と、どこかでひっそり暮らすそうだ。星花宮が援助するとも、聞いたよ」 その言葉にワイルドの肩から力が抜けた。どれほど安堵したのだろう。思ってもロレンスには想像できない。むしろ、したくない。マケインは彼の副官だったのかもしれない。彼が騎士叙任を受けて以来仕え続けてきた男なのかもしれない。それでも、ワイルドを謀殺する一派に力を貸した男だ。 「悩んでたんだよ、あれでも。あいつも」 「責めたくなる気持ちは、知ってほしいと思う」 「そう言うな。――俺がどう言う生まれかは知らされてはいなかったみたいだがな、それでもはじめから、ホーンウィッツ一門がつけた言ってみれば密偵だったんだ」 「……あり得るところが、腹立たしい」 もしも自分がホーンウィッツの立場であったならば、確実にそうするだろうとロレンスは思った。それが政治を左右する家に生まれた者の当然だと。思う自分をこれほど疎ましいと思ったことはなかった。 「それでもな……個人として俺を慕ってくれちゃいたんだ」 「そう、だな……。マケインは、とても良い男だったと、騎士だったと、思っていた」 「そう思っててやってくれ。いいやつなんだ、本当に。いいやつをそのままにしておかなかった屑を、責めてくれ」 お前はその立場にいるのだから。ワイルドに突きのけられた気がした。自分と彼とは違う場所に立っている、まざまざとそう示された気がした。ロレンスは無言で首を振る。 「マケインが無事で、本当によかった――」 自分の安全などそっちのけのワイルドに腹が立ってきた。どれほど不安だったか、どんなに嘆いたか。以前の自分ならば口にしただろうとロレンスは思う。いまはとても、言えなかった。 「彼より、君だ。どうしてだ。星花宮は君を守ると言ってくれたのに、酷い怪我を……」 触れるより先に手を止めた。それでも白い包帯の表面を指先が掠る。ひどく不安になるような手触りだった。 「これでも守ってくれたんだ」 「足らん」 「そう言うなっての。演習の時に何か起こりそうだってのは、掴んでたらしい」 マケインを洗ううちに星花宮はその情報を掴んだ、とワイルドは言う。だがあからさまに手を打てるわけでもない。ワイルドの身の上ばかりは断じて明かすことはできない。それは星花宮もまた、望んでいない。現在の王室に混乱を起こしかねない存在だ、彼は。本人がひっそりと生きたいと願っているのならば星花宮はそれに手を貸すまで。 「どうも俺はあの場にいて、半分くらい位置がずれて見えてたらしいな」 「どう言う、ことだ?」 「さぁ? そう言う魔法だった、らしい。だからこの程度で済んでる」 ざっくりと胸を貫いたように見えた近衛騎士の剣。実際は横腹を切ったというところ。それでも傷が重かったことに違いはないが。 「ならば、どうして」 「このまま消えようと思ってたからだ」 なぜ竜騎士団に戻らなかった。無言のうちに問うロレンスにワイルドは答える。いささか素早すぎる回答で、彼が何度となく心に呟いた言葉なのだろうと察せられた。 「どう、して……」 真っ直ぐにワイルドを見つめたロレンスの目が再び潤む。それが悔しいのだろう、強引に拳で拭う。見ていられなくなったワイルドは枕元にあった柔らかな布で涙を押さえた。 「腫れるぞ。そんな無理矢理にするものじゃない」 「うるさい。放っておいてくれ」 「できるか、馬鹿」 小さく笑うワイルドの声。生きている、またも思った。二度と見ることができないと思っていたあの笑みがいま、手の届くところにある。あるからこそ、手が伸ばせない。 「……あんたをな、巻き込みたくなかったんだよ」 「ワイルド。どう言う意味だ。私は……巻き込まれたいと、思う。その……変な勘繰りは――いや、だから」 「なんだ?」 きょとんとしたワイルドの顔にロレンスは目も向けられない。自分は何を言っているのかと思う。何度か呼吸をしても、どうにもならなかった。 「だから、なぜ巻き込みたくないなどと妙なことを言うのかと聞いているんだ」 平静に言ったつもりの声は変に掠れて調子外れ。ワイルドは何も見なかったことにしたらしい。ロレンスはほっとする半面、苛立たしいような、気恥ずかしいような、どうしようもない思いを抱く。 「いや、あんただけじゃないぞ。俺が生きてれば、これからも周りを巻き込みかねない。それだけだ。一々気をつけてまわるのも大変だしな。気をつけられるほど権力もない。だったら、もういっそ全部捨てちまえばいいと、思っただけだ」 マケインの事情を知らされたとき、そう思ったのはエリナードのおかげだろうか。彼は以前、旧知の傭兵隊には高位の貴族の子息がいる、と言った。家も身分も捨てて傭兵として働くこともまた可能だとワイルドに示して見せた。そうして「生きること」ができるのだと。 「……君は」 「なんだよ」 「……いや。それで、君が生き延びられるのならば、私は喜ぶべき、なんだろうな。でも……ワイルド」 そらされていた眼差しがワイルドに戻る。無垢で真摯で、何一つ覆い隠すことのないその眼差しがワイルドを貫く。ただ、見つめているだけだったのに。 「君には、会えなくなる」 無意識だろう、ロレンスが手を伸ばす。手に触れてきた指先は冷たく、震えていた。うつむいたのはまた、泣きそうにでもなったか。従騎士時代にも泣き顔など見た覚えがないというのに。あの過酷な訓練にも彼は音を上げなかった。傷だらけになりながら、不遜に笑うような男だった。そのロレンスがいま、こんなにも頼りなく震えている。 「その方が、いい」 断言し、ワイルドはそれなのになぜだろう。ロレンスの手を取っていた。手の中に包み込んだ彼の手が酷く冷たくて、きっとだから、そのせいだ。 「いやだ」 子供のように首を振るロレンスに、なにを言えばわかってもらえるのか。生きる場所が違う。生きて行ける場所が違う。聞く耳持ちそうになかった。 「――君のことで、身に染みた。私は、あの同類になりたくない」 「そう言う政治をしてほしいと俺も思う」 「そうじゃない、ワイルド。違う」 いずれ父公爵の跡を襲いラクルーサ王の傍らに立つだろうロレンス。いままで誰一人としてそれを疑ってなどいなかった。ロレンスを嫌うと言う王子自身、ロレンスを謀殺するところまで考えているかどうか。 「君は、これから……?」 ロレンスの問いにワイルドはただ首を振る。自分は傷が癒えれば旅立って行く。貴族とも騎士ともなんのかかわりもない場所で生きて行く。ロレンスには二度と会わずに。そう言うはずの言葉はやはり、どうしても出てこなかった。 「――君と共に、ありたい。いや、その。私など足手まといだとは思う。それは自覚している。だから、なんでも覚えるよう努力する。それに……」 「ロレンス、なにを言ってる」 「せめて、この顔は嫌いではないだろうと思った。しばらくは、身を慎むことになるのだろう? なら、そうそう派手なこともできまい」 手の中に包んだままだったロレンスの手が、いっそう冷えて行く。それなのに、汗ばんで彼の動揺具合を鮮明に表す。 「遊び相手の一人に、立候補しても、いいだろうか」 困ったような目をして見上げてきたロレンスに返す言葉がワイルドにはない。馬鹿のようぽかんとロレンスを見ていた。 「……君には、不満だとは、思うが。その、何か言ってくれると、ありがたい」 「いや……。急に何を言いだしたのかと。すまん、正気を疑ってる」 「ワイルド!」 「疑うだろうが!? ロレンス、何があったんだ。いいから正直に言え。騎士団に居づらいような何かがあったのか。俺はもうこんな身の上だ、何ができるわけでもないが、星花宮がまだ――」 「君が好きだと言ってるんだ、馬鹿!」 「……は?」 目を瞬き、ワイルドは開けた口を閉めるのを忘れた。うつむいたロレンスの頬が赤い。何か意味のわからないことを聞いた気もした。脈絡のない唐突さはまるで夜の夢。何度となく見た夢の有様。 「だから、君の側にいたい。迷惑だとは、思う。それでも、諦めたく、ない」 ぎゅっと握られた手。そうしてはじめてロレンスはワイルドに手を取られていると気づいた。驚いて引こうとして、けれどそのままにしていてほしくて。もぞもぞと動く手は、気づかないワイルドがそのまま握り続けた。 「頼む、ワイルド。返答が聞きたい。死刑の宣告を待っている気分だ」 「え……あ、なに?」 「だから、返事」 苦笑して見上げてきたロレンス。ワイルドはまだ唖然としたままだった。呆然と首を振れば、少しばかり眩暈がする。 「俺は、夢でも見てるんだな。なら――」 不意に握られた手が引かれた。あ、と思ったときにはワイルドの腕の中。温かいその腕にロレンスは言葉もない。どぎまぎとして、なにも言えなかった。 |