彼の人の下

 葬儀を翌日に控え、牙部隊の騎士たちまでがワイルドに最後の別れを告げていた。爪の騎士たちは皆が皆泣き腫らした目をし、近衛に復讐を誓っている。思い留まらせたのはエンデだった。
 本館の大講堂に置かれた棺。夜も更けた今、さすがに人気はない。ただ、ワイルドが暗闇の中を最後の旅に出ずともよいよう、燭台に仄かな明かりが灯されている。
 しん、とした騎士館だった。平素ならば笑いさざめく若い騎士たちの、剣の鍛錬をする者たちの声がそこかしこで聞こえる。いまはただ、皆がワイルドの旅立ちに思いを馳せている。
 こつり、と靴音が響いた。酒など一滴も飲んでいないのはその顔色からも明らか。それでも酔ったような足取り。
「……ワイルド」
 まだ棺の蓋は閉められていなかった。覗き込み、亡骸の顔をじっとロレンスは見つめる。まるで知らない他人のようだった。
「君は、約束したじゃないか。死なないと、死んだりしないと」
 致命傷となった胸の傷は星花宮でだろう、きれいに整えて隠されている。緩やかに組まれた指先にロレンスは触れてみた。
 冷たかった。生命のない、何かの塊。練り粉菓子でも触っているかのよう。弾力のないそれはワイルドのものとは思えない。思いたくない。
「君は――」
 込み上げるものを抑えきれなかった。騎士たちの前では冷静さを保っていたロレンスだった。エンデと共に若い騎士たちを止めてまわっていた。本当は、同意したかったのかもしれない。
「それ、でも――」
 あの近衛騎士を殺してもワイルドは帰らない。そもそもロレンスはもうわかっている。あの騎士もまた、犠牲者だろうと。エンデは彼の不注意、と解釈したらしいが、ロレンスはワイルドが狙われていると知っていた。そしておそらくあの騎士は、偶々ワイルドを殺す役割を、彼自身は知らずに担わされただけだろうと。
「怨みようが、ないじゃないか……」
 ワイルドが何をしたと言うのか。彼が狙われる意味がわからない。ワイルドは、王の庶子のその息子と言うだけだ。高位の貴族に繋がりなど皆無だし、生まれが賤しいと言い切ってよい程度の家に育っている。王位を窺える位置になどはじめからいない。
 それはロレンスも同じだった。確かに彼は現国王の甥に当たる。ワイルドと違って、公認された甥だ。だがロレンスは母から王家の血を継いでいる。公爵家に降嫁した国王の妹の子が王座につくなど正当性に疑問があるにもほどがある。
「そんなものを警戒しなければならないほどの愚物か。そんなことのために、ワイルドは殺されたのか」
 気づけば指先がワイルドの頬を撫でていた。一度として触れたことはなかった。それでもきっと、生前の彼の頬はこんな感触ではなかった。
 温かい、彼の頬に触れてみたかった。ロレンスは唇を噛む。うつむいた口許から、嗚咽が漏れだしていた。
「今更だ。本当に――今更だ」
 傍らに、いてほしかった。ワイルドだけがいてくれれば、どんなことにでも立ち向かえると思った。本当ならば、己の騎士として側に立っていてほしかった。彼の生まれと自分の生まれ。双方の血のせいで決して叶わない夢。
「違う。……ワイルド、違う」
 首を振るたび亡骸の上に涙が滴り落ち、彼の体に冷やされて流れ去る。星花宮の心遣いだろう、棺に納められた花々が虚ろだった。
「ワイルド」
 何をしているのだろうとロレンスも思う。それでも、止められなかった。物言わぬワイルドの唇に触れる指先。寸前で、ひくりと止めた。
「……閣下」
 振り返れば、マケインだった。蹌踉と歩み寄る片手に剣。覚悟を決めたその姿にロレンスは訝しくなる。唇を噛み、拳で涙をぬぐった。
「どうした、マケイン」
 ワイルドが重用した、彼の片腕。守るべきワイルドに死なれてマケインはどれほど悔いていることだろう。だが彼は激しく首を振る。
「私の、私のせいです。隊長が。こんなことになったのは――私のせいです」
「どう言うことだ」
「馬に――」
 痙攣を繰り返すマケインの手。それが移ったかのよう、マケインもまた笑っていた。己が手をじっと見つつ、彼は言う。
「薬を盛りました。――隊長なら、なんとかしてくれる。そう思ってました。でも、なんともならなかった。――えぇ、そうです。本音を言えばなんとかなるなんて、思ってもいなかった!」
 棺の傍らまで歩いてきたマケインだった。亡き騎士にそれでも忠誠を誓おうと膝をつくマケインをロレンスは止める。断じて許せなかった。
「どう言うことだ、マケイン。お前がなぜ、そんなことをする。なぜだ、ワイルドは殊の外にお前を買っていたものを。なぜだ!」
 薄暗い、静かな大講堂にロレンスの叫び声が響いた。反響して、いつまでも消えないかのよう。マケインは片膝をつき、ロレンスを見上げる。
「自分は、ホーンウィッツ伯爵一門の末端に属しています。上に命ぜられたら逆らえない。理由も問えない。一門とは、そういうものです」
「たったそれだけのことで――」
「えぇ、閣下にはそのくらいのことでしょう。ですが、我々にとっては生きるか死ぬかです。……母が、います。伯爵家の、小さいながら分家の一つで家政を見る大役を与えられました。隊長を売った、対価です」
 乾いた笑い声。ロレンスは言葉を失う。そんなもののためにとは言えない。下級騎士の家にとって、それはどれほどの安泰か。
「母を人質にとられました。馬に薬を投与しろと。指示に従わねば――」
「母御を殺すとでも言われたか。率直に言おう、マケイン。そんなことにはならん。お前が指示に従わなかったから老いた女親を殺す? 嫌がらせにも見せしめにもならん」
「そのとおりでしょう。閣下は正しい。――母だけであったならば」
 棺の縁をマケインは掴んでいた。後悔のその仕種。ロレンスは見ないようにした。怨みたかった。この男のせいで、ワイルドが死んだ。たった一人、ロレンスにとってただ一人のワイルドが、殺された。
「姪がね、いるんですよ。母の下で養育されています。早くに亡くなった姉の娘です。――分家の当主の弟に、目をつけられました。側女に寄越せだそうです。私の働き如何によっては、待ってやると」
 ある意味では出世ではないのかと思ってしまうのはマケインに対する思いのせいか。冷淡に返答をしないロレンスにマケインは気づかない。
「姪は、十二歳ですよ。まだ、女にもなっていない。私が隊長を庇えばどうなります。あの子にどんな運命が待っていると思います。十二歳の子供ですよ!」
 血を吐くようなマケインの叫び声。ロレンスは黙って顔をそむけた。こう言う無惨を平気で吐ける人間が、ラクルーサの中枢に今ものうのうといる。ロレンスの社交の範囲に彼らはいる。吐き気がした。
「だから。せめて――。せめて、最後のお供だけはさせてください。務めは果たしたんだ。母や姪に酷いことはされんでしょう。私も隊長もいなくなれば、放置されるだけだ。二人は、安全だ。だから……隊長……」
 よろよろと立ちあがり、マケインは剣を引き抜く。咄嗟にその腕を掴めたのは僥倖だった。振りほどこうともがくマケインを力で押さえつける。
「許さん」
「死なせてください。お願いです、せめて隊長のお供をさせてください」
「許さないと言っている。お前がワイルドの供だ? ふざけるな! お前のせいで、彼は殺された。お前のせいで。――共に行きたかったのは、私のほうだ。誰が、お前なんぞをやるものか」
 揉みあう二人の間に剣が光る。マケインの鋭い剣は何度となくロレンスの頬を掠めた。それでもマケインは引かない。ロレンスもまた許さない。
「お前はわかっていない。私から、ワイルドを奪ったと言うことが、わかっていない!」
 奪ったも奪われたもない。ワイルドはきっと友だとしか、思っていなかった。あるいは、それすらも迷惑だったか。ちらりとロレンスの脳裏によぎる。友達だろうと口にするたび、どことなく苦笑していた彼。避けられているわけではなかったけれど、人前で親しいふりは許してくれなかった彼。それなのに、この身に危険が及びそうになるや体を張って守ってくれた。腕の中に庇われた感触がいま、蘇る。叫び声も上がらなかった。ワイルドが愛したのは誰だったのか、ついに最後まで聞かせてもらえなかった。聞いていたならば自分はどうしただろう。ワイルドの思いをせめて知らせてやろうとしただろうか。以前ならば、した。いまはしないと言える。
「ワイルド……」
 ロレンスの唇から洩れ出た名に、マケインが天を仰ぐ。震える指が剣を握り直す。阻むのはまたロレンス。埒が明かんとついにはロレンスも剣を抜く。互いに構える剣と剣。ワイルドの棺の前で無様だとは思った。
「その辺にしといてください」
 かん、と剣が弾かれた。あまりにも軽い音で冗談のよう。淡く光るような透明の剣。エリナードの魔剣だった。二人の間に立ちはだかり、己の剣でもって騎士を止めて見せたその技量。背後でミスティが苦笑していた。
「マケインさん。ワイルド隊長のために死のうと思うんだったら、隊長のために生きてください。それが、隊長の望みでしたから」
「なにを、言っている……」
「知ってたんですよ、隊長は。あなたがホーンウィッツの一門だってことまでは知らなくてもね。『最近、なんか挙動がおかしい。言うに言えないことがあると見た。なら、こっちで調べてくれと言うことだろう』――以上、隊長の言葉でした。それに従って、星花宮は動いてたんですよ」
「そん、な……」
 がくりとマケインが膝をつく。在りし日のワイルドの声音を思い出してでもいるのだろう。どんな口調で、どんな表情でそう言ったのか、ありありとマケインは思い描くことができる。
「ご母堂も、姪御もこっちで確保しました。事情説明してる時間はなかったんで、誘拐させてもらいましたけどね。無事ですよ、二人とも」
「なら、俺は……なにをした。俺が……サジアス様を、殺した――。俺が――」
「後悔するんだったら、生きてください。それがあの人の望みでしたからね。それくらいは叶えてやってくださいよ」
「あなたはこれから母と姪を守ってひっそり暮らすといい。そこまで星花宮は援助しよう」
「少々都合がいいが……マケインさんが主犯で逃亡。血縁はとばっちりを恐れてやっぱり逃げた。言えないことが多々ある伯爵一門が手を貸したからきれいに逃げられたって線で行けるでしょうよ」
 そんなものでは許せない、ロレンスが言うより先にエリナードが何気なくその手を掴む。魔術師の手に込められた力ではない何かに、ロレンスは止まらざるを得なかった。




モドル   ススム   トップへ