今になって手が震える。昼間のワイルドを思っては。どうしようもないくらい、手が震える。ロレンスはじっと自分の手を見つめて、そして握り込む。震えよ止まれと言わんばかりに。そんなものではとても静まらなかった。 本当ならば様子を側で見ていたかった。けれど重大事故ではない、と示すために当たり前の顔をしなければならない。ワイルドは少々打撲しただけだと。 だからこそ、ロレンスは今夜の夕食を牙部隊の騎士館で取った。毎日、交代で双方の騎士館に赴くようにしている。だから、今日もそのとおりに。一時は青い顔をしていたベイコンも、そんなロレンスに同僚の負傷は大したものではない、と落ち着いた顔をする。 ベイコンですらそんな有様だった。騎士たちの動揺は更に深いのだろう。爪部隊ではきっとワイルドが平気な顔をして食事をしているに違いない。 それが、いたたまれなかった。自分のせいであれほどの傷を負った彼。腕の中に抱え込まれたこの体を思う。ワイルドに触れていた手が、肩が、どうにもならないほど熱く、痛い。 「どうしたものか……」 心配で仕方ない。彼は大丈夫だと言うだろう。平気な顔をし続けるだろう。けれど、本当にそうだとはロレンスには思えない。 昔もそうだった、と思い出すロレンスの口許は知らず緩んでいる。従騎士時代の彼も負傷のたびに何でもない顔をしていたものだった。 「意地っ張りめ」 子供ではないのだから痛いものを痛いと言っても恥でもなんでもないといまのロレンスは思う。誰彼かまわず言ってまわるような男でないのは承知のこと。だからこそ、自分にだけは本音を言ってほしいものを。 牙部隊の騎士館を抜け、ロレンスの足は本館へと。赴任直後と違い、今では徹夜で仕事を片付けるようなことはもうない。さすがに山積みになっていた仕事は片付いているし、何よりマケインとデクラークが手足のように手伝ってくれている。そのぶん、本来のロレンスの部下は存在すら忘れるほど頼りにならないのだが。 気づけば歩きながら自分の手を見ていた。治療後に、なぜかわからない。ワイルドに縋ってしまった自分。思い返すだけで顔に血が上りそうになる。いまもまだ手指にあのぬくもりがあるかのよう。ぎゅっと握り込んで何も見なかったふりする。もう何度もそうしているとは気づかないままに。 いつの間にかあのことを考えていた。いったいどう連想したものか、ワイルドの想い人のことを。宮廷を知らないではないエリナードにも覚えがないと言う理想を体現したかのような騎士。誰なのだろう、思いながら歩き続ける。 「本当に――」 守りたいのは、その人なのだろう、きっと。ワイルドほどの男が心を捧げ素晴らしいと言い切った男だ、守るのなんのとは彼はたぶん思ってはいない。友として、それは断言できる。 けれどもし自分ではなく、あの場にいたのがその人であったのならば、ワイルドはどうしたのだろう。そんなどうでもいいことを考えていた。 「あ……」 気づけば、ワイルドの私室の前。いつの間にか爪部隊の騎士館までやって来てしまっていたらしい。苦笑を一つ。ここまで来て見舞わないのもいかがなものか。内心に呟いてロレンスは扉を叩く。一瞬のためらいのあと、開いているよ、と声がした。 「ワイルド――」 体調はどうだ、続けようとした言葉は喉から先に出なかった。小卓を挟んで座るワイルドと、エリナード。二人の間には酒杯が。思わずつかつかと室内に入り込む。 「エリナード。どう言うことだ。お前は、どう言うつもりで――」 襟首を掴まんばかりのロレンスに、エリナードは唖然としたらしい。けれど花咲くようふわりと微笑む。そんなものには誤魔化されん、とロレンスは厳しい目をしたまま。向こうでワイルドがぽかんとしていた。 「正直に言って体調がよくないんですよ」 「ならばなぜ酒など飲んでいる。さっさと部屋に戻って寝たらどうだ」 「だから、飲んでるんですよ。これ、うちの師匠筋からいただいた体力回復に効く蜂蜜酒なんです」 ロレンスが、息を詰まらせていた。ようやく自分が何をしているか彼は理解したらしい。唇がかすかに開いたり閉じたり。ためらう彼をエリナードは笑って見ている。 「閣下もお疲れでしょう? よかったらご一緒に、どうです?」 「……いや、私はあまり、酒は。強くは、ないから」 「だったら茶でも淹れましょうか」 動揺もあらわなロレンスの背後でワイルドが険しい顔をしていた。そんな顔をするくらいならば二人でかたをつけてほしい、と願うエリナードの声はどこにも届かない。内心で溜息をつきつつ、手を閃かせれば現れる茶葉。熱い茶が入るまで、ロレンスは黙ったままだった。 「どうぞ」 なぜ自分が客をもてなしているのだ、エリナードは思う。この部屋の主人が黙然と座ったままだからだった。 「――すまない、エリナード。頭に血が上ったらしい」 その理由が自分ではわからない、と首をひねるロレンスにエリナードは溜息をつくことも忘れていた。ちらりともワイルドを見ず、ロレンスに椅子を勧める。 「これは、不思議な香りだが、よいな」 一口、茶を含んだロレンスが驚きの声を上げた。いままで知ったためしのない茶の味。不意にワイルドが顔を上げてエリナードを見据えた。 「中身はなんだ」 「警戒しないでください。薬草茶ですよ。うちの親父が持ってきたものの一つです。これも疲れに効くんで。とにかく体によさそうなものを適当に漁ってきたんじゃないですかね、あの人は」 肩をすくめたエリナードにワイルドはばつが悪くなった。彼がロレンスに得体の知れない毒物を盛るとは思ってもいなかったものを。 「疲れてるんですよ、隊長。だから過敏になってる。面倒なのでさっさと回復させてください」 言いつつ蜂蜜酒を注ぐ。リオン特製の蜂蜜酒は、こう言うときのためだろう、酒精はだいぶ抜かれている。おかげでさほど酔いもしなかった。 「エリナード」 「なんですか、閣下」 「すまなかった。礼も言っていなかったというのに、私は」 「なんのことです?」 とぼけて笑うエリナードにロレンスは律儀に頭を下げていた。それにこそ、エリナードは慌てるというのに。高位の貴族にここまで丁重に出られれば、エリナードなどどうしていいかわからない。 「頭を上げてください。俺が自分の勝手でしたことです。話を大事にしたくなかったのは、師匠も同じですから」 だから、内々にワイルドの傷を治した。エリナード自身が体調を崩してまでそうした理由はただ一つ、フェリクスのため。 「言ってたでしょう? あの人は親友の孫だからちゃんと守りたいって。だから俺は手足になるだけです。せめてもの親孝行ですよ」 だから気にしないでくれと笑うエリナード。今更ながらワイルドもまだ礼を言っていないことに気づく。中々言いにくかった、今となっては。それでいいとまで、言われてしまっているのだから。 「だが、そのせいでフェリクス師には、ずいぶんとご迷惑をかけただろう」 「どうですかね。迷惑だなんて思ってないと思いますよ。そんなことを思うくらいなら最初から引き受けなきゃ済む話ですから」 「それでもお前まで、体調を崩した」 「その点はまぁ、これでもかとばかりに叱られましたがね。まだ耳が痛い」 わんわんと鳴り続けている酷い耳鳴りを聞くようエリナードは顔を顰める。それに騎士二人は小さく笑った。笑い声に気づいては二人、顔を見合わせる。どちらからともなく、そっぽを向いた。 「そういや、エリナード。お前はフェリクス師の実子では、ないんだよな?」 「そりゃそうですよ、隊長。うちの師匠は浮気ができるような人じゃないんです。あれでタイラント師一筋ですからね」 自分を作るような余地はないと笑うエリナードにロレンスがなぜか頬を染めた。あまりにも直接過ぎる言葉だったせいかもしれない、とエリナードは多少の後悔をしないでもなかった。 「なら、お前の親御のことを尋ねてもいいか」 「よせ、ワイルド。それは――」 「いいですよ、俺はあんまり気にしない質ですから」 にこりとエリナードが笑った。それにワイルドは尋ねてはならない問いだったのだと知る。ロレンスは公爵の子息として宮廷に出入りするうち、そのようなことも知っていたのだろう。 「生まれたのは田舎の村ですよ。ミルテシアの北のほうかな。今となってはよくわかりませんが」 ごく幼いころは可愛がられた、とエリナードは言う。父も母も優しかったのを覚えていると彼は言う。けれど、ある日彼は不思議を口にするようになった。 「それからですね、地下の貯蔵庫に押し込められて。どれくらいかな? 少なくとも、連れ出されたときに二歳の妹にはじめて会ったんで、二年以上はそのままだったんでしょうね。そのとき俺は、七歳でした」 ワイルドが青い顔をしていた。ロレンスが気づかわしげにそんな彼の手を取る。それすら今のワイルドは気づかないらしい。 「連れ出してくれたのが星花宮の魔導師の一人でした。ほら、この前のセリス師ですよ。俺に魔力があるのも、不思議なことを言ってるのもそのせいだって教えてくれて、ここに連れてきてくれて、師匠に会わせてくれました」 当時のことを思い出すのだろう、エリナードは実に幸福そうに微笑んでいた。ワイルドにはわからない。黙ってただ首を振る。 「……俺は、自分の血を恨んだ。お前は、そうは思わなかったのか? なぜこんな風に生まれたとは、思わなかったのか?」 「――なるほど、そんな考えもありますね。ちょっと新鮮です」 「どう言う――」 「別に、たいしたことじゃないですよ。そんな風に考えたことがなかっただけです」 なぜだろうとワイルドは思う。ロレンスを見やり、今更に握られた手に気づいては苦笑して引き抜く、大丈夫だと。ロレンスは黙ってワイルドを見ていた。 「俺はただ、あるものはある、ないものはない。こう言う風に生まれたなら、あるものを有効活用したほうが建設的だな、と思うだけです。あるものを恨んでも、ないものを羨んでも、どうにもならないものはどうにもならない。でしょ?」 そう思い切れれば、どれほどいいのだろう。自分にそれほどの勇気はない、ワイルドは思う。この身に流れる血は断ち切りようがない。すべてを失う覚悟をして、はじめて血の絆も断てる。そしてそのとき、自分は心に抱いた最も大切なものをも失う。知らずうち、引き抜いたはずの手でロレンスのそれを握っていた。 |