彼の人の下

 気分は明るくなったものの、なにも冗談をするために二人きりになりたがったわけでもあるまい。警戒するワイルドにエリナードは肩をすくめる。
「それで、本題はなんなんだ」
 私室に入るなりワイルドは腰に手を当てエリナードを詰問するような形になってしまった。そこまでぴりぴりとしていたつもりのないワイルドだ、そうした自分にこそ驚いて目を丸くする。
「それが本題ですかね。――疲れが取れてないんですよ」
「どう言うことだ」
「まず座りましょうって」
 まるで自分の部屋のようなことを言い、エリナードは勝手に酒杯まで取りだして座り出す。特段、反対する必要もないことなのに苛立つ。調子が狂わされている、そう思うせいかもしれない。
「ミスティが言っておいたって言ってましたけどね。怪我が治っても――」
「事実までは消えない、だったか? それはちゃんと聞いていたがな」
 だから自重して今日はおとなしくしていた。言えばエリナードが真摯にうなずく。それでワイルドにもわかる。足らないのだと。エリナードは言っていたではないか、肺まで届く傷だったと。あの場に彼がいなかったならば自分はおそらく死んでいた。いまになってぞくりとする。
「だからこれ、飲みましょうよ」
 にこりと笑ったエリナードが持参の酒を酒杯に注ぐ。綺麗な色合いの酒だった。本当に酒だとは思っていなかったワイルドだ、さすがに怪訝な顔になる。
「正直言って俺もぼろぼろなんですよ。親父から一応、動くのに支障がない程度には魔力を分けてもらいましたがね」
「俺の傷と同じ、と言うことか?」
「むしろこっちは根本の体力を削られたって感じですね。歩くだけで息切れ起こしそうですよ」
 からりと笑うエリナードにそんな影はない。が、先ほど目の下に見つけた影をワイルドは思い出す。虚勢を張っているのかもしれないと思えばなぜか笑えた。
「それで飲もう、か? 星花宮ってのはどんなところなんだ、まったく」
「いやいや。誤解ですよ。これ、リオン師の蜂蜜酒なんですよ。神殿の秘薬入りだそうで、薬じゃないんですけど、体力回復には効きますよ」
 ワイルドにも聞き覚えがある星花宮の魔導師の一人、リオン・アル=イリオ。エイシャ女神の総司教も務める男と聞いている。その神殿のことだろう、たぶん。
「どれだけリオン師に頭下げたと思ってるってぷんぷん怒ってましたからね。せっかくなんで飲みませんか」
 差し出された酒杯を口許に運べば、よい香りがした。含んでも喉に滑らせても、焼けるような酒の感覚はまるでない。そのぶん体に満ちて行くような、そんな気はした。
「なんだ、リオン師とフェリクス師は折り合いが悪いのか?」
 小さく笑って酒杯を掲げれば、エリナードもまた飲んでいた。大事そうなその仕種に、ふと違和感を覚える。リオンの酒、ではないのかもしれない、彼が飲んでいるのは。フェリクスが持ってきてくれた宝物のような手つきだった。
「いや、別に仲が悪いわけじゃないと思うんですけどね。とりあえずお互いに相手をまともに褒めるってことはまずしません。顔を合わせちゃ罵倒してるような仲ですけど……だからたぶんあれはきっと、認めてるんでしょうよ」
 互いの力量を、歩く道を。エリナードの言葉にワイルドは眩しさを覚える。魔術師と騎士と、違う場所を見て歩いている。けれど自分は騎士として、その二人の魔術師のようでありたかった。不意に青い思いが浮かんで遠くなっていく。隣で認め合いたい人は、そうはできない。
「いいものだな、そう言うのは」
 ふ、と笑えば自嘲の響き。エリナードはあっさりと見逃してくれた。しばらく黙って酒を飲む。酒、と言うよりは滋養によい飲み物を飲んでいる。明日のために。一刻も早く回復するために。
 明日はまた、なにが起こるかわからない。今日は事件ではなかったのかもしれない、ただの事故だったのだろう。だが明日は違うかもしれない。そのときのために万全でいなくてはならない。
 そんな焦りは確かにワイルドにもあった。だがゆったりと、傍若無人にも足まで組んで酒を飲んでいるエリナードを前にして苛立つ無様は見せたくなかった。薄暗い室内はいつの間にか暗さを嫌ったのだろうエリナードの手で魔法の明かりが灯されている。
「――道理で眩しいと思った」
「何がです? あぁ、魔法灯火か。目障りでしたか」
「いいや。どっちかって言ったら、眩しいのはお前の髪の毛のほうだな。きらっきらの頭しやがって」
 言えば冗談めいた手つきでエリナードが髪をかき上げた。わざとらしい流し目は誰に習ったと言いたくなってくる。
「見てたのは、俺の髪ですか?」
 言われた瞬間、ぞっとした。そのときにはもう剣を抜き放ち、エリナードの喉元に突き付けている。それでも彼は一切揺らがなかった。この胆力は魔術師にしておくのは惜しい、そう思ってしまうほど。
「……どういうことだ」
「見てりゃわかりますよ、そんなの。魔術師は観察眼が鋭いものと相場が決まってますしね。で、剣。引いてください」
 煩わしいだろうと言いたげにエリナードが苦笑する。それだけのことで危険は感じていないとも。さすがに悔しくなっては来る。が、若い騎士ではあるまいし、激高して突き刺すような真似はしなかった。
「ちなみに、俺は口は固いほうですから。俺の口から漏れる心配は無用ですよ」
 言ってもワイルドはうなずかない。何も見ていない目が、ただ床に向かって伏せられていた。これはぬかったか、と内心で溜息をつくエリナードだったが、今更言葉は覆せない。
「ご心配なようなんで言っときますけどね、気づいてるのは俺だけかな。いや、師匠もなんか変だなくらいは気づいてたみたいです。あとは誰も気づいてないと思うな」
「ミスティは。お前の言葉で言うならば、魔術師は観察眼が鋭いのだろうが」
「あいつは色恋に疎いんです。恋愛対象は魔法って言いきってるような男なんで」
「――お前は」
「十五歳のときには同性にしか興味がないって理解してましたからね、俺は。そのせいでしょうよ。逆に言えば、騎士がたはだから、気がつかない」
 意味がわからないと首を振るワイルドの酒杯にエリナードは酒を足してやる。酔えはしないだろうけれど、こんなものでも飲んでいれば気は楽になる。
「騎士ってのは、世代を繋ぐのが当然でしょう? だから自分がどうしたいのか、考える必要がないと言うか、考えないようにしてるのか。好きも嫌いも遠くにやっとくような人たちでしょうが」
 家のために結婚をし、子を作る。意外と下級騎士のほうがその傾向は強い。高位の貴族ともなれば婚姻は婚姻、愛人は愛人、として暮らすものもいるのだけれど、下級貴族でそれをすれば家計が立ち行かなくなる。
「多少はね、その気持ちもわからなくはないんですよ」
「若造が。ずいぶん吹くな」
「俺のほうが年上ですけどね。――つまり、そう言うことです。ご覧のとおり、俺はあなたから見れば五歳やそこらは優に下に見えるでしょう?」
「十歳は下に見える」
「……まぁ、その辺は親父譲りの童顔ってことにしとくか。忌々しいな、もう。――いや、独り言です。でもね、俺はこれでも力ある魔術師です。遅かれ早かれ、星花宮の魔導師を名乗るようになる」
 じっとエリナードは自分の手を見る。そこにあるのはなんだろうかとワイルドは思う。騎士の自分ならば剣だと、断言できるだろうか。いまは自信がなかった。
「だから俺は、この見た目のまま、死にますよ。百年経っても、このままです」
 つい、とエリナードが目を上げ、ワイルドを真っ直ぐに見つめた。見つめられたワイルドこそ、驚く。魔術師は姿形が変わらない、とは聞いていたけれど実感はない。だが。
「たとえばね、俺が誰かに惚れたとしますよ。相手は変わらない俺の隣にずっといてくれますか? その覚悟を問えますか。まぁ、実際あったことではあるんですけどね。それで別れましたが。――だから俺は、簡単には惚れたとは言えない」
 世代を繋がなくてはならない騎士とは逆で同じ意味。エリナードもまた、好き放題に選べる余地がない、そう彼は言う。
「同じ魔術師なら?」
「えぇ、結果として、我々星花宮の魔術師は同僚と恋愛するのが多くって、タイラント師を嘆かせてますよ。たまには可愛い嫁さん連れて来いって」
 魔術師は男性が圧倒的に多いから、とエリナードは笑った。それでも肩をすくめエリナードは言う。
「俺個人のことなら、同僚はだめですね。俺にとっては兄弟みたいなもんなんで。逆に気心知れてるからいいって言うやつもいますけどね」
「なら、どうするんだ」
「今のところは師匠推薦の娼館で遊んでますよ。ほら、この前の青薔薇楼。問題はいつ俺が遊びに行ったか師匠に筒抜けってところですか。さすがにばつが悪い」
「なら口説かれろ」
 不意に身を乗り出してきたワイルドにエリナードは微笑みを返す。優しげな顔をして伸ばしてきた指先は、手痛く額を弾いていた。
「痛いだろうが!」
「妙な冗談を言うからでしょうが。俺は他の誰かに心を捧げた男に抱かれてやるほど堕ちてませんよ。身代わりはごめんです。そこまでふざけたことぬかすならあちらをちゃんと口説いてからにするんですね。玉砕したら慰めてあげますよ」
 にやにやされて、ようやく途轍もない無礼を口にしたとワイルドは青くなる。が、エリナードはまるで気にかけてもいなかった。ただの冗談だと言うことにしてくれた。
「……できるか」
「手段はあると思いますけどね」
「たとえば」
「畳みかけるもんじゃないですよ。――そうですね、一番究極的な手段としては身分を捨てること、ですかね。この前まで、外郭の外に青き竜って傭兵隊が駐屯していたでしょう? 何度か戦闘に随伴したことがあるんですが、あそこにはある伯爵家の当主の弟だった男ってのがいますよ。絶対に家名は明かしたがりませんがね」
 正に究極の手段ではある。だからこそ、エリナードの冗談だろうとワイルドは思う。仮に自分一人身分を捨ててもどうにもならない。この身に流れる血までは否定できないし、ならばどうあっても彼の隣にはいられない。あまりにも危険が過ぎる。
「根本的に。俺だけ身分を捨ててもどうにもならんな。向こうは……俺のことなんざ、存在すら理解してないだろうに」
 自らを嘲笑うワイルドは気づかなかった。エリナードがまじまじと彼を見つめ、そして呆れたと言わんばかりに肩をすくめたのなど。




モドル   ススム   トップへ