彼の人の下

 ワイルドは改めてきちんと胴着を身につける。外衣こそ羽織らないものの、騎士団の平服姿だ。それに訝しい眼差しのロレンスを感じつつワイルドは手早く血に濡れた布を取りまとめておく。あとでエリナードかミスティに頼むとしよう、と。隠蔽するつもりならばマケインにも見せられない。ついでとばかり水差しから直接煽り、口を漱いでは吐きだした。
「よし、行くか」
 血の痕跡を消し、ワイルドは部屋を出ようとする。咄嗟にその腕をロレンスが掴んだ。
「君は……なにをするつもりだ。どこに行くつもりだ。ミスティに言われたのを――」
「覚えてるがな。ここで俺がこもったりして見ろ。隊長はやっぱり大怪我だったんだって言われるのが落ちだろうが」
「だが――」
 実際問題としてワイルドも多少頭がくらくらとするのを感じている。傷は治っても怪我をした事実が消えるわけではないと言うのはこう言うことなのか、それとも単に血を失いすぎただけなのか。
「あんたもあんまり心配そうな顔はしないでくれると助かる」
 嬉しいが。内心で呟きワイルドは慌てて首を振った。気取られる無様だけは、避けたい。なんとしても。ロレンスは気づきもせず、じっと床を見ていた。
「……私のせいだな」
「だからな、ロレンス」
「私があの場でぼうっとしていなければ、君が怪我をすることはなかった」
 注意が散漫になっていたとはロレンスは思ってはいない。だが、それでもどこかが足りなかったから、ワイルドが身を挺してこの身を庇う羽目になった。それを悔いている。あれほど失いたくないと思った友が自分のせいで傷を負った。
「だから、偶々だっての」
 その場にいたから。ちょうど目に入ったから。それだけのこと。言い放つワイルドにロレンスは力なく首を振った。心配顔は部下の前で見せるな、言われている意味はわかる。ならば、いまだけ。
 気づけば上がっていた自分の手が、ワイルドの胸元に触れていた。そのまま彷徨い、戸惑いながら軽く肩を掴む。あの瞬間、守られた場所にロレンスはいる。
「死にゃしないから。そんな顔するな」
 見えはしなかった、ワイルドには。己の腕の中でロレンスが動揺している。震えんばかりにして自分を案じている彼をワイルドは強いて考えない。よけいなことを考える前に、とばかり笑い飛ばした。
「あのな、ロレンス」
「……なんだ」
「そんな顔されると、なんと言うか。口説かなきゃいけないような気になってくるだろうが?」
「君は……! どうしてこんなときに、そんなことを!」
 かっと顔を上げるロレンスの紫めいた目を悪戯っぽく覗き込み、ワイルドは笑ってみせる。身を寄せたままのロレンスの腰をわざとらしく抱き寄せまでして。
「それとも、口説いた方がいいか?」
 物も言わずロレンスが飛び退く。そういう姿を見たくはなかったが、このままずっと抱いているよりよほどいい。からりと笑ってワイルドは部屋を後にする。後ろから腹立たしいと言わんばかりのロレンスの足音。すぐ追いついて隣に並んだ。
「君はそういう冗談ばかり言っているから、誤解されるんだ」
「冗談じゃなかったら、どうする?」
「な……。それは……まさか」
 うろたえたロレンスにワイルドはにやりとした。からかわれた、と知ったロレンスが腹立ちまぎれ、爪先を踏みつけてくる。さすがに背を殴るような真似はしなかった。してもいいのに、とワイルドは思っていたのだが。
 文句を垂れつつ歩いていたロレンスだったが、さすがに演習場に出た途端、平素の顔に戻る。騎士たちの尊敬を一身に集める参謀の顔に。それを感じつつワイルドはほっとしていた。
「隊長!」
 遠くで気づいた騎士が喜びの声を上げた。負傷はさほど重くはなく、こうして無事に顔を見せてくれたと。片手を上げて応えるワイルドの横顔をそれとなくロレンスは見ていた。
「……隊長」
 背筋を伸ばし、そして崩れるよう走り寄ってきたのはマケイン。ワイルドの無事を確認して泣き出しそうな顔をしていた。
「なんて顔してやがる」
「ですが……あれは、万が一のこともあったかと……」
「当たり所がよかったんだろうよ。酷い打撲にはなってたらしいがな。刺さっちゃいなかったな、ほとんど」
 そうだろう、と問われてロレンスは肩をすくめる。見てはいた。手当てをしもした。だが「参謀」が「隊長」の負傷を手ずから見たのか、と言われれば不自然極まりない。ただその場にいただけだ、と示すのが精一杯だった。
「エリナードは傷の手当てがうまいな。さして痛くもなかったわ」
「それは、若い者も言っています。なんでも星花宮では生傷が絶えないせいで上達したのだとか」
「どんなところだ、星花宮」
 長い溜息をつく隊長の姿にマケインがようやく笑みを浮かべた。その二人の姿にロレンスは今更ながらワイルドが言っていた言葉の意味が染みる。慕っている部下たちに顔を見せなければならないと彼は言った。こうして出てくるだけで騎士たちはどれほど安堵していることか。しみじみとよい指揮官なのだとロレンスは思った。
「ですが酷い打撲とあれば、あまり体を動かすのはよくないことでしょう。隊長は今日はおとなしくしていてください」
「いや……俺は」
「隊長?」
 にっこり笑うマケインに圧された形を取ってすごすごとワイルドは引き下がる。肩まですくめて不本意ながら致し方ないと。
「ロレンス閣下。お忙しいとは存じますが、隊長を部屋に放り込んでいただけますか?」
「承知した」
「おい、マケイン!」
「放っておくとこれ幸いと遊びに行きかねませんからね、隊長は」
 いったい彼は自分をどう思っているのだろう。さすがに軽い頭痛を覚えるワイルドだ。が、心配されているのは伝わった。ひらひらと片手を振って不承不承、騎士館に戻る。もっともらしげな顔をしてロレンスがまたついてきた。
「おい」
「マケインに頼まれたからな。放っておくと遊びに行きそうだ? まったくそのとおりだ。彼はよい副官だな。隊長のことをこの上なくよく見ている」
 褒められながら貶されてワイルドはくすぐったい気分だった。騎士叙任を受けたときから側にいてくれたマケインだ。片腕のような男を褒められるのはやはり嬉しい。
「ちゃんとおとなしくしている。誓う」
 結局、部屋に居座ろうとするロレンスをワイルドはやっとのことで追い返す羽目になった。本当ならばいてほしい。側で他愛ないことでも喋っていてほしい。けれどそれをすればやはり隊長は重傷か、と疑われてしまう。一人きりの部屋の中、まだ暮れてもいないから演習中の声はここまで届く。
「あいつも……」
 ふとワイルドの唇に苦笑が浮かぶ。寝転がったまま天井を見やり、マケインを思う。よほど心配をかけてしまったのか、彼は槍の持ち主のことを一言も言わなかったな、と。あるいは何かを言えば自分が罰せざるを得ないとでも思ったか。
「さて、どうするかね」
 マケインが意図的なものではないと言ったのならばそうだろう。後ろに控えることが多いマケインだが――何しろワイルド自身が先頭を切って飛びだすことが多々ある――腕は決して悪くはない。騎士として水準以上だ。その彼が槍に細工の跡が見られなかったと言うのならば間違ってはいない。
 ならば単に事故か、と言われれば首をかしげる節もある。あまりにも時宜を得ている、そんな気がするせいだろう。魔術師は結界を張ったおかげで襲撃不能。囮は続けているものの、ワイルドとて死にたくはない。相手に決定的な隙など与えていない。そして今日の事故だ。
「本当に……事故か?」
 疑えばきりはない。できることならば、疑いたくもない。槍の持ち主は手塩にかけて育ててきた自分の配下だ。
「いや……」
 持ち主が即座に陰謀に加担していると見るのは早計か。槍に細工をされただけと言う線もある。否、マケインがそれを否定した。くるくると回る思考に疲れるより早く、ワイルドの肉体のほうが疲労する。これが傷を負った事実、というものか。思いつつワイルドは眠った。
 這いずるよう起きたのは、もう夕食のころだ。転寝をして、少し体調も良くなった。このまま部屋にいれば誰かが呼びに来るか、そうでなければあらぬ心配をかけるかだ。軽く頭を振って立ち上がり、身なりを整えては食堂に。そこで仰天することになった。さすがに顔には出さなかったはずだが、内心では天地がひっくり返るほど驚いている。
「あぁ、隊長。打撲、痛みます?」
 けろりとした顔をしたエリナードがいた。何事もなかった顔をして、若い騎士たちと歓談していた彼。魔法の行使に疲れ果て、気を失った事実など夢のことだと思わせるほど。
「いや? なんともないな」
 それはよかった、エリナードが笑う。その目の下にうっすらと影を見てワイルドはほっと息をつく。平気な顔をしているだけで、彼もまだ疲労が抜けきってはいないようだった。
 通常の騎士団よりずっと家庭的と言うべきか傭兵隊じみていると言うべきか、竜騎士団の食事風景は明るい。わいわいがやがや若い者が喋り、時には歌う。指揮官も若い者の食卓に混じったりして話に花を咲かせる。そんな風景にしっくりとエリナードは馴染んでいた。騎士団の平服姿であれば、彼も騎士の一人と言われて信じただろう。
「そうだ、隊長。いい酒があるんですよ。ちょっと飲みません?」
 にやりと笑ったエリナードが手を閃かせれば現れる酒瓶。ずるいぞと叫ぶ騎士にエリナードは笑い返す。
「ここで飲むと盗られそうだな」
 まるで赤ん坊のよう酒瓶を抱きしめるエリナードの道化ぶりを誰彼なく笑っていた。マケインまでつられて笑っている。
「じゃあ俺の部屋。来るか?」
「エリナード、気をつけろよ。隊長好みの顔してるからな、お前!」
 笑う騎士にワイルドはいかにも、と言いたげにうなずく。わざとらしくエリナードを覗き込んでも彼は動じもしない。
「まぁ、確かに……好みではあるんだが」
「おや、そうですか? 光栄って言っときますか」
「でもな、お前を口説くと漏れなく首筋が冷えそうで」
「なるほど。確かにうちの馬鹿親父が怒鳴り込んできますね、それ」
 まるで経験がありそうな口ぶりで、あながち冗談とも思えなくなったワイルドは知らず吹き出していた。




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