針と糸同様どこからともなく現した布をエリナードに手渡され、ロレンスは唇を噛む。なにが起こるのか、今更の不安。ワイルドは淡々と落ち着いていた。 「ちょっと待っててください」 そしてエリナードは視線を宙に投げる。二人を待たせてではあるが、自分一人では手に余る。むしろ、このままではワイルドの命が危ない。いまは単に出血を止めているだけだ。傷が治るまで血を止め続けるわけにもいかない。 「タイラント師。こっちの状況送りますんで、見てもらえますか」 あえて二人にわかるよう、エリナードは声に出す。それでも彼らにタイラントの声は聞こえないのだが、なにも知らないでいるよりはまだよいだろう。 「えぇ、はい。とりあえず縫うだけ縫ってあります。いや、大事に……」 言葉を切り、エリナードはワイルドを見つめた。問いにワイルドは無言で首を振る。現時点でこれが事件なのか事故なのかは判断がつかない。ならば密やかに処理するべき。エリナードがうなずき返した。 「と言うわけで、内密に。――そりゃわかってますよ、でもタイラント師が跳んでくるより俺が無理するほうがまだマシだ。でしょ? じゃあ、準備しますんで、お願いします」 なにか二人にはわからない、がワイルドの負傷を癒す手段はあるらしい。ロレンスにわかったのはそれだけだった。むしろエリナードがずいぶん緊張している、それが気がかりなほど。 だがワイルドは己の肉体だ、わからないはずがない。あの瞬間、口の中に感じた血の味。体の表面にだけついた傷では断じてない。 「エリナード。まずお前の所感を聞かせてくれるか」 準備をしながらでいい、ワイルドは手振りで示し、動くなとエリナードに渋い顔をされた。それだけで傷の重さがわかるというもの。 「俺は治療者じゃないんでざっくりですよ? それでよかったら。――そうですね、肺まで届いてる感じです」 重たい槍の穂先が飛んできたのだ、それくらいの傷にはなっているだろう、思っていたワイルドは落ち着いたもの。狼狽したのはロレンスだった。 「……ワイルド、そんな!」 「落ち着け。怪我したのは俺であんたじゃないだろうが」 「だからだ! どうして……どうして私を庇ったりした」 「咄嗟に体が動いたんだ。仕方ないだろうが」 エリナードが仕事をしながら肩をすくめたのがワイルドの視界の端に映る。なんのことだかさっぱりだったが。まだ言い募ろうとするロレンスをエリナードが手で止めた。 「まずはやっちゃいますよ。タイラント師はこっちに来れません。ちょうどこれから宮廷で会合があるそうです。すっぽかすと……」 「とんでもない事態になるな、それは」 「でしょ。なので、俺がタイラント師の歌を中継します。だから、何があっても絶対に邪魔しないでください、いいですね」 ロレンスをじっと見つめて言うエリナードに彼は嫌な顔をした。またも念を押されるほど動揺していると見られたらしいと。それにエリナードは苦笑する。 「違いますよ。さっき、俺が血を止めてるって言いましたよね。タイラント師の癒しの歌と同時に、こっちの血止めは解除せざるを得ません。――つまり?」 「出血する、と言うことだな、エリナード」 「はい。いままで止めてたぶん、どばっと。俺がとどめを刺してるんじゃないかと疑われるくらいに血が出るはずです」 「……しつこいぞ、エリナード。私は君を信じると言っているだろうが」 「念のためですよ。血を見ると動揺する人ってのはいますからね」 たとえ騎士であっても。言い返そうとしたロレンスより早くエリナードは言う。そこには実戦を見たものの目があった。ロレンスは高位の貴族の子息として、最前線に出た経験が少ない。エリナードは違うのだろう。気圧されたようロレンスはうなずく。 「準備できました。お願いします」 エリナードの手元にはいつの間にか水盤があった。静かに水のたたえられた水面にエリナードは軽く指を触れさせる。水紋ひとつ、起きなかった。その異常に驚くより先、ワイルドの喉からせりあがってくるもの。咄嗟に渡されていた布で口許を押さえる。白い布はすぐさま血に染まった。 「ワイルド!」 大丈夫か。問おうとしたときロレンスもまた背の傷を押さえることになった。縫ったばかりの傷から、縫い目を無視してあふれ出す赤い血。いまこそエリナードの忠告が身に染みる。事前に言われていなければ、間違いなく自分はエリナードを止めていた。 それに気づいた様子もなく、エリナードは低く詠唱を続けていた。演習場では見たためしがない真剣なエリナードの顔。軽く伏せた眼差しの先、きっと魔法がある。 「……あ」 ロレンスは声を上げ、慌てて抑える。歌声が、聞こえた気がした。エリナードの声ではない。タイラント・カルミナムンディの歌を中継する、そう言っていたから彼の声なのかとも思った。けれどなぜかロレンスもワイルドも違うと感じた。人の声ではない。それは。あるいは。 「水の、音……」 エリナードが触れている水盤から立ち上る音だった。断じて人の喉が奏でる声ではなく、けれど人めいて甘く豊かな。驚くワイルドは、再び驚く。呼吸が楽になっていた。口の中の血の味すら、流れて行く。 「血が、止まっていく。傷が……」 塞がっていく。そっと背の傷から布を外したロレンスの呟き。手にした布はじっとりと重いほど赤くなっているというのに。こうして見ている目の前で、わかるほどの速さで傷が治っていく。 エリナードの片手が上がった。視線を伏せたままの彼なのに、迷うことなくワイルドの肩先に触れる。一段と低くなる詠唱の声。エリナードの額に汗が浮いていた。 「治った……」 呆然としたロレンスの声と共にエリナードが水盤から手を離す。同時に彼は倒れ込み、すんでのところでワイルドが抱きとめた。 「大丈夫か。治療してもらった身で言うことじゃないが、顔色が酷いぞ」 「そりゃ、酷いに……」 決まっている。呟くと言うより絞り出すような声。詠唱していたのと同じ声とも思えない。あの安定していた声とかけ離れて罅割れ掠れたエリナードのそれ。 たとえ完治していたとしても傷を負った事実まではなくならない、親友がその師に説教されていたのはいつだったかな。ぼんやりとエリナードはそんなことを思った。ワイルドの肌はあの時のタイラントの言葉どおり、いまだ熱を持って熱い。それが冷え切った体に心地よかった。扉が叩かれる音になど反応したくない。 「……もしかして、取り込み中だったか。それは邪魔をした」 のろのろとエリナードは身を起こし、振り返る。にやりと笑うミスティがいた。それに笑い返す気力もいまはない。 「この状況で戯言ぬかせるあんたを心から尊敬するわ」 「それは光栄。それでエリナード。どうするんだ」 無造作に室内に入ってきた魔術師は何があったかすでに知っているのだろう。ロレンスはそちらは放置してワイルドの背に服を着せかける。改めて触れた肌はひどく熱くて戸惑った。 「死にゃしねぇが死にそうだ。俺の部屋に放り込んどいてくれ。用事が済んだらあの人が跳んでくるから」 「それで済むのか?」 「間抜けを罵られて泣かれりゃ済む」 「済んでるようには思えんな、それは」 「うっせぇな、言うんじゃねぇよ。馬鹿やろう……」 零れるよう言い切ってそれきりエリナードは意識を失った。それにロレンスは改めて酷い負担を強いたのだと気づく。今更ながら申し訳なかった。 「タイラント師の歌を中継した、と言っていたが。何があったんだ?」 ロレンスの問いたかったことを服を着つつワイルドが問う。それにエリナードを嫌そうに抱き寄せたミスティがぎょっとした。 「中継した? ……この、馬鹿が! お前は死にたいのか!」 「おい、ミスティ」 「我々が四魔導師の魔法を中継するとはそういうことですよ。途轍もない技術と魔力にさらされて、こちらの魔力も体力も攫われる。よくまぁ……この馬鹿は倒れるだけで済んでいるものだ。タイラント師を尊敬する」 後半は呟くようだったから、あるいはそれはタイラントに感嘆したのではなく、エリナードの腕を褒めたのかもしれない、ロレンスはふとそんなことを思う。 「タイラント師の癒しの歌ならば、傷自体は塞がっているはずです。肉体の奥深くまで、完治しています。が、あなたの体は傷を負ったことを忘れてはいません」 「と言うと?」 「打撲でもなんでもかまいません。言い訳を作って最低限、今日一日はおとなしくしていてください。いいですね? エリナードの努力が……いえ、タイラント師の歌が無駄になります」 こほん、と嘘くさい咳払いをしたミスティにロレンスの口許がほころぶ。エリナードほど明朗な男ではないだけに牙部隊では苦労もしたミスティと知ってはいたが、意外と可愛いところもある、そんなことを思う。 「エリナードに感謝を」 頭を下げるロレンスに思い出したのかワイルドも追随した。それにミスティが首を振る。魔法を行使したのはタイラントであってエリナードではないと。 「だがな、こいつの素早い判断がなかったら、大事になってた」 「それ以前に君は生命の危険があったはずだが」 「それを言うな、わかってる。――ミスティ」 「えぇ、軽く見てまわりましたが。どちらとも取れないですね。槍の持ち主は爪の騎士だったのでマケインさんに同行していただきましたが、意図的と言い切れるだけの痕跡はないと彼も言っていました」 「お前の判断は?」 「正直に言って私はエリナードほど剣の腕がよくない。槍は振るったこともない。私の目よりマケインさんの目のほうが確かでしょう」 判断がつかないのだから何も言わない。ミスティの態度は正しいのだろう。それでも少しワイルドはもどかしい。 「事故で通すなら、その方が騎士団内の動揺は少なくて済むのではないかとは思います。もういいですか? これを溺愛している人がくる前に部屋に放り込んでおきたいんですが。その場にいると私まで怒られる」 肩をすくめたミスティにワイルドは小さく笑う。どうやら内密にフェリクスが訪れるらしい。完全に隠蔽するつもりだろうミスティがエリナードを抱いたまま魔法で掻き消える。その姿をロレンスは最後まで見送り、無言で頭を下げていた。 |