彼の人の下

 他愛ないことを話しているうちにとろとろとロレンスは眠りにつく。よほど疲れていたのだろうとワイルドは思う。むしろ肉体の疲れと言うよりは精神的な疲労のほうが強いか。案じられているありがたさと不安。苦笑しつつワイルドは眠るロレンスをただ眺めていた。
「――なんだ? 開いてるぜ」
 どきりとする。まるで邪魔でもされた気分。そんなはずはない、と言うよりそんなものではそもそもない。それでもロレンスが眠る姿を人目にさらしたくない。
「隊長。すいません、遅い時間――」
 入ってきた途端、マケインが我と我が手で顔を覆った。気持ちはわからなくはない。けれど苦笑するしかないのもまた事実。
「隊長……」
「そんなんじゃないって何度も言ってるだろうが。喋ってるうちに寝ちまったんだよ。疲れてたんだろ」
「どう見てもそれだけとは思い難いんですが」
「それだけだ。断じてそれだけだ」
 断言すればするだけ胸が痛い。それだけになどしていたくないのは誰なのか、ワイルドは知っている。何も言わずに黙っているだけだ。
「それで、どうした」
 何気なくロレンスの体に毛布をかけてやる。転寝などしていては高貴のお方だ、風邪でも引きかねない。もっともロレンスはワイルドに匹敵するだけの剣の腕の持ち主。それほど軟弱ではないとわかってはいた。
「いえ……。最近はお忙しそうだったので」
 優しげな手、と見たのだろうマケインがなんとも言えない目つきでワイルドを見やる。それをきっぱり彼は無視した。
「たまにはゆっくり話がしたいって? 健気な男もいたもんだ」
「気味の悪いことを言わんでください。隊長ときちんと交流しておくのは私の仕事の内ですよ」
「ほほう?」
 微塵も信じていないぞ、と言わんばかりのワイルドにマケインは小さく笑う。そのとおりだった。かつてはこんな言い訳をしていつも共にあった。何度ワイルドの傍らで剣を振るったことだろう、マケインは。幾たび陰に控えて助けただろう。
「ですが……。起こしてしまうのは申し訳ないですからね」
 今夜は帰る、言いかけたマケインをワイルドは笑って制す。そう簡単に起きそうもなかった。自分の寝台でロレンスが安堵して眠っていると思えばたまらないけれど、友人が穏やかに眠っていると思えばいい。それだけのことだ。
「気にするな。起きたら帰せばいいだけだろうが」
「そんなことを言って。ずいぶん仲良くなったみたいじゃないですか、閣下と」
「そうか?」
 いまだに騎士団には従騎士時代からの付き合いだとは言っていないワイルドだった。もちろんマケインも知らない。ロレンス本人とはさほど関係がない行き違いから、やっとここまで漕ぎ着けた、とマケインまで思っているらしい。くすぐったいような、笑みを誘われるような、そんな気がしないでもないワイルドだった。
「俺よりお前だ」
 不意にワイルドは笑ったままマケインを見つめた。気になっていることなどいくらでもある。それこそ体が足りない思いもしている。だが、だからここまで放置していたわけではない。マケインならば自力でどうとでも解決する、そう思っている。いま口にしたのは力になれることがあるのならば言えと、それくらいのつもりだった。
 なのになぜだろう。ぎょっとしたようマケインが青ざめる。それこそ騎士館の薄暗い室内でもはっきりとわかるほど。
「なにか、気になることでもあるのか? 最近あんまり顔色がよくなかったからな。気になってた」
「それは……忙しくて、ですね」
「忙しい程度で体壊すようなやわな男でもないだろうが。まぁ、詮索はせんよ」
「……すみません」
「気にするな。俺とお前の仲だろうが。手に余るようなら持って来い。いいな?」
 何ができると確信しているわけではない。相談されても何もできないかもしれない。それでもなお、力だけは尽くすから。長年を共に過ごしてきた男にワイルドは何をしてやれるわけでもない己を悔やむ。
「お気持ちだけで」
 軽く頭を下げたマケインにふとワイルドは眉を顰めた。普段の様子とあまりにも違う、そんな気がしたせい。思い詰めているのでなければいいが。そう懸念する。
「たいしたことじゃないんですよ、隊長。実家の母から手紙が来まして」
 それこそ母が体調を崩したと言う手紙だったかと顔色を変えたワイルドにマケインは笑う。立派なお屋敷で家政を任されている身のありがたさ、それもこれもお前の働きのおかげ、と母は手紙を寄越したのだと。
「ずいぶんと買ってくれるのは嬉しいんですが、それはそれで荷が重いと言いますか……」
 長い溜息をつくマケインをワイルドは優しい眼差しで見ていた。ワイルドは母を知らない。自分を産んでほどなく亡くなったと聞いている。そして父はあのような男だった。結果としてワイルドは家族というものにさほど意味を見いだせない。だからこそ、なのだろう、たぶん。こうして家族を案じ、期待に応えようとするマケインが時に眩しい。
「過度な期待は荷が重いとも言うがな、応えられる身をありがたく思うべき、とも言うな。まぁ、俺にはどっちもわからんがな」
「あぁ……いえ、すみません」
「気にするな。気にされると気にしなきゃいけないような気になってくる。俺は身軽なのは悪くないと思ってるんだぜ?」
 わざと無頼ぶって言えば、だから腰から下が信用できないとマケインが言い返す。いつもの彼に戻った気がしてまずはほっとするワイルドだった。
 それからもしばらく小声で話をしていた。それをロレンスは、聞いていた。眠っていたのは嘘ではない。転寝の中で聞いていたようなもの。ワイルドの声がしている、それがこんなにも安堵する。
 マケインと話しているはずなのに、ワイルドの声だけが、聞こえている。そんな不思議な錯覚。時折こちらを見やっているのだろう、眼差しを感じる。
 それが、心地よかった。あの頃を思い出す。まだ二人とも細い腕をしていた頃を。ワイルドは生家の身分から私室など与えられなかったけれど、逆にロレンスには立派な部屋が用意されていた。夜も更けてから、唇を歪めて笑うワイルドが何度も忍び込んできた。
 それを心待ちにしていたあの当時をロレンスは思い出す。なんでもないことを話していた。いまになっては何を話したのかなどとても思い出せない、それくらい他愛ない話ばかり。
 そしていまと同じ、話しながら眠ってしまう自分。途中までは記憶にある。寝台に並んで横になったまま、ワイルドが苦笑している気配と優しい眼差しのぬくもり。あの見守られているという感覚。
 いまのワイルドはマケインと話しているのであって、自分を見ているのではない、それは半分眠りの中にあるロレンスにもわかっていた。それでもなお、どうしてだろうか。こんなにも安堵するのは。
 ワイルドがいる、ただここにいてくれる。長年、自分の元から奪われていた友が戻ってきた。が、取り返したと言えるのか。いまのままではまた、失う。
「まぁ、気にするな。なんとかなるさ。大丈夫だ」
 マケインに返答しているワイルドの声が、まるで己への言葉に聞こえ、ロレンスはまたも眠りに落ちて行く。今度は深く。
 さすがにぎょっとした。目を開けた瞬間に、何があったのかわからない。ここはどこだ。騎士館なのはわかっている。けれど普段自分が寝起きする本館では。思ったところで気がついた。
「ワイルド!」
 飛び起きれば、ちょうど目を覚ましたところだったのだろうワイルドが眠たげに伸びをしていた。椅子の上で、着替えもせず、騎士団の平服姿のまま。
「おう、起きたか」
「……すまない、こんな。眠ってしまうつもりじゃ」
「あんた、昔っからそうだからな。人が喋ってる途中で平気で寝やがる」
 からりと笑いワイルドは顔をこする。眠気を払う仕種の影で疲れを隠したとロレンスは悟ってしまう。基本的に室内での仕事の多いロレンスと違い、ワイルドは鍛錬に時間を割いている。自分よりよほど疲れているだろうに、後悔しても追い付かない。
「気にするな。起こして追い返す手間が面倒だっただけだ」
「……眠ったり」
「友達が気を抜いてる姿ってのは、悪くないな?」
 にやりと笑うワイルドにロレンスは何も言えなくなってしまう。困り顔のまま笑って頭を下げれば気にするなと再度言われた。
「君といると、どうしてかな。なぜかとても安心してしまう。そのせいでずいぶん眠くなるんだ」
「俺は子守歌かなんかか?」
 笑うワイルドにロレンスはそのようなものだと笑い返す。そんなほのぼのとしたものか、と内心でいまになって首をかしげたけれど。では何かと言われてもわかりはしなかった。
「だから、私は怖いよ。ワイルド」
「なんだ、急に」
「だって、そうだろう? この暗殺の危機を乗り越えたとして、いずれ遠からず私は呼び戻される。また私は君を失うのか? それが、とても怖い」
 寝台の上、丸まるようにしてロレンスは身を縮めた。子供のようなその姿にワイルドは何も言えない。手出しなどもっとできない。ただ笑い飛ばすだけ。
「笑うな。できれば……君は聞きたくないことだとは思うが。できることなら、膝をついて君に懇願したいくらいだ、私の騎士になってくれと」
「おい!」
「だが、私の身分で、君にそれをすれば――」
「とんでもないことになるぞ、それは」
 王子とその周囲が大嵐を巻き起こすことになるだろう。王妹の子が、王家の庶孫を騎士として傍らに置くなど、大逆を疑われても無理はない。
「それでも私は今のところ、君に側にいてもらう手段が他には思いつかない」
「だからな、俺は竜騎士団の一隊長だぞ」
「……ここを離れたくないのは、知っているがな」
「そう言う問題じゃないだろうが」
 長い溜息はどう言う意味だろう。ロレンスはじっとワイルドを見る。何も答えない眼差しが見つめ返してきただけ。
「まったくもってそう言う問題ではないな。まず当面の問題は暗殺をどう防ぐか、なのだから」
 意図的に話をずらせば、どことなくほっとしたワイルドの笑み。意味がわからず癇に障る。が、わからないだけにロレンスにはそれを口にすることができない。
「とりあえず顔洗って着替えて来いよ。そろそろ朝の訓練だ。あぁ……こっそり帰ろうとか思わないように。よけいに怪しいから」
「ワイルド!」
 なにを示唆されたかくらいはわからないはずもないロレンス、にやりと笑うワイルドに声を荒らげても示唆されたことそのものに頬が赤くなる。笑って見送るワイルドはどこでもない場所を見ていた。




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