ミスティは無事アイフェイオンの名を得て騎士団に復帰した。表面上は何も変わらないがどことなく誇らしげでもあった彼。エリナードに「ミスティ師」と呼ばれて思い切り嫌な顔をしていた。 ワイルドはそうやって過ごした午後のことを思い出している。もう時間も遅く、騎士館の中は静かだった。普段は飲まない酒をゆっくりと傾ける。 気がかりだった。ミスティでも、星花宮でもない。あるいは自分の命のことですらない。たぶん、ミスティとエリナードの在り方が。 「羨ましい……ような気もするな」 彼らは自分とロレンスのようではない。エリナードはこれからまだ己の努力で伸びて行くことができる。 「同期の中で、これでアイフェイオン名乗ってないのはもう俺一人なんですよ」 夕食のとき、彼はそう苦笑していた。それでもまったく彼は苦にしてはいないのだと言った。まだまだ学ぶことがある。だから自分はまだ弟子だと。 「ミスティの試練を突破できたのだろう、お前も?」 「突破しても関係はないですね。自分に何が足りないのかがわかった、それだけです。俺は水系ですからね。根本的に火系の魔法は苦手ですよ。でも苦手で済ませていいものじゃない」 それでは市井の魔術師と変わらない、星花宮の魔導師ならばどこまでも先に行くべきで、それができないのならばここで名を得るべきなのだと。だからこそ、まだ弟子であれることが自分は嬉しいとまでエリナードは言った。 笑うエリナードの元、ミスティがやって来ては何事か魔法の話をはじめる。ワイルドは聞くともなしに聞きつつ、それを見ていた。二人は、変わっていない。 たぶんそれが、なにより羨ましいのだろうと思った。エリナードは他人の前では一応ミスティ師と呼ぶ、そう言う。それを嫌がるミスティ。決して同期の心遣いではなく、エリナードにそう呼ばれても気味が悪い、言い放てるだけの物が二人の間にはある。 先に進んでしまったミスティと、いまだ留まっているエリナード。公爵家に生まれたロレンスと、下級騎士の息子である自分。ワイルドは比べてどうなるものでもないけれど、溝があると言う意味では同じ二組をただ、並べてみたかったのかもしれない。 「いい、もんだな」 進めば、努力次第でミスティに追いつき追い越すことさえ可能なエリナードが。どうにもならない階級の差がある自分とは違う。そんなくだらないことを考えてしまう。 それでもなお友と呼んでくれるロレンス。素直に受け取れないこの心がひねくれているせいなのか、それとも別の思いのせいか。長い溜息をつけば、手の中で酒が揺れた。もう少し飲もうかどうか。考えているときに限って来客。苦笑してワイルドは声を上げる。 「開いてるよ」 マケインかベイコンか。あるいはロレンス。その程度だろう、来るのは。案の定、ロレンスだった。 「飲んでいたのか? すまないな、こんな時間に。ベイコンのところの帰りなんだが、いいか?」 「遅くまで熱心だな、あんたも」 言いつつワイルドは酒杯を渡してやる。騎士団の酒などロレンスにとっては旨いものではないだろうが、それでも酒は酒。多少の疲れには効くだろう。ありがたく受け取った彼は目だけで微笑んで酒杯を掲げて口をつける。 「仕事が溜まって痛い目に合うのは自分だからな」 暗殺の危機があろうともロレンスは毎日の職務は変わらず淡々と続けている。騎士たちはだから、誰かが狙われているなど知りもしないだろう。それを狙ってのロレンスの態度なのかもしれない。公爵家の後嗣とはそう言うものなのかとしみじみ感嘆してしまう。己の態度が他者にどういう影響を与えるか、彼は知り抜いている。 「ミスティが戻って、何か変化があったかどうか、聞いてきたが。変わらないらしいな、特には」 「こっちでも全然変わんねぇな。だいたいエリナードからして嫌がらせでミスティ師なんて呼んでる有様だ。変わりようもないんだろう」 「羨ましいような、関係だとは思わないか。ワイルド。彼らはどうあろうとも、よき友だ」 先ほど自分が思ったのとは違う、似ていてまったく違うことを彼は言う。ロレンスは仄めかす。自分たちもそうだろうと。ワイルドはそちらにはどうしてもうなずきたくない。 「あれはエリナードの性格の明るさに救われている部分がありそうだな。ミスティはどうも考えすぎる性格に見える。もっとも、俺はミスティとはそれほど接してないからな。ただの感想だが」 「それは、エリナードの美貌のせいか?」 「……真顔で冗談を言うな。エリナードがうちの所属だからだろうが」 長い溜息をつけばからりと笑うロレンス。やはり、冗談だったらしい。ほっと息をつくワイルドにもの言いたげなロレンスの表情は映らない。ふとワイルドは思い出したと言わんばかりに苦笑した。 「そう言えば、星花宮だがな」 「なにか、あったのか? 新しい情報でも」 「いや、そっちじゃなくて。と言うか、大本の話だが。――フェリクス師は、最初から俺がどこの何者か、知ってたみたいだ。それを言ってなかったなと思って」 「なに!?」 「例の美女に連れられて行った先で、あんたと合流する前だ。いい加減にこっちも知ってるんだから隠し事はやめろと問い詰められた」 なぜあの機会だったのだろうと今になって思ったワイルドだったが、フェリクスの心遣いだったのかもしれないと改めて思う。口をつぐむばかりでは疲れるだろうと。せめて事実を知る者の前では気楽に行けと。 「あの、美女とは……その、まだ?」 何度かワイルドは彼と言うべきか彼女と言うべきか、例の人物と出かけている。公然と迎えに来るものだから、珍しく長く続いている、と騎士たちの噂の種だ。それはそれで頭の痛いことではあるが、こんな風にロレンスに眺められるのはたまらない。 「あのなぁ……。俺は見た目だけが美女で中身はあの魔術師って知ってて遊べるほど胆が太くないんだよ」 「いや、そうではない! まだ調査を続けているのかと、そう言う意味だ!」 「なるほど?」 にやりと笑えば薄暗がりで赤くなったロレンスの頬。酒のせいか、別の物のせいか。騎士団に馴染んでずいぶんと表情が緩んできたようにワイルドは思っている。だからこそ、このままずっと続けばいいのに、そんなことを思ってしまう。 叶わないからこそ。ロレンスは公爵家の子息で、いずれ遠からず竜騎士団からは出て行くだろう。父公爵の失脚さえなければ真っ直ぐと近衛にいてもおかしくはない彼だ。更に言えば自分自身のことがある、とワイルドは思う。こんな命を狙われている自分の近くに彼がいては危険だ。だからこそ、ロレンスは竜騎士団からは出て行くべきだ。 「早く、解決策が出ればいいと思う。こちらの情報でも、星花宮の情報でも。何かがわかればな……」 「まぁ」 「そうすれば、もっと落ち着いて訓練ができる。そうだろう? いまはまだ私と立ち合ってくれすらしないじゃないか、君は」 「……なに?」 「いずれ立ち合おうとは言ってくれたがな。結局そのまま流れている。忙しいのは事実だし、君がそんな気分になれないのも確かだろう。でも楽しみに待っていることは忘れてほしくないぞ」 「そう、か……。悪い。完璧に忘れてた」 「ワイルド、酷いぞ!」 くすくすと笑ってロレンスは酒を飲む。酸い酒であっても、こうしてくつろいでいることが楽しいと言わんばかりの彼だった。 「まさかそんなに楽しみにしていたとは思わなかったんだ」 思わず本心が零れる。ロレンスはそれほどまでに興味があったのか。否、あるはずだ、彼は熱心で立派な騎士だ。技術の向上にはこの上なく興味がある。そのせいだろう。 「懐かしいよ、とても。私と君と。あの頃もこうして夜中に一緒に話していたことが何度もあった」 すらりと立ち上がり、ロレンスはなんの気なしに寝台に腰を下ろす。当時、そうしていたように。かつてはワイルドの部屋などと言うものはなく、ロレンスの部屋にワイルドのほうが忍び込みに行ったものだった。違いはそれだけ。 「硬い寝台も、変わっていない。こうしていれば昔に戻った気すらする。――あの頃のことが今になって響いていると言うのは忌々しいがな」 「知られているとは、思ってなかったよ。俺も」 「それもそうなんだが。……わかるか、ワイルド。私の大事な思い出を踏みにじられた気分でいっぱいなんだ、私は。ホーンウィッツで確定ならばな、私の手で握り潰したいくらいなんだぞ」 公爵の嫡子である彼にはそれができそうだ、ワイルドは思ってしまう。そして首を振る。だから彼にはできないと。国王の臣下として、ロレンスが「ノキアス王の庶孫」を庇うわけにはいかない。その暗殺を図ったからと言ってホーンウィッツを処断するわけにはいかない。ロレンスにはたぶん、何もできない。それでも、気持ちだけはここにある。そう言いたいのかもしれなかった。 「やめとけよ」 笑えば不機嫌そうに黙るロレンス。むつりと唇を引き締めてはワイルドを見上げる。どことなく生気のないワイルドが気にかかって仕方ないというのに。ワイルド本人は平素と変わっていないつもりだろう。騎士たちも、ベイコンも、マケインすらも気づいていない。気がついたのは自分だとロレンスは思う。友として誇らしい反面、話してくれないワイルドがもどかしいからこそ、こうやって夜中であるのも厭わずここに来た。それでも彼は。 「……俺の素性ってのも、意外といろんなところに知られてるもんだな」 「なんだ、急に」 「元々その話をしてたんだろうが。――星花宮しかり、あんたしかり。ホーンウィッツ伯爵まで知ってたとは思いもしなかったが。どこまで誰が知ってるのか、俺はびくびくしてるさ」 「そうは見えないぞ、ワイルド」 「意地だろうよ。ベイコンにびくついてる様なんざ見せられるか」 「……ベイコン。なのか?」 「そりゃそうだ。二人でこの騎士団を守ってきたも同然だからな」 体に残る傷の数まで知っているような仲だ、ワイルドは笑う。それだけロレンス赴任以前の騎士団は無策ゆえの激闘続きだったのだろう。 「ベイコンが、羨ましいな。私では君の戦友にはなれない」 「なる必要はないだろうが。あんたの身分で前線で剣を振りまわしたりしたら上つ方々が卒倒しかねん。それに――」 「なんだ」 「俺は、あんたの友達なんだろう? それじゃだめなのか?」 心にもないことを言ったな。ワイルドは思う。嘘をついているな、ロレンスも思う。それでも二人は笑みをかわしあうしかなかった。何かを言えば、壊れて行きそうで。 |