フェリクスほどの男が己の手には余ると言う敵。ワイルドは背中に冷たい汗を覚えた。本格的に死ぬかと思う。戦いの中に果てるのならばともかく、こんなことで。 「あぁ、僕は宮廷工作が得意じゃないってだけのことだからね?」 知らずうちに握っていたのだろうワイルドの拳に気づき、フェリクスは苦笑する。心配はさせたくはなかったが、日頃星花宮の魔導師や弟子ばかりを相手にしていると時には常人の繊細さを失念する。 「だから、ちょっと援軍」 にこりと笑うフェリクスが横手に腕を差し伸べる。何事か、とワイルドがそちらに視線を向けたとき。ふわりと陽炎が立った、そんな気がした。室内だというのに。思わず目を瞬き、そしてそこに新たな人影。 「星花宮のメロール・カロリナだ。カロルと呼んでくれ」 にやりと笑った男が差し出した手。言われるままに握手をし、ワイルドは呆然とする。肩口で切りそろえられた淡い金髪、魅力的な翠の目、一見女性にも見えかねないほど美しい人。聞き知った黒衣の魔導師の容貌。だが彼はいま、目の色に合わせたのだろう緑の胴着姿で、まるで貴族の放蕩息子のようだった。 「サジアス・ワイルド。聞き覚えがあるでしょ?」 「あぁ。本人は? なるほど、ノキアス王の孫だって知ってるわけか。話が早くて助かるな」 「だからカロル、ちょっと助けて」 「……明日は槍でも降るか?」 「ちょっとそれどういうこと!? 僕が助けてよって言ったらそんなに変なの!?」 「変に決まってんだろうがクソ弟子が」 一刀両断し、カロルはフェリクスの隣に座って笑う。驚けばいいのか、恐怖に震えればいいのかわからなくなってきたワイルドは黙って二人を眺めていた。単に呆気にとられていただけかもしれないが。 「ホーンウィッツ伯爵が――」 一度カロルを睨み据え、強引にフェリクスは話を戻そうとする。その視線が宙に留まる。そして長い溜息。じとりとワイルドを見やった。 「あなたがた、本当にいいお友達だよね。揃って僕に隠し事をしてくれて。これじゃ助けたくっても助けられないじゃない。もう!」 なんの話だ。問いかけるより先に答えが実体となって現れた。ぎょっとする間もない。先ほどのカロルと同じよう、またも人影が出現する。そちらは見知った人物たちだった。 「……ロレンス!」 エリナードがロレンスを連れていた。その彼の腕の中、ロレンスが口許を押さえて吐き気をこらえてでもいるかのよう。 「なにあなた、言っておかなかったの?」 「気分悪くなるってですか? 言いましたけどね。体験してもらった方が早いですし」 言いつつエリナードはロレンスの背をさすってやっていた。本当は申し訳なく思ってもいるが、せっかくここまでお膳立てを整えたというのに堂々と竜騎士団から外出したのでは全部が台無しだ。結果としてこうして転移してくる羽目になる。常人のロレンスにはさぞつらかっただろうとは思う。 そのエリナードの目がふとワイルドに向いた。何やら途轍もない敵意を向けられている。そしてどうやら本人にその自覚はまったくないらしい。内心で苦笑してしまった。 「ワイルド隊長、ロレンス参謀をお願いできますか。しばらくすれば落ち着くはずなので」 肩を貸し、半ば腕に抱くようにしてワイルドの隣に座らせれば、具合の悪いことにロレンスが縋るような目をしてこちらを向く。 「大丈夫ですよ、転移の副作用みたいなもんでして。冷たい水でも飲んで深呼吸してください」 ひょい、と硝子の酒杯を手渡せば、やはりロレンスの向こう側からワイルドの厳しい眼差し。心の中で天を仰ぎ、いっそ煽ってしまおうか、そんなことを考える。が、するまでもなかった。 「ふうん、エリィ。ロレンスのほうがお気に入りだったんだ、あなた」 フェリクスがいた。好物を見つけた猫のよう目を輝かせて笑うフェリクスがいた。隣でカロルまでにやにやしている。そちらにエリナードは目礼をしておいて肩をすくめる。 「半病人だから気にかけてるってだけですよ。別にどうもこうもない」 「そう? 僕はワイルドのほうこそ気に入ると思ってたんだけどな」 「――どう言う意味です?」 とりあえずロレンスが落ち着くまでの時間稼ぎか、そんな悠長なことを思った自分をエリナードはすぐさま激しく罵ることになる。 「だってほら、ワイルドってちょっと似てるじゃない。隠し事が上手なところとか、飄々とした態度とか。あそこまでへらへらしてないけどね。あなたの初恋の――」 「師匠!? それ以上言ったら首絞めますよ!」 一瞬で背筋が凍った。なんと言うことを言いだすのかこの男は。青くなるエリナードをからからとカロルが笑う。 「ほう? そりゃ知らなかったぜ。なるほどなぁ。一応言っといてやるか? テメェみてェな美形に好かれてたって知りゃあいつも悪い気はしねェだろうよ」 「言わないでいいですから!? 昔のことで、ちょうどそう言う、外に目の向く時期だったってだけで! だいたい、原因は師匠ですからね!」 「ふうん。僕がなにさ」 「師匠がリオン師をあんまり褒めるからでしょ! だから俺は気になって、そしたらなんか……やめましょうよ、もう!」 赤くなったり青くなったり忙しいエリナードを二人の魔導師がくつくつと笑う。その間ワイルドは聞くともなしに聞きながらロレンスを案じていた。先ほどのエリナードのよう、彼の背を抱く。その自分の腕がわずかに震えている気がする。悟られたくなくて、拳を握った。 「ロレンス? 大丈夫か」 その彼が小さく笑っていた。エリナード以上に青くなった自覚のあるワイルドだった。よもや、気づかれてしまったかと。 「楽しいところだと思ってな、星花宮と言うのは」 ほっと息をつけば、訝しげに見上げてくるロレンス。ワイルドは苦笑を作って首を振る。なんでもないとばかりに。 「笑えるくらいならもう大丈夫だなと思っただけだ」 「あぁ、そう、だな。すまない。助かったよ」 そっと胸を押しやられた。決して嫌がってのことではないだろう。羞恥を覚えでもしたか。だが、ワイルドには拒絶に見えた。 「――師匠」 フェリクスが息を吸った気がした。あるいは何か言いかけたのかもしれない、エリナードが止めたのだから。 「あなた、こういうことは敏いんだね」 「褒めてないですよね、それ?」 言い返してエリナードが腕を組む。何を止めたのか、二人の騎士にはわからない。それでもフェリクスが肩をすくめたことで弟子の進言を受け入れたと知る。 「そんで、師匠。どこまで話は進んでるんですか」 「ちょうどホーンウィッツ伯爵家の名前が出たところ。――エリィ、もう遅いからあなたは帰りな。この二人だったら僕が面倒見とくから」 言った途端だった。カロルが腹を折って崩れたのは。何事かと飛びあがりそうになる騎士たちの前、エリナードが天井を仰ぎ、フェリクスが嫌な顔をする。 「師匠……。俺は子供じゃないんですよ。暗くなったからおうちに帰りなさい、はないでしょうが」 長いエリナードの溜息。こらえきれなかったカロルが涙を流して笑っていた。まだ事態の把握ができていないロレンスだった。それでもここに二人の魔導師がいる。それだけで心強いような気がした。その眉が不意に顰められる。 「……そう言えば、あの美女はいったい何者だったんだ」 まだ肩が接するほどのすぐ近くからロレンスに見上げられてしまったワイルドこそ憐れだった。言葉に詰まったのはどう説明しようか悩んだものか。 「あぁ、それだったら僕だよ」 下手な説明をせずに済んだワイルドはほっとした。嫌な予感がしたのはエリナード。何気なく警戒する弟子をフェリクスが笑う。そんな師弟にロレンスが首をかしげた。 「フェリクス師、だったのか? だが、エリナード、君は世界で一番大事な人と――」 「待ってくださいロレンス閣下!? どうしてそれをここで言うんですか!」 「いや、その……」 「だいたいそれは護衛のほうだって言ったじゃ――」 「それも僕のことだと思うけどね? ふうん、そっか。エリィ。可愛いね。あなたはいまでも僕をそんな風に言うんだね。ほんと、あんまり可愛くってどうしようか。そうだね、とりあえずまず最初にするのはタイラントへの報告、かな?」 「だから!? それは言葉の綾と言うか! だいたいあの時点で俺は師匠の変装だってバラしていいかどうか聞かされてなかったんです! 護衛するのも師匠だって言っていいのかどうかわかんないし! そう言うしかないじゃないですか――ってカロル師! 笑いすぎですよ!」 声もなく笑い転げているカロルをエリナードは指さして非難する。この二人にかかると自分などまだまだ頭に殻を乗せたひよこだと痛感させられるエリナードだ。 「それは……。今夜以降も君が囮を務める可能性があって、フェリクス師の変装姿で逢い引きを装うと言うことだな、ワイルド」 「なんでばらした、エリナードよ」 「友達なんでしょう? 囮をするくらいは言って差し上げてもいいと思いましたので」 「余計なお世話というものだぞ」 「いいや、ワイルドは間違っている。エリナードの知らせがなかったら私は蚊帳の外だったのだぞ、ワイルド。君一人でどうして全部を抱えようとする」 自分のせいだからだ、ワイルドは言いかけた。自分があの父の子として生まれたせいだからだ。だがロレンスの紫めいた目に浮かんだ悲哀に、それは口にできなくなった。 「せめて、助けさせろ。私は友を失いたくない。そう言ったはずだ」 その言葉を聞きたくないから無茶をする気になったのかもしれない。ふとワイルドは気づく。苦笑をして、深い呼吸を一つ。肩をすくめた。 「まぁ、色々あらァな。とりあえずこっちの話を片付けて、それからごちゃごちゃやりゃあいいんだ。だろ?」 どこからどう見ても無頼そのもののメロール・カロリナ。星花宮が誇る黒衣の魔導師。そして隣には氷帝。心強い味方がいる。それでもワイルドはぼんやりとした不安を抱えていた。 「君は私の友だ。生き残ってくれなくては困る」 唐突に握られた手。ロレンスのぬくもりにワイルドはうなずいていた。そしてはじめて理解した。友と呼ばれ続けて生きたくはないのだと。 「ワイルド、返事をしろ。誓え。私の前から死んで消えたりしないと」 誓うよ。呟いた小さな声に不満げなロレンスの眼差し。黙るではなく雑談をして騒いで放っておいてくれた魔術師たちが今はありがたかった。 |