彼の人の下

 物思いに耽るよう黙ってしまったロレンスだった。エリナードはそっと微笑してその場を去ろうとする。が、ロレンスが顔を上げた。
「……もうしばらく、付き合ってもらえないか」
 少しばかり心細そうな顔。自分で気づいたのだろう、忌々しげに舌打ちをする珍しいロレンスの動揺ぶりにエリナードは笑って席に戻った。
「我ながら、突発事故に弱いな、私は。思いがけないことがあると、しばらくは使いものにならん」
 長い溜息をロレンスはつく。エリナードにはそうは思えなかった。中途半端な驚きだからこそ、彼は動揺している。そんな気がした。万が一、生命にかかわるようなことが起こったなら彼は覚悟を決めて動くのだろう。
「かまいませんよ、俺は。忙しいのは閣下のほうですからね」
「それを言うな」
「でも気分転換って言うのは必要ですよ。思い詰めるばかりじゃ袋小路ですからね」
「なにか、実感がありそうな台詞だな、それは」
 そのとおりだ、とエリナードは笑っていた。彼はいまでこそ竜騎士団に出向してきているけれど、本来は星花宮の弟子だ。毎日が研究の生活だ、と言う。
「とは言っても、新しい解決法なんてすぐ思いつくものでもないですし。思いついても九割がた失敗しますしね」
「そんなとき、君はどうするんだ」
「たいてい星花宮の中をふらふら歩いてますよ。うちはとにかく思いがけないことならいくらでも起こりますから」
 それが研究の切っ掛けになったことが何度となくある、彼は言う。ロレンスはふと魔術師の生活も楽しそうだ、そんなことを思う。いままで魔術師が日常をどう送っているのかなど考えたこともなかったのだが。
「そう言えば……君は、星花宮の魔術師だな」
「正確にはまだ弟子ですよ」
「だが、王宮のことも色々、知らないでもないだろう?」
 星花宮は政治には極力かかわらない姿勢でいるらしい。公爵の子として、ロレンスもそれは知っている。確かに強大な武力を持つ存在だ、彼らは。下手に政治に関与すれば待つのは圧政の未来だ。
「噂話程度なら、多少は」
 そのせいだろう、エリナードが緊張した口ぶりになるのは。きっと彼はその師から政治にはかかわるな、と厳命されているに違いない。あのフェリクスの溺愛ぶりを瞥見したロレンスは小さく笑う。
「ただの雑談だ、気にするな。――そうだな。君が知る、一番素晴らしい騎士とは、誰だろうか」
 自分の問いにロレンスは目を丸くしていた。なぜそんなことを尋ねる気になったのか、わからない。否、想像はつく。ワイルドだ。彼が心から思う誰か。いまでもまだ、気になっている。彼が心を捧げるに相応しい相手が、ロレンスには思いつかない。それが棘のよう、胸の奥に刺さっていた。
「騎士、ですか。……そうですね、単に好き嫌いの問題かもしれませんが。俺はチエルアット男爵様が好きですよ」
「あまり、聞いた覚えがないな」
「でしょうね。ご領地も小さなところですし、一門の後押しもない。いまは近衛にいらっしゃるのかな」
 有力な家系の一員でもないものが近衛騎士になっている、と言うことは彼自身が国王の寵愛を得ている、と言うことだとロレンスは判断する。それだけチエルアット男爵は優秀なのだろう。それこそ好き嫌いで近衛騎士を選ぶような王ではない。
「お若いころは本当に美しい方でしたよ。蕩けた金のような髪をなさっていて」
「君だとて綺麗な髪だと思うが」
「そうですか? 俺は、手入れが悪いですからね、元が雑なので」
 苦笑してエリナードは髪をかき上げる。鮮やかな金髪は、確かにあまり手入れが行き届いているとは言い難い。丁寧に梳り、油で整えたならばどれほど目を見張るか。そんなことをロレンスは思う。
「ちょうど、閣下の髪よりもう少し金属光沢を強くしたような髪をなさってましたよ。青灰色の物憂い目をしてらしてね」
 本当に綺麗な人だった、とエリナードは笑う。憧れていたのかもしれないな、と思いつつロレンスは多少の違和感があった。
「あぁ、星花宮には遠足があるんです。子供がたくさんいますから。その遠足に、ご領地を使わせてくださっているのがチエルアット男爵様なんですよ。だから俺も子供のころから存じ上げてるんです」
 エリナードがある騎士の若いころ、と言うのが不思議であったがそう言うことかとロレンスは納得した。そして少し、面白くも感じる。エリナード自身、まだ若い青年だ。おそらく二十代も後半にはなっていないだろう。その彼がある騎士の若いころ、などと言うと奇妙に老成した雰囲気があって、それが楽しい。
「ん……若いころは、と言っていたな」
「えぇ、いまは……四十代に入ったばかりくらいかな? いまでも美しい方ですけどね。お若いころの美しさがいまは優雅さに変わった、とでも言いますか。挙措の綺麗な方ですよ」
 当然にして見た目だけではない、とエリナードは言う。星花宮を招いてくれたこと一つとってもわかる。
「子供たちは一度に五十人くらいは優にいますからね。それを適宜さばいて処理をする、それがどれほど大変か、俺は大人になってから知りましたよ」
「実際はご本人がなさるわけでもないだろう?」
「そうですね。たとえば食事の支度なんかはもちろんご家来衆がなさるんですけど、食料の手配から一切合財、そう言う書類仕事なんかは男爵様の手を通るわけで。俺だったら放り投げますよきっと」
 苦手そうだな君は、そうロレンスは笑う。それにエリナードは真顔でうなずいていた。だからこそ、やればできるのではないかとロレンスは疑う。
「チエルアット男爵の――」
 尋ねようとしたのは他愛ないことだった。それなのに喉に絡んだ声が一瞬、出てこない。ロレンスは不思議と咳払いをし、もう一度言葉にする。
「チエルアット男爵の剣の腕はどうなんだろうか」
 口にしてみて、ようやくわかった。自分が何を尋ねたかったのかが。ワイルドの想い人はその人なのかどうか。ただ、それが知りたい。内心でぎょっとしつつ、ロレンスは笑みを絶やさずエリナードを見やる。
「悪くはないですよ、偉そうですがね。何度か遊んでいただいたことがありますけど、五本に二本くらいは取れるかな」
「返答に困るな、それは。君は魔術師だというのに鋭い剣をしているから。騎士のくせに情けないと言うべきか、魔術師のくせにとんでもないと言うべきか。さて、どうしようか」
「俺なんかまだまだですよ。師匠だったら完勝しますから」
 騎士と魔術師を比べてどうする、とロレンスは肩をすくめる。ただ、思わないでもない。ならばチエルアット男爵の剣の腕は特別優れていると言うわけではないのだと。そうであるなら、ワイルドには相応しくない。
「……なにか、悩み事でも、あります?」
「君は」
「愚痴なら愚痴で、言葉にするとけっこうすっきりするものですから。俺は所詮、出向してきているだけの他人です。星花宮に戻れば以後さほど関係が続くわけでもないでしょう?」
 だから気楽に言えばいい、そうエリナードは笑う。そのとおりではある。友人だからこそ言いにくい愚痴というものは確かにある。
「それはそれで酷い言い分だと思うぞ、エリナード。私は君が苦手ではないよ」
「魔術師でも?」
「あぁ、魔術師でも。最近はあまり魔術師の評価が高くはないがね。でも、君たちは有能で、協力できればとても素晴らしいことだと思う。私はそれが陛下の御為になると信じているからな」
 ふ、とエリナードの目が和らいだ。何も言わず彼はただ微笑んでいる。口先だけで感謝されるより、同意されるより、なによりロレンスの心にその笑みが響く。
「ワイルドがな。いや……これは……」
「俺は口は堅いほうですよ? ご心配なく。ご本人にも言いませんからね」
 にやりと笑うエリナードを悪戯にロレンスは睨んだ。それに彼がわざとらしく怖がったふりをする。楽しいな、とロレンスは思っていた。たぶんきっと、そんな場合ではない。いまもまだワイルドは危険に身をさらしている。それでも。
「ワイルドが、言うのだ。自分が認めるほど素晴らしい騎士がいる、とな。有能で、剣の腕も立つと。私は心当たりがなくてな。いったい誰だろう、と。そんなことをな。大変なときに、くだらないことを考えているな、私は」
 エリナードは訝しげな目をしてロレンスを見ていた。内心ではこの騎士は何を馬鹿なことを言っているのだろうと思っている。さすがに無礼が過ぎるから口にはしないが、心の中では鏡を見ろ、と叫びたい。どうやら本人にはまったく自覚がないらしいから口をつぐんでいたけれど。
「閣下から見て、ワイルド隊長はどんな方なんです?」
「そう、だな……。本当に素晴らしい騎士だと私は思うよ。部下を守り、忠義に篤い。言ったことは必ず守る。何よりワイルドは強いしな」
「実戦をご覧になったことが?」
「あぁ、あるよ。まだ、若いころだがな。たかが小競り合いではあったよ、今にして思えば。だが当時は私たちもまだ若かったから。敵の中に切り込んで行くワイルドの鮮やかな強さがいまだに私の瞼には焼きついている」
 わずかに視線を落とし、ロレンスは当時を回想していた。まだ十代の、骨も固まりきっていないような体をしていた自分たち。それでもワイルドは無敵だった。それに奢るわけでもない、それが何より好きだった。友人として、誇らしかった。
「……ん? 待ってください、お若いころを、ご存じなんですか」
「知っているさ、それは。従騎士訓練を共に乗り切った仲だからな、私たちは」
「どこで、です?」
 一瞬、目の惑いのようなわずかな間だけ、エリナードの目が鋭くなった。ロレンスはそれを見逃しはしなかったと思う。自信がなくなるほど、短い間だったが。
「ホーンウィッツ伯爵家だ」
 エリナードは、今度こそ間違いではなかった。口許に指先を当て、何事かを考えている。一度顔を上げ、遠くに眼差しを投げたと思ったら彼は笑顔だった。さすがに作り笑いだとロレンスにわからないはずもない。
「ちょっと、出かけましょうか。ミスティに後は頼みましたから、ここは問題ありません」
「待て、エリナード。どう言うことだ」
「色々な説明その他は、向こうで聞きましょう。適任がいますから。――あぁ、あっちでも伯爵家の名前が出たところか。ほんと、仲のいいご友人同士ですよ、あなたがたはね」
 苦笑するエリナードが差し伸べてきた手。なぜか素直に取ってしまった。柔らかな手は断じて騎士のものではなく、これが魔術師の手か、そんなことを思ううちに激しい眩暈をロレンスは感じた。




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