騎士団の前に待っていた馬車に女と共に乗った。ワイルドは怪訝な思いが隠せない。女は名乗りもしなかったし、護衛の件は一言も口にしない。あるいは騙されたかと一瞬は思った。が、エリナードがこの手に委ねた女だ、少なくともエリナードの知人であることは疑えないだろう。無言のうちに馬車は進んでいく。 「こちらでお降りくださいませな」 唐突に女は微笑む。かと思えば馬車は止まった。ワイルドも窓から眺めていたわけではない――そもそも窓には垂れ布がかけられたままだった――が、だいたいの場所の見当はついている。時間と、車輪の響き、そんなものからでも容易にわかる。王都の中心部だった。 なにを尋ねてもたぶん、無駄なのだろう。おとなしく馬車から降り、ワイルドは女に手を差し出す。そっと預けられた手はこの世のものとは思えないほど繊細で柔らかだった。そのまま軽く腕に添えられた手に誘導されながらワイルドは進んでいく。少し、嫌な予感がした。 「どこに?」 今更尋ねてしまう無様。内心で溜息をつきつつワイルドは女に聞く。が、彼女はうっとりと微笑んでは見上げてくるばかり。断固として喋る気はない、と見た。 そしてワイルドの予想どおり、彼女は大通りから外れて行く。繁華ではある。けれど多少毛色の違う繁華さだった、それは。物売りの声はしない。居酒屋で騒ぐ手合いもいない。その代わり、数多の男女がそこに。 「どうぞ」 彼女が案内したのはその通りの中でも最も華やかで優雅な一軒。店の前には大きめの角灯があり、炎の代わりに青薔薇が甘く輝いていた。 女は戸惑うワイルドをものともせずに連れて行く。さすがにここがどこか、知らないはずもない。ワイルドはここが青薔薇楼と呼ばれる王都随一の娼家と知っていた。 廊下を進めば快く香の匂う居間が。まだ客のついていない女や男があるいは楽器を弾き、あるいは談笑し。その中を女は進んでいく。娼婦たちに混じっていた客の一人が女を見てはほう、と溜息をついた。 「こちらですよ」 護衛が待っているのはその部屋だ、とワイルドは解釈した。女が慣れた様子で戸を開ける。この際、誰でもかまわない。事態の打破と説明をしてくれる相手ならば。 「尋ねたいことがある。――誰もいないようだが」 室内に入ったのは女とワイルドだけ。そして中で待っているものは一人もいない。娼婦のか男娼のか、もしかしたらこの女自身の部屋なのか、室内は居心地が悪くなりそうなほど、優雅だ。そしてこの女を娼婦とは感じていないことに改めてワイルドは驚く。これほど青薔薇楼に馴染んでいるというのに、だ。 「そりゃいないよ。あなたと話したかったのは僕だからね」 ぎょっとして飛び退くところだった。花のような唇から漏れたとは思えない言葉。その語調に覚えがある気がした。 「僕だよ。フェリクスだ。意外と鈍いね、あなた」 言って彼女、否、フェリクスは姿を変えた。戻した、と言った方が正しいのかもしれない。あのときに見た、少年めいた気配の青年がそこにいる。長い溜息をつくワイルドを彼は不思議そうに見ていた。 「……なぜ、こんな手の込んだことを?」 「いい加減に埒が明かなくってね。いいから座りなよ。取って食おうってわけじゃないんだから」 食われそうだ、とワイルドは思う。機嫌の悪そうなフェリクスを前に怯まずにはいられない。それでも黙って座った。目の前に差し出された茶だけはありがたい。むつりとワイルドを睨みつつ、フェリクスはごそごそとしている。何かと思えば先ほどエリナードがくちづけた指先だった。彼はもてあまし加減に振ったり撫でたりしている。もしもあれがエリナードの嫌がらせだったとしたならば成功したとは言い難いらしい。それに小さく笑えばようやくフェリクスの目から険が取れた。 「あのね、隠し事はなしにしようよ。僕はうちの子に伝言で言わせたよね、心当たりはないのかって」 「それは、聞きましたが」 「あなたは、ないの?」 「狙われているのは俺じゃない。ロレンス――」 「ねぇ、僕は言ったと思うんだけど」 正面に座したフェリクスが椅子の背に体を預け、腕まで組んでワイルドを見据える。小柄な彼だというのに、知らず圧迫されるほどの威圧感だった。 「僕は言ったよ。親友の孫は気にかけてるって、ちゃんと言ったでしょ」 「それは、だから。ロレンスのことを――」 「この期に及んでしらばっくれないように。僕は知ってるって言ってるんだ。それともわからないふりじゃなくて、本当にまだわかってないの?」 「何を……。待て、なに!?」 「なんだ。わかってなかった方だったんだ。ふうん。だからね、あなたはノキアスの孫でしょ。認められてなくってもね、僕はその場にいたんだよ。知らないはずはないでしょ」 ぽかんとした、ワイルドは。この場にいるのが自分だけで心底よかったと思う。誰にも見られたくなかった、いまのあまりにも無様な顔は。 「あなたは知られたくなかったみたいだしね、僕はアルバート・ロレンスがあなたのことをどこまで知ってるのか、それこそ知らないからね。あの場では何も言わなかったけど。そろそろちゃんと話し合いをしとかないと、うちの子が大変な思いをするばっかりじゃない?」 結局は弟子か。思ってワイルドは苦笑する。苦笑して気が楽になる。肩から抜けた力にフェリクスが黙ってうなずいていた。 「……ロレンスは、知ってますよ」 「いつから」 「じゅ、十七歳のときに、父君から聞かされた、と」 畳みかけられてワイルドは口ごもる。ロレンスを疑うなど断じて許せない。それだけは目に出た。そんな彼をフェリクスが一瞬だけ和らいだ目で眺めた。 「それでも友達だったんだ。そっか」 「俺は、知りませんでしたけどね。あいつが十七で騎士叙任を受けて、以来竜騎士団に来るまで会ってもいませんでしたし」 「どうして?」 「あちらは公爵閣下の嫡子ですよ。俺はしがない下級騎士の息子です。会う道理がない。理由もない」 「理由がなきゃ会えないってものでもないと思うけどね、友達なんだったら。でも、まぁ。そう、かな。友達だからこそ、会わないでいたって言うのは、あるのかな」 若き騎士がよけいな醜聞に塗れれば、それだけで将来はないも同然。ワイルドはそんなことは考えたこともない。元々将来などない。あるわけはない、下級騎士だ。けれどロレンスは。少しだけ、考える。 「違うからね? ロレンスはあなたのために、会わなかったんだと思うよ。だって、公爵の嫡子って、自分で言ったじゃない。だったらね、自分の影響力って物を彼は身に染みてわかってるよ。そういう教育をされるはずだからね」 だからこそ公爵はまだ十七歳の息子にノキアス王の醜聞を教えたのだ、とフェリクスは断言する。そこにかかわることでどれほどの影響を周囲に及ぼすことになるのか考えろと言うつもりで。フェリクスも宮廷政治には興味があるほうではない。が、長い人生だ、否応なしに見聞きしてきたものも多くある。だからこそ、公爵が子息に言ったのだろう台詞がまざまざと想像できる。 「いずれにせよ、ロレンスは違います。それだけは、疑わないでください」 「疑ってないよって言ってるじゃない。疑い深いね、あなたも。そうじゃなきゃ生きてこられなかったんだと思うけど」 小さく笑うフェリクスにワイルドは肩をすくめる。そのとおりだった。下手に近づいてくる人間は全部敵。そう思っておいた方が危険の少ない人生だったと思う。 「僕はね、そんなに手が長くない。いくら親友の孫だから気にかけているって言ってもね、ずっと追いかけていたわけでもないし、そんなことはとてもできない。僕には僕で大事に守らなきゃならないものもあったしね。本当に、そうだね、元気で生きてるかな、程度くらいしかわからないんだよ」 それでも。ワイルドは不意に温かいものを覚える。誰一人として親身になってくれる人はいない。一門の中でも末端の下級騎士。祖母の縁をたどればもしかしたら祖母の夫の家の援助は受けられたのかもしれないが、それをすれば己の出自を利用する羽目になる。それだけは、したくない。それくらいならば今の天涯孤独を望んで選ぶ。 そう生きてきたはずが。自分の知らないところで見守ってもらえていた。最低限、元気で生きている、と見ていてくれた人がいた。それがこんなにも胸に迫るとは、思ってみたこともない。 「だからね、あなたに聞くしかないんだよ。心当たりはないのって。隠し事をとりあえず棚上げにして、考えてみてよ」 「棚上げで、いいんですか」 「いいんじゃない? 忘れてほしいことだったら忘れるよう努力はするしね。努力が実らなくても、僕は口が堅いほうだよ」 それには心からうなずけるワイルドだった。いままで毛ほどもフェリクスはこちらの素性を知っていると匂わせてはいなかったものを。小さく溜息をつけば不思議と浮かんでくる笑み。 「そう言われても。隠し事ではなく本当に覚えがない」 「あなたに覚えがなくても敵にはあるってこともあるしね。そうだね……思い出話でもするつもりで聞かせてよ。うん、ロレンスのことからはじめようか」 「はい!?」 「だって珍しいじゃない? あなたの身分で公爵の嫡子と友達って。どこで知り合って、どうして友達になれたの?」 身分違いを咎められたかとわずかに思った。すぐに否定したが。稀有なことだが友情などそう言うものだとフェリクスは笑っている、ただそれだけだ。ワイルドは懐かしく当時を思い出す。あの頃のままあれたなら、どれほどよかっただろう。とはいえ当時は当時で問題は山のようにあったのだけれど。 「従騎士時代に知り合ったんですよ。訓練をしてくれた家にあいつも来ていたんです」 「それも……なんと言うか、珍しいよね」 「逆ですよ、俺がそぐわない場所にいたんです。父が伝手をたどりまくったんでしょうよ。俺なんかを受け入れてくれるような家格ではなかったですから、本来は」 「ちなみに?」 「ホーンウィッツ伯爵家です」 その瞬間だった。フェリクスの目の色が変わったのは。思い出話を聞く長閑な姿勢ではなく、顔つきまで変わっている。口許に指先を当て、ほんの少し彼は考え込んだ様子だった。そして決然と顔を上げる。 「あなたは知らないだろうね。ホーンウィッツ伯爵は、王子の最大後援者だった、昔はね。――そうか、なるほどね。……ちょっと僕の手には余るな」 ワイルドは知らず背筋を震わせる。フェリクスの手に余る事態とはどれほどのものなのだろう。少なくともこの自分が太刀打ちできるようなものでは決してない。それだけは理解できてしまっていた。 |