彼の人の下

 がつん、と腹に衝撃。また思い切りよくやってくれたものだとエリナードはミスティを見やる。苦笑が漏れてならなかった。
「……お前な、エリナード。星花宮から戻ろうとしたら突然、青薔薇楼に寄れ、あの人をここまでお連れしろと言われた私の気持ちがわかるか!? 胃がおかしくなるわ! 薬を寄越せ、この愚か者めが!」
「馬鹿野郎。俺のほうが先だってーの」
 呟きつつ腹をさする。殴られたより、しくしくと痛むのは内臓のほうだ。本当に胃がおかしくなる。ミスティの気持ちはわかるが、一番の被害者は自分だとも思う。そのミスティは怒り狂ってそれ以上が言葉にならないのかとんでもない目つきでエリナードを睨み据え、物も言わずに出て行った。
 これは詫びとして葡萄酒の一瓶くらいは届けておいた方がいいかもしれない。悪いのは自分ではないとは思うものの、謝罪をするのも自分しかいない。達観したエリナードがその場を後にしようとしたとき、声がかかる。
「待ちたまえ、エリナード」
 厳しい声をしていた。厳格にすぎると言うわけではなかったが、馴染みやすいと言うわけでもないロレンスではあった。それにしてもここまで権威を立てた声を聞いたことがない。
「君は、いったい何を考えている」
 つかつかと寄ってきたかと思えば腕を取られた。不意にエリナードは違和感を覚える。ロレンスは問いただしているつもりだろう。が、なぜその指が震えているのか。そして本人はまるで気づいていないらしい。何気なく腕を外させ、エリナードは苦笑する。
「君は現状を理解しているのか。ワイルドも健康な男性だ。少々外出をしたいこともあるだろう。だがな、いまはそのような場合か」
「大丈夫だと思いますよ」
「根拠は」
 叩きつけるようなロレンスの声。それでいてかすかに震えていた。やはり、とエリナードは思う。先ほどのミスティとの会話がロレンスの耳には入っていなかったらしい。隠していたつもりはないし、聞こえないよう話していたわけでもない。それでも、彼には届いていなかった。
「言いたくはないが、ワイルドは陛下の騎士だ。滅多な人間を近づけては本来、ならない立場だ」
「身元は保証しますよ、その点は信じてください」
「まして今だ。何があると思っている。万が一のことがあったらどうするつもりだ、君は」
「えー、護衛もつけていますので」
「だいたい、なぜ君の知人がワイルドに会いに来る。どう言うことだ。説明を」
 まったく話を聞いていなかった、ロレンスは。彼自身、どこかでそれを感じている。思い浮かぶことをただエリナードに叩きつけているだけだ、これは。ただ、そうする自分が理解できない。それでも言葉が止まらなかった。
「先日ちょっと、他愛ない話をしまして。自分が知っている一番の美女は誰だ、と言うような。俺が知る中ではあの人が一番なので、そんな話をしたら向こうも会いたい、と。そんなところですね」
 いまここでロレンスにワイルドが囮を務めたがっている、など言えば間違いなく切って捨てられる気がした。隠すつもりはなかったものが、結果としてややこしいことになりつつある。胃だけでなく頭痛までしてきた。
「そもそも。君の交際相手なのか、彼女は。先日、君に会いに来た立派な男性がいたな? 君の倫理観はどうなっている!」
「……いえ、ですから。あの男は実は師匠でしたって、お話をしたはずで……」
「知るか!」
 どかりと椅子に座り込み、腕組みまでしているロレンスだった。睨まれても少しも嬉しくない。が、怖くもなかった。やはり苦笑だけが浮かぶ。
「ロレンス参謀」
「なんだ!」
「一つ伺いますが。――ワイルド隊長が外出するのをどうしてそこまで警戒なさるんです? 狙われてるのはあなたであって、ワイルド隊長ではないでしょう」
 息を飲んでロレンスが黙る。意地の悪いやり方だな、とエリナードは申し訳なくなる。しかしロレンスには冷静になってもらわねば困る。この調子で他人に罵られれば、知られなくともいい事実が広まりかねない。問題は、ロレンスはまだエリナードたち星花宮がワイルドの素性を知らないと思っていることだろう。さすがにこれはエリナードの判断には余る。師匠の考えが聞きたい、思うエリナードは溜息をついていた。
「……それは、そうだが。だがな、エリナード。だからと言って」
「ワイルド隊長が狙われないとも限らない? それはそうです。が、そこは信じてください。間違いなく無傷でお返ししますから」
「そう言う問題では――」
「では、何が問題なんです? ご友人の交友関係を把握しておきたいとかですかね。ちょっとした焼きもちと言うような」
「エリナード、冗談はよせ」
 実は本気だったエリナードだった。けれどロレンスは完全に戯言にしか聞こえなかった。子供ではあるまいし、そんな馬鹿なことはない。きっぱりと否定したのに、なぜかどこかがちくりと痛んだ。
「そうですかね。俺にも仲のいいのがいますが、あいつが付き合ってる人間は把握しておきたいですね。心配なので」
 それだけだろう、と逃げ道をくれた気がした。ロレンスは無言で目をそらす。本心ではその道に沿って逃げたい。けれどここで逃げれば、一生行かなかった道の先が気になるだろう。
「少し、落ち着きましたか?」
 ふ、と笑ったエリナードの声。愕然としてロレンスは彼を見上げた。わざと気が済むまで罵らせてくれたと悟る。そのロレンスに向け、エリナードは淹れたばかりの茶を差し出す。
「うちの師匠のお気に入りです。疲れが取れる香草だそうで、ちょっと甘いですよ」
「エリナード、君は……」
「気にしないでください。罵られ役は慣れてるんですよ。師匠がやたらと暴言ばかり吐く男なんで」
 からりと笑ってエリナードはようやくロレンスの対面に座った。それまでじっと叱られ役をやってくれたエリナード。ついに申し訳なくなってロレンスは目を伏せる。
「そんな顔をなさらないでください。今度はワイルド隊長に怒られるじゃないですか」
「……そんなことは、ないだろう」
「ありますよ。――冷静になられたんでお話ししますが。ワイルド隊長はご自分で囮を買って出られたんです」
「なに!?」
「あなたの友人である自分だから、もしかしたら狙われるかもしれない。だから護衛を貸せ、と言われました。なにか手がかりを掴むおつもりのようです」
「どうして君はそれを許した!? 狙われるかもしれないだと!」
 狙われるに決まっている。エリナードは知らない。狙われているのは自分ではない、ワイルドのほうだ。それだけは言えない。ぎりぎりと歯を食いしばり、ロレンスはエリナードを見据える。
「ですから信用してくださいと申し上げましたよ。俺が知る限り、一番腕が立つ男が護衛をしてます。本人が怪我をしても、ワイルド隊長は無傷で返してきます、絶対に。それを俺がどれほど不愉快に思ってるか、あの人はわかってて、それでも平気で怪我するでしょうよ。そう言う男が護衛をしてます」
 エリナードの目をじっとロレンスは覗いていた。はじめてエリナードの感情に荒立つ目に気づく。ワイルドをではない、護衛をしている人間が傷を負いかねない、それを彼がどれほど案じているか。どれほど不安に思っているか。ぐっとロレンスは拳を握る。
「また、あの時のよう、魔術師に――」
「わかってます。護衛は魔術師ですよ。安心してください」
「剣で切りかかられたら? 矢を射かけられたら?」
「腕はいいと言いました。そんなもの、物ともしませんよ、あの人は。最悪の場合、体張ってでもワイルド隊長を守りますよ」
 不意にロレンスの目がエリナードの膝に向く。その上で握られた彼の拳に。自分と同じ仕種で彼もまた、耐えていると気づく。
「……君の、大切な人なのか」
 なぜそんなことを問うのだろう。ロレンスにはわからない。けれど問うている自分が不思議でもなかった。
「そうですね。今のところ、世界で一番大事な人ですよ」
 苦笑いをしたエリナードがつい、と目を伏せる。ゆっくりと息を吸い、嫌な想像を払おうとしているかのよう。
「すまなかったな。こんな風に激高するつもりは、なかったんだが」
「いいえ、お気になさらず。根本的な問題として、囮を務めるとちゃんと言っておかなかったワイルド隊長が悪いのでは?」
「言えば私が許さないとでも思っていたのだろうな」
「ちなみに、説明されていたら?」
 にやりと笑うエリナードにロレンスは笑い返す。無論、許しはしないと。ただ、訝しくは思った。危険なことはやめてほしい。それは事実だ。だいたい囮ではないだろう、それは。仮に囮だとして、本人が餌になってどうすると言うのか、彼は。
 自ら死に惹かれるような真似はしないでほしい。願ったはずだった。聞いてくれたはずだった。それでもワイルドは囮として、夜の中に出て行った。
「……囮ならば、私が務めるものを」
「それを、させたくなかったんじゃないですかね。――ほら、大切なご友人だと仰ってましたから」
「君にも友人がいると言っていたな。その友人が君になにも言わず、君のために囮を務めたりしたら君はいったいどう思うんだ。ありがとうと素直に言えるのか」
「言えませんよ、そんなの。決まってるじゃないですか。帰り次第、顔の形が変わるほど殴りますね。当然でしょう?」
 だからあなたもやればいい。そそのかされた気がしてロレンスは苦笑する。自分たちは町の無頼ではなく、騎士だ。そんなことはとてもできない。
 途端に、なぜか息が詰まりそうになった。騎士だからやってはならない。身分に相応しい振る舞いを。言われ続けてきたことを当然だと思っていたものを。急に、わずらわしくなったのはなぜだろう。
「君と話していると、奇妙な気分になってくるな。君だとて町の無頼ではなく宮廷で重んぜられる立場だろうに」
「俺は所詮、弟子の身ですからね。責任もなにもまだないも同然です」
「責任、か……。重たいものではあるな」
「はい。ですから、ワイルド隊長の身に不都合があった場合、俺をどう罰してくださってもかまいません」
 逆説的に信じてくれ、そう言われた気がしてロレンスは黙ってうなずく。それはきっとエリナードを責めることに興味が失せたせいだ。いまはただ、囮を買って出たワイルドの気持ちがわからなかった。守りたいのはこちらのほうであったのに、と。




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