彼の人の下

 公爵家の妙なる美酒の味など、まったくわからなかった。それでも手の中、酒杯を弄び続ける。そんな自分を見つめているロレンスの眼差しをワイルドは感じていた。
「ワイルド。何を考えている。本当に無茶はしないのだろうな?」
「しない。それを考えてたんじゃないさ。――いつから、知ってたのかと思ってな」
 一瞬ロレンスが黙った。あまりにも苦い自嘲の声に黙らざるを得なかった。ワイルドは気づかなかったのだろう、視線を落としたまま酒杯を見ていた。
「なかなか難しい質問だな。父に噂話を聞かされたのは、十七歳のとき……騎士叙任を受けた直後だな」
 早すぎる叙任に訝しい思いでいたロレンスに父は語ったと言う。サジアス・ワイルドなる男にまつわる風聞を。
「……己の身を考えろと言われたよ。お前は誰だ、とな」
 次代の王冠を担う方の従兄弟にもあたる公爵家の嫡子ではないのかと。その重責を負うものが親しくするべき男ではないはずだと。
「さすがにな、私も父には食ってかかったがな。所詮は風聞だろうとね。ワイルドはワイルドであって、噂話などに右往左往されるなど父上らしくはありませんとまで言ったさ」
 若かった、とロレンスは苦笑する。いまの彼にはわかる。噂話だからこそ、父が自重を求めたのだと。それだけ重い身分なのだから。
「君の父君ご自身が、もうノキアス陛下の庶子として公認されたお方では、ないだろう? 公になっていないのならば、事実など闇の中だ。君には悪いが、そう言うものじゃないか。それを噂だと言っておろおろと」
 嘆かわしい、と首を振るロレンスは、だがやはりあの時の父の判断は正しかったのだろうとも思っている。それでも納得はできなかった。ワイルドはただ一人、彼の友だった。この竜騎士団の赴任自体、父は蒼白になっていたものを。いくつか提示された中でここを選んだ理由をきっと父は悟っている。己の失態に巻き込んでしまった嫡子だから止められなかっただけだ。
「色々とな……宮廷は言うのだろう。殿下の従兄弟である私が、庶孫である君と結託して殿下を蹴落とす気だとでもな。王位になど何の興味もないんだが」
「あんたの身分でそれを言ってもあんまり説得力がないからな」
「そうらしいな。近いからこそ、わずらわしく面倒で陛下は畏れ多くも大変だろうと拝察するよ。私ならば断じて御免こうむるね」
 くすくすとロレンスは笑った。まるで昔の従騎士時代を思わせる。有象無象に囲まれて窮屈そうだったロレンス。二人でいるときだけ、屈託がなかった。あの頃の紫めいた目をワイルドはいまもまだ覚えている。
「だいたい証拠もなにもない君と手を組んでどうにかできるほど我らがラクルーサは脆くはないぞ」
 悪戯っぽい眼差しにワイルドは小さく笑い返す。どことなく苦いものを含んだ笑みで、ロレンスはそっと首をかしげた。
「証拠なら、あったがな。父は、ノキアス王から賜ったメダルを持ってたぜ。ご自身で刻んだ署名入りのな」
「なに!?」
「もっとも、父が死んだときに木端微塵に砕いて捨てたがな」
「おい……。それは私以外に言うなよ。ご下賜の品を壊して捨てたなど、知られれば君は大逆罪に問われかねない」
「言わないさ。持ってたことを知ってた人はまぁ、それなりにいるんだろうが……俺が父の死に生家に戻ったときには行方がわからなくなっていたってことにしてある」
「それがいい」
 真剣に言われてしまった。どこまでも案じてくれるロレンスにワイルドはいたたまれなくなる。そんな男ではない、友の名に値するような人間ではない、言ってしまいたくなる。不意にロレンスが小さく笑った。
「いや……さっき君はいつから知っていたのか、と尋ねただろう? 噂話ならば十七歳のときに聞いた、と言った。実は従騎士時代にすでに耳に入ってはいたんだがな。――しかし」
「つまり?」
「確定したのはいまだ、と言うことさ」
 にやりと笑うロレンスに嵌められた気がしてもいいはずだった、ワイルドは。馬鹿みたいにぼろぼろと白状した自分だった。知っているものと思い込んでいたせいもあるが。それでも、恨めない。
「余計なお世話だろうが、口は閉ざしておいた方がいいぞ」
「あんたは知ってる話だと思ってたんだ」
「買いかぶり過ぎだ。知っていることなどそう多くはない。君は忘れたのか、君と私は同年だぞ? まだまだ青い騎士にすぎんさ」
 それでもロレンスには生家の力がある。教育がある。いまのイェルク王に子は一人きりだ。遠いことを騎士としてワイルドも願ってはいるが、いずれアレクサンダー王子が王冠を得る。そのときロレンスは新王に近い血を持つものとして王の側近くこの国を支える柱石の一人となる。自分とは違う。ワイルドは思う。そんな彼の前、ロレンスが少しばかり悪戯っぽく笑った。
「ただの冗談ではあるがな。その血を利用しようとは、思わなかったのか? 君の、その。心に思う人と言うのは、身分の高いお方だと言っていただろう?」
 何を言い出すのかとワイルドは呼吸が止まりそうになる。強いての努力の結果なんとか平静を保って笑った。
「言ったはずだぜ。向こうは俺をなんとも思ってないってな。気安く話しかけられるような身分だったとしても、同じだろうよ」
「悲観的な男もいたものだ。妙な誤解はしないでほしいが、君はとても魅力的だと思うんだが、私は」
 肩をすくめてワイルドは答えない。それにロレンスは追及をやめた。我ながら品の悪いからかい方をしたものだと後悔する。
 ただ、気にかかっているのは本当だった。これほどの男が思いを寄せてなお振り返らない人間とは、いったい誰なのだろうと。すげなく扱われ続けているのだろう友が悲しくて、知りもしない相手に憤慨していた。だからこそ、別のことでは力になりたい、なにがなんでも。
「ワイルド、頼みがあるんだが」
「……なんだ」
「そう警戒するな。これでも私はミオソティス公爵家を継ぐ身でな。いまは竜騎士団に身を置くが、このままここで一人楽しく過ごすと言うわけにもいかない」
「楽しいか?」
「楽しいに決まっているだろう。好きな剣の道にいて、傍らには友がいる。これで楽しくなかったら私はどれほど贅沢者なんだ?」
 ずきりとしたどこかを強いてワイルドは見なかった。一緒になって笑っていた。自分もそうだなどと言って。目を細めて笑うロレンスに笑みを返しつつ。
「だがな、安楽な生活に安穏とするわけにはいかないだろう? だから宮廷の噂話を仕入れておこうと思う」
「……おい」
「君のためではないぞ? 殿下の周辺は私の身にも直結するからな。私が調べてなんの不思議がある?」
「だから、動いてくれるな! そう言ったはずだだろうが」
「考えろ、ワイルド。私の所属する騎士団に暗殺者が放たれたんだぞ? ここで私が微動だにしないほうが不自然だ。探りを入れる程度だ。不審にならない程度でも、なにも知らないより良いとは思わないか、君は」
 返す言葉がない。知りたいことは山のようにある。自分を狙っているのは誰なのか。王子か、それとも違うのか。否、本当はどうでもいいとワイルドは思う。襲撃者は襲撃者。誰であろうと関係はない。ただひたすらにロレンスが案ぜられる。本心を言うならばそれだけだ。だから、言いにくい。むつりと黙ったワイルドに詫びるようなロレンスの眼差し。
「……できることを、させてくれないか」
「無理はしないでくれ。……あんたは言ったな。俺を友達だと呼んだ。なら、俺が言いたいこともわかってくれると信じている」
「試すような言は慎んでいただきたいな。君に死ぬなと言ったのは私だ。私も危ないことはしない、約束する」
 にやりと笑ったロレンス、差し伸べてきた手。ワイルドは黙ってその手を握った。公爵家の嫡子として、公爵ご本人は苦々しいと思っているだろうな、とワイルドは思う。それほど剣に荒れたロレンスの手。高位の貴族の手ではなく、素晴らしい騎士の手。しばし握ってワイルドはゆっくりと離した。
「まずは――」
 どこを当たるか。言いかけたロレンスがふと黙る。扉が叩かれていた。ワイルドもまた不審だ。こんな時間に訪問者は滅多にない。
「開いてるぜ」
 まさか団長ではないからワイルドの言葉はぞんざいだ。唯一気を使う存在はすでにこの室内にいる。ワイルドの言葉に応ずるよう無造作に戸が開かれ、そのときにはワイルドももう誰だか悟っていた。
「失礼しま……隊長!? あんた、何やって――!?」
 マケインが戸口で絶句していた。気持ちはわからないでもないワイルドだった。いまだロレンスとはようやく意思疎通が図れるようになった、と言う体で接しているのだ。なぜ私室に彼がいる、とマケインが息を飲むのもわかる。
 ましてマケインは知っている。ワイルドの腰から下のだらしなさをマケインは彼にずっと付き従ってきた騎士として知り抜いている。よもやと思えば青くなる。
「待て、マケイン。俺は同僚に手を出すほど飢えていないし、手近で済ませるほど節操がなくもない」
「……それを信じられたらどれほど幸福かと思いますが」
「思い出せ。いまだかつてそんなことがあったか? ないだろうが!」
「ロレンス閣下はいまだかつて覚えがないほど美しい方ですから。隊長がうっかり節操を失くしたとしてもおかしくはないかと」
「……お前な。俺をなんだと思ってるんだ」
「尊敬してますよ、隊長。腰から下を信じてないだけです」
 にっこり笑って言うマケインにロレンスが吹き出した。これはいよいよ本当にそう言うことか、と眼差しを険しくさせる副官にワイルドは慌てる。
「違うって言ってるだろうが。ちょっとした内密の話と言うやつだ」
「いわゆる上つ方の?」
「そのとおり。火の粉がかかりそうでな、こっちも。その対応の相談だ。お前抜きだったのは巻き込むと危ないからだ。素面じゃ聞く方も話す方も緊張するからな、酒が入ってた。どうやら……ロレンスは弱いらしいな」
 酒のせいで普段とは様子が違う、そう言うことだと言うワイルドにマケインは訝しげな顔をしたままだった。不躾なほどロレンスを見やる。
「隊長。ご存じですか。そう言う態度を、言い訳がましいと言うのです」
「だから違うって言ってるだろうが!? そんな気は更々ねぇわ!」
「……そこまで断言されるのも、私に魅力がないような気がしてくるんだがな、ワイルド」
「話をややこしくしてくれるな!」
 声を荒らげるワイルドにマケインは頭を下げて笑っていた。どうやら隊長は本当にロレンスを評価しはじめたらしいと。それが副官としては嬉しい。反面、複雑な心境でもあった。




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