彼の人の下

 前日に仕事を残してしまった。でき得る限り早急に仕上げるべき仕事で、マケインはまだ朝早い時間に執務室へと急いでいた。その途中に見かけたものに血相を変える。慌てて隊長執務室に飛び込めば、元凶が涼しい顔をしてすでに仕事をしていた。
「隊長!?」
 どことなく乱れた姿のワイルドに頭に血が上りそうになる。ワイルドが仰け反るほどの勢いで詰め寄ったマケインだった。
「なんだ、急に。早いな、仕事が残ってたか」
「はい――。ではなくて、そうではなくて! 隊長、ざっくばらんに行かせていただきますが。――あんた、なにしたんですか!」
「ずいぶん平たいな」
 副官の雑な言葉をワイルドは笑っていた。副官のなんのと言ってはいるが、長い付き合いでほとんど兄弟のようなものだ。騎士叙任を受けて以来ずっと付き従ってくれているマケインだ、咎めるようなことでもない。
「雑にもなるでしょうが! さぁ、聞かせていただきましょうかね。なんでロレンス閣下が隊長の、部屋から、出ておいでになったのかをです!」
 わざわざ区切って言うマケインにワイルドは顔を顰める。それをまた誤解したのだろうマケインが顔を真っ赤に染めていた。
「あのな、マケインよ」
「なんですか!」
「俺は面倒な手合いに手を出すほど飢えてない」
「そりゃあ、おもてになりますからな!」
「だろう? その俺が、なんでわざわざロレンスをたぶらかすよ? そんな面倒くさい。誰がやるか」
 うっかりマケインはその言を信じそうになる。この長きにわたって仕え続けている騎士は、確かに彼自身が言うとおりの行動をする。マケインが知る限り――と言うよりワイルドがまったく隠さないので間違いなくすべてを知っているのだが――彼の交際相手は良家の子女であったためしがない。身分家格に相応しい相手とお付き合いをする、などと言う可愛いものではなく、相当に即物的な関係しか持っていない、それも玄人と。だからこそ、不思議だ。不可解だ。
「仕事だよ」
「隊長のご自室で、深夜にわたるお仕事、ですか?」
「そう厭味ったらしく言うんじゃねぇよ。違う。ロレンスの仕事だ。と言うより、出くわしただけだ」
 そしてワイルドはずいぶんと省略をして昨夜のことを語った。遊んで戻ったらロレンスと会った。彼はそのまま朝方まで仕事をするらしい。そして執務室で仮眠を取ると言っていた、と。
「よくよく聞いたらな、ロレンスは部屋の用意がされていないらしい」
「それは……当然かと」
「なんでだ?」
 ワイルドや同僚のベイコンが騎士館に部屋を持っているよう、同格のロレンスにも自室があるべきではないのか。問うワイルドを不思議そうにマケインは見やった。
「いままでも、そうでしたでしょう? 参謀長閣下は、こんな粗末なところになどとても暮らせないと仰せになるお家柄の方々ばかりでしたし」
「でも、ロレンスは違ったらしいな?」
 にやりと笑う己の上官にマケインは背筋を伸ばす。本当は知っていたのではないかと問われた気がした。本館に寝泊まりしているロレンスを。多少なりともくつろぐことのできる自室すらなく働く彼を。
「即刻対処いたします!」
 ロレンスに仕えている彼の部下は使えない者どもばかりだ。参謀長の出来が多少悪かろうとも部下の出来がよければ爪牙両部隊はさほど困りもしなかったのだが、参謀長に輪をかけて酷い出来しかいない。だからこそ今ロレンスが苦労をしている。ロレンスの自室がない、と言うのもそのせいだ。本来ならば彼の部下が動くべきことだったが、そんな頭もないらしい。
「と言うより……上官が働いてるの、気がついてないかね。あれは」
 それはそれでぞっとする話だったが、背筋が寒くなるのはロレンスであってワイルドやベイコンはすでに諦めの境地に達して長い。あちらの部下に言うよりマケインを動かしたほうが早い、と判断したのもそのせいだ。完全な越権行為だから文句を言われる、否、処罰の対象にすらなり得るが、それにさえ気づいていないロレンスの部下たち。自分の手間が減ったと喜んでいるかもしれない。
 長い溜息をつき、ワイルドは残っていた仕事に励む。ついでにマケインが抱えていた書類にも目を通して始末した。あの分では飛びだして行ったマケインは朝の訓練が終わるまで戻らないだろう。
「今日は、あっちだったかな」
 律儀に朝の基礎訓練に参加し続けているロレンス。今日は牙部隊の方に行くはずだった。それが終われば身なりを整えて、再び己の職務に邁進することだろう。
 ふと気づいてワイルドも席を立つ。マケインが血相を変えていた理由に思い当たる。ロレンスを見かけた、と言うのも一因だろうが自分の乱れた服装も一つだろう。昨夜のことを思い出してはつい、口許がほころぶ。
 あのあと話しながら騎士団に戻った。さすがに門衛の前を通るときだけ、ワイルドは不機嫌そうな顔をする。先ほどまで敵意を見せていた爪部隊の隊長が参謀殿と笑いながら並んで歩いていてはいくらなんでも不自然に過ぎる。
「……あぁ、そうだ」
「言うまでもない。口止めは不要だ。私と君はここではじめて会った。そう言うことだな?」
「悪いな」
「かまわない。――それで、なんだ、急に親しくなるのは、どうするんだ」
 親しくなる、と断言されてしまったワイルドは身の置き所がないような気がする。いままでの振る舞いをあっさりと水に流してくれたロレンスに対して申し訳ないと共にありがたい。
「ちょうどさっき出くわして、話してみたらまぁ、中々見どころがある参謀殿だった、と。うちの部下どもも信頼してるし、いいんじゃないのかな、くらいでどうだ」
「了解した。――では、また明日」
「っと待て、ロレンス」
 本館に向かって歩きだすロレンスを呼び留めれば、なぜか楽しげな彼の顔。あるいは彼もまた、友との再会が本当に嬉しかったのかもしれない。
「あんた、部屋は」
「ない」
「――寝てるか?」
「一応、来客用のソファがあるからな。横にはなれる。あとは夜中に騎士館の浴場を借りて身づくろいをしていたから、問題はない」
「……あるだろうが。うちは夜中まで火を焚いとくほど財政に余裕はないはずだぞ」
「冷めてはいるが、大したことはないぞ」
 これが公爵閣下の嫡子の言葉なのだと誰彼かまわず言ってまわりたい気分のワイルドだった。やりはしないが。本当に、とんでもないところまで突き抜けている男だとしみじみ思い出す。
「了解。対応する」
「気にするな、別にかまわない」
「気にしないわけないだろう? 友の不自由を見逃せとでも言うのか、あんたは」
 もしも自分が同じ目に合っていたならばお前はどう動くのだ、と叱責されてロレンスは目を瞬かせる。そしてほんのりと口許をほころばせた。
「ありがとう」
「礼には及ばんよ、対応するのはどうせマケインだ。ついでだ、今日は俺の部屋で寝てけ」
「いや……その……」
「余計な懸念は無用。俺は誰かのベッドに転がり込むだけだからな。ほれ、内鍵な」
 指揮官の私室だ、外からも内からも鍵をかけることができるようになっている。当たり前の事実だったがロレンスは驚いたらしい。
「違う。そんな大事なものを私に託すのか、君は」
「見られてまずいものはたぶん……ないからな」
「なるほど。だが、よけいなところは見ないよう努める。ありがたく……借りるよ。感謝する」
 軽く頭を下げるロレンスの金の髪。薄暗い本館の前でもまだ光っていた。ワイルドはなにも言わず片手を上げて背を返す。
「さて、と」
 誰かの寝台に転がり込むつもりはない。マケインならば信じない先ほどの言葉。ロレンスは信じたかと思えば苦い。もっとも、疑える状況ではないだろうとも思う。結局、執務室に泊り込んだのはワイルドのほうだった。彼の執務室にも来客用の長椅子はある。寝心地はお世辞にも良いとは言えなかったけれど、一晩くらいならばどうということはない。戦場では天幕も張らずに寝転がることも多々あるのだからこんなものは贅沢気分だと嘯きながらワイルドは眠った。
「あまり寝た気がせんな」
 身なりを整えて戻ればまだマケインは戻っていなかった。ロレンスはきちんと眠っただろうか。ふとそんなことを思う。
「隊長、戻りました。――あぁ、申し訳ありません」
「なに、手が空いていたからな。気にするな」
「は」
 自分の机の上がさっぱり片付いているのにマケインは苦笑いをする。日頃は面倒だと書類の類を投げるように渡してくるワイルドだったが、やればできる。むしろ、人に抜きんでて有能だ。やりたがらないのはやればできるからかとも思う。
「ロレンス閣下のお部屋の手配も済ませてまいりました。その足で牙隊に向かって閣下にお部屋のことはご報告済みです」
「ご苦労さん。相変わらず仕事が早い」
「過分なお言葉ですよ。仕事が早いのは私ではなく――」
 隊長だろうと続けようとしたときのワイルドの嫌そうな顔にマケインは吹き出しそうになる。本当に、剣の腕を褒められるのは喜んでも他の仕事に有能だと言われるのを彼ほど嫌う男は見たことがない。
「ちょっと、お尋ねしてもいいですか」
「遠慮がいるような仲か?」
「一応は。――急にロレンス閣下のお部屋を、なんて言いだしたのが少し不思議でして」
「仕方ないだろうが。知っちまって無視するのも後生が悪い。倒れられるのも迷惑だ」
「倒れそうなほど仕事なさってますからねぇ。我々もご助力はしているんですが」
 ワイルドとベイコンの指示だった。両副官はいかなることでもロレンスの指示に従ってよいとすでに通達済みだ。おかげで仕事は増えているが副官たちは楽しそうに仕事をしている。やり甲斐があると言うのはよいものだった。
「多少は、軟化しましたか。隊長?」
 からかう口調の副官にワイルドは渋い顔。それでも氷色の目が笑う。マケインはそれに眩しげな眼差しを向けていた。
「俺がどうこうじゃないさ。部下どもが懐きはじめたからな。あいつらが信じるなら、俺はそれでいい」
「献身的な隊長閣下もおいでなものですな」
「そりゃそうだろう? 隊長なんぞ部下どもの楯だろうが。体張って守るのが役目だろ」
 肩をすくめて衒いのないその言葉。マケインは深々と己の隊長に一礼していた。




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