彼の人の下

 十四歳の名ばかりの春。まだ訓練場の隅には雪が残っている。ワイルドが従騎士としてホーンウィッツ伯爵家にやってきたのはそんな頃だった。
 ワイルドの生家は下級騎士としては家格が低くはない。が、爵位には遠い、そんな家柄だった。そのせいなのかどうか。父が奔走に奔走を重ね、ホーンウィッツ伯爵家に従騎士として仕えられるよう話をまとめてきたのは。
「私の身分に相応しくはないのだ、こんな現状は」
 父の口癖。ワイルドは苦々しく思っていた。相応しくないどころか、分相応だとすら思っていた。逆に伯爵家への奉公のほうがよほど相応しくない。自分はただの下級騎士の子息にすぎない。誰がなにをどう思おうと、それが事実だ。
 が、決まってしまったものは致し方ない。これを謝絶すればそれはそれで大変な話になるとはたかが十四歳の子供にでもわかること。
 そうして渋々とやってきた伯爵家で出会ったのが、アルバート・ロレンス。同年のその少年はどんな騎士にも貴婦人にも負けずに光り輝いていた。鮮烈すぎて、誰も近づけない類の。
「開始!」
 指導騎士の監督の元、訓練場で立ち合いが行われていた。もちろんワイルドは隅の方で自分よりも身分が上の少年とやりあうことになる。ここにはワイルドより下どころか同格ですらいない。すべてが高位の貴族の子弟だ。
 ――こんなところで訓練になどなるものですか。父上。
 血走った目の父を思えば、面倒だと放り出すこともできない。自然、剣にも力が入る。下級騎士と生まれたその日から、ワイルドは徹底して剣を叩きこまれてきた。この腕一つでのし上がれ、と。それは父の意ではなく、祖父の遺言。生前からそう養育するように、と言い続けていた祖父の言を破ったのもまた、父だった。
 だからこそ、従騎士たちの中ではひときわ優れた腕をしていた。貴族の子弟など、とても敵わない。あっさりと剣を飛ばされた少年が憎々しげにワイルドを睨む。彼は気に留めてもいなかった。ただ、現状のすべてが不愉快だった。
 同様に。訓練場の中央でよく似た思いを抱えている少年がもう一人。溜息をつけばそれだけで人が飛んできかねない。
 ――こんなことで訓練になどなるものではないでしょう、父上。
 期せずして内心の思いが重なる。当人たちは知らないことだったけれど。そのロレンスの周囲には、ワイルドとは打って変わって人がいた。貴族の子弟ならば公爵の嫡男とこの機会に知遇を得たいと望むもの。そんな彼らを非難はできない。宮廷とはそうして成り立っているとすでにこの若き貴族は知っている。それでも。
「――ご指南願います」
 指導騎士までたかってくることはないだろうと思ってしまう。伯爵家の騎士ともなれば、それほど身分家格に難があるわけはない。わざわざ出世にあくせくする必要はないはずだ。
 そう苦く思うのは彼がいまだ少年だからだろう。上れる手蔓があるのならばどこまででも上りたい。それが権力への欲だと十四歳の少年にはまだ実感できない。
「とんでもない。お怪我をなさったらいかがなさいます」
 自分は訓練に来ている。ここで従騎士としてなすべきことを習得し、立派な騎士として認められたい。言えばきっと大人たちは言うだろう。あなたにはそんなものは必要ないと。公爵家の嫡子であればすべてが叶う。充分なのだと。
 それはロレンスの望みではなかった。子供の気概と言わば言え。王家の藩屏たるのが公爵家の務め。ならば何より正しく誰より強くあらねばならない。たとえそんなものは求められていないと薄々気づいていたとしても。
 きっとだから、たぶんそのせいだった。隅のほうで一人鍛錬を続けている少年に目が留まったのは。ロレンスはそのとき自分より少し年上だと思った。後になって同年と知るのだけれど、ならば横柄なものだと笑った記憶。
「君。一緒に訓練をしよう。立ち合ってくれないか?」
 ざわつく周囲を内心で蹴り飛ばし、ロレンスは真っ直ぐとワイルドに歩いて行く。近づかれたワイルドこそ、驚いていた。
「訓練?」
「そうだ。君は一人なのだろう? だったら私と手合わせをしてくれてもいいように思う」
「――かまわない」
 意図して使った雑な言葉。貴族の子弟も指導騎士も無礼だと顔を赤くして怒る。この公爵家の嫡子様もきっとすぐにいなくなるだろう、ワイルドはそう思ったのだが。
「よかった」
 ぱっと明るくなった顔。そして真摯に顔の前、剣を掲げて礼をする。慌てないよう心掛けつつ、ワイルドも倣う。が、耳の赤さに驚愕が零れていた。
 そしてまた驚く羽目になる。こんな高位の貴族の子弟が、なぜここまで剣の腕が立つ。自分の腕が時に痺れそうになるほど鋭い打ち込み。ワイルドも容赦なく打ち返す。そのたびに周囲から悲鳴じみた憤慨の声。気にするな、と紫めいた目が笑った気がした。そして本当に、いつの間にか気にならなくなる。自分と、相手と、剣の音。ただそれだけが世界にあった。
「そこまで!」
 さすがにそれだけは聞こえた。ぜいぜいと呼吸を荒らげれば、相手もまた同じことをしている。ロレンスとワイルド、互いに見合っては照れくさそうに笑いあう。
「ずいぶん上達したものだ。が、二人きりでは訓練にならんぞ。――何をしていた」
 見やればそこにはホーンウィッツ伯爵その人。先ほどの声も彼らしい。さすがに伯爵はロレンスをきちんと従騎士として扱った。
「申し訳ありません、御前」
 指導騎士がしどろもどろになっていた。あるいは彼には荷が重いのかもしれなかった。公爵の嫡子が従騎士となったとて、従騎士は従騎士。自らが教え導き鍛えるべき少年。彼にはそこまでの覚悟がなかったのかもしれない。どうしてもロレンスの後ろに公爵家を見てしまうのだろう。
「まぁ……よい。ロレンス、ワイルド。お前たちもお父上の名を辱めることはしてはならんぞ」
 貴族の子弟には、二人の将来を嘱望し、激励した言葉に聞こえていた。ロレンスは違う。己の身分を考えろ、ワイルドは友とするに相応しくない。そう聞こえた。ワイルドも違う。下賤の身を弁えよ、ロレンスに親しく接する身分か。そう聞こえた。
「はい!」
 二人綺麗に揃った返答。きっとホーンウィッツ伯爵の仄めかしと逆のことをしようと思ったのは、少年らしい反抗心だ。
 以来、二人は何くれとなく行動を共にした。訓練はもちろん、食堂の隅で一人みなとは少し違う食事をしていたワイルドに声をかけたのもロレンス。
「ご一緒してもよいかな」
 作法の習得も従騎士の大事な勉強の一つ。ロレンスは生家ですでに身につけていたことから、そんな言葉になる。無論、ホーンウィッツ伯爵家の指導係をからかってのことだ。彼は大仰に過ぎるな、それがロレンスの評価だった。
「もちろん」
 ほんのりとした苦笑。この貴族の若君の気紛れはいつまで続くのだろう、そう思ったのはずいぶん前。疑い続けていたのも、すでに遠い。いまはもう、考えるのをやめたワイルドだった。
「はじめてこうして同席を求めたときのことを君は覚えているか」
「忘れようにも忘れられない光景だと思うぞ、あれは」
「確かに」
 紫めいた目が笑い、氷色の目が和む。はじめて立ち合ってから数日と経っていなかったと思う。同席を求めたロレンスに辺りがまたも悲鳴を上げたのだから。
「いつか聞きたいと思っていたんだが……。私は君の邪魔になってはいないのだろうか」
「はい?」
「私がいるせいで、君には友人らしい友人がいないだろう?」
「あんたのせいじゃないと思うがな」
 ぞんざいな言葉にいまだ周囲はぴりぴりとする。いい加減にもう数年が経っている。二人は確かに友人としてここにいるのに、周囲は決してそうは思わない。下賤な身分の者が無礼を働き続けている、それをお許しになる公爵閣下のご子息はお優しい、と言うわけだ。
「だが――。従騎士時代の友は、終生の友となる。私はそう聞いている。私がその機会を君から奪っている、そんな気がして」
「ロレンス」
「なん――。なにをするんだ、君は!」
 うつむいていたロレンスに呼びかけざま、ワイルドは剥いた果物をその口に押し込む。ロレンスが苦手としている酸い果物だと知っていてやっていた。くつくつと肩を震わせて笑うワイルドにロレンスは毒気を抜かれたかのよう。
「あんたのせいじゃない。――俺はこんな立派なお屋敷にお仕えするような家の生まれじゃない。それだけだ」
 ロレンスはそれには黙った。確かにワイルドは下級騎士の生まれだ。伯爵家での修練は高望みが過ぎる。それでも認められたのはなぜだろう。ふと嫌な噂を思い出す。ワイルド自身、その噂を知っているのかどうかとも。思った途端に退けた。
 そして別れは唐突に訪れた。訓練開始から三年後の夏。ロレンスは生家に呼び戻されることになった。それも、正式な騎士として。叙任式は国王陛下が執り行う、と発表された。
「……ワイルド」
「なんて顔してるんだ? めでたいことだろうに。――おめでとう存じます、閣下。今後ますますのご活躍を陰より」
「やめろ、ワイルド! 私と君とは、友ではないのか! 友から、そんな言葉は聞きたくない……」
 十七歳にして騎士叙任を授けられることになったロレンスの、その揺らいだ眼差し。ワイルドは笑い飛ばすばかりだった。
「悪い。ちょっと気取ってみたかっただけだ」
「……そうか」
「でも、祝い事だろう? あんたはあんたの道を行く」
「君は、君の道を。――だが、ワイルド。必ずどこかで交わると信じている。むしろ、力をつけて私は否が応でも交わらせてみせるからな。覚悟しておけ!」
「あんたにお仕えするのも楽しそうかもしれないな」
「誰が仕えさせるものか。私と君は友だと言っている」
 そうして泣き笑いのような顔で伯爵家を発って行ったロレンス。ワイルド自身の叙任は遥かに遅れて二十一歳。十九歳のとき、病で父を失ったのが響いていた。
「……満足ですか、父上」
 訓練中、公爵家の嫡子と親しくなったと聞きつけた父のあの歓喜の表情。ロレンスが最も嫌うあの周囲の表情。少なくとも今後ロレンスに迷惑はかからない、父の死にそうとしか思えない自分をワイルドは黙って見ていた。




モドル   ススム   トップへ