彼の人の下

 竜騎士団の敷地は広い。本館と翼棟から演習場を囲むようにして伸びているのがそれぞれの隊舎とでも言うべき騎士館だ。ここに所属の騎士すべてが住んでいる。さすがに高位の貴族はいないので、騎士たちだけの部屋数で済んでいる――高位のそれともなれば従士に従卒、小間使いに至るまで側仕えが存在することもある――けれど、それでも五百名近い騎士たちだ。そして本館を正面に臨む正門もまた堅固なもの。こちらには月替わりで両部隊の騎士が門衛を務め、人の出入りや物品の監査をする。これらの建物に囲まれた竜騎士団の敷地はいわば砦だった。
 よって、王都の僻地にある。どうせならば王都の郊外に作ってしまえばよかっただろうに、そこはそれ、やはり騎士団というものは王都の内にあるべき、と言うことらしい。おかげで少し夜が遅くなれば食事に出るのも困難な場所だった。なにしろ周囲には何もない。
「……遅くなったな」
 ロレンスは呟く。仕事を中断して食事に出た帰りだった。平素ならば本館で食事を取る。が、これほど遅い時間とあっては召使を呼びだすのも申し訳ない気がして、ロレンスは外出することにしていた。
 まだ王都の中心部では明かりも華やかな時間だった。けれどここではもう星明りばかりが瞬く。うっかりすると足下が危ないほどの暗がりだ。もっとも、ロレンスの足取りに不安はなかった。
「慣れたものだ」
 つい苦笑が浮かぶ。まだ赴任して一月そこそこではあるのだけれど、これが日常になりつつある。無理をしている自覚はあるが、怠惰に過ごして何かがあってからでは遅い。溜息を一つ。本館に戻って積み上がった書類に目を通そう。そう思ったロレンスの足が止まる。
「あたりをはばかる夜の声、か――」
 深夜と言うほどの時間ではないけれど、それに匹敵するほど人気のない竜騎士団の周囲。誰かが話していれば遠くからでも聞こえる。不意に眉を顰め、ロレンスは一度足を止めて道を避けた。しばしの後、誰かが去って行くのを聞き取る。ロレンスが来た方角に、つまり王都の中心部に。けれど足音は一つきり。わずかに首をかしげ、とにかくもう立ち聞きしてしまう恐れはなくなった、とロレンスは再び歩き出す。
「あ――」
 けれど驚いた。否、わかっていたような気がする。二人分の話し声。こんな暗い場所。去って行った一人。残る一人は。
「ワイルド……」
 竜騎士団の明かりが見えはじめていた。灯りもないこの道に松明のそれは輝かんばかり。ほの暗い中、氷のように鋭く冷たい目が光った気がした。
「なんだ……? あぁ……参謀殿か」
 かすかに鼻で笑ったような気配。まだ時間は短いとはいえ、ロレンスは竜騎士団のほぼすべてに受け入れられている。むしろ、隔意を見せているのはワイルド一人。
「こんな時間にここに? なんのご用だ」
「なんのご用もなにもない。仕事の途中だ」
「途中――」
「空腹を覚えて食事に出ていた。戻ってまた仕事だ」
 さすがにここで一人先に行くのは無様だ、とワイルドは思ったのかどうか。あからさまに渋々と並んで歩きだす。ロレンスの言葉にけれど一瞬立ち止まってはじっと彼を見つめた。
「なんだ?」
「こんな時間まで、仕事? 戻ってまた仕事? 言いたくはないが参謀殿は何を考えてらっしゃるのかな。体を壊す趣味でもおありか」
「まず、一つ言いたい」
「承りましょうかね」
 はいはい、とでも言わんばかりの投げやりな態度。癇に障ってもいいはずなのに、ロレンスは苦笑で済ませた。性分ではない。ただ、なぜとなく。
「お前と私は同格のはずだ。そのわざとらしい敬語はやめてもらいたい」
「嫌味なんだがね」
「だろうとは思ったがな。だいたい嫌味を言われる覚えはない、と思うが」
 なにか不快な目に合わせただろうか、ロレンスは考える。赴任したばかりの時には爪部隊も牙部隊も、双方の騎士たちから隔意と言うよりは敵意を向けられていたロレンスだ。が、いまはもうそれも消えている。あるいは指揮官であるワイルドはそれが不愉快だったか。それほど狭量な男とはとても思えない。
「……正直に言って、あんた個人がどうこうじゃないな」
 溜息のような声。ロレンスははっとしてワイルドを見やる。並んで歩けば、さすがに現役の実戦指揮官だ。いくら鍛えていようとも厚みが違う、そんなことをロレンスは思う。慌てて集中をし直した。
「どう言うことだ。私は私の問題ではないことで避けられていたのだとすれば、さすがに不愉快ではあるが」
「だろうな。同意するよ」
 ならば言え、とロレンスの眼差しに見据えられてワイルドは肩をすくめる。できれば言いたくない、というよりこうして歩いていたくない。またも溜息が零れた。
「原因は、前任者だな」
 それでロレンスにも見当がついた。書類を読むにつけ、部下の話を聞くにつけ、放逐して空席にした方が害のない人物、というものが存在するのだと思い知らされたロレンスだった。両部隊の騎士たちが敵意を向けてきたのも当然だとロレンス自身うなずくほどに、酷かった。
「……理解はするが、私を同一視されるのは」
「そりゃ不愉快だろうさ」
「お前のその態度は、ありがたくはあったがな」
「ふうん?」
「何度騎士たちに私は言われたかな。うちの隊長がすみません、隊長も色々思うところはあるんです、――かなり頻繁に言われているぞ」
 言ってロレンスは笑った。実際問題として、ワイルドが隔意を見せれば見せるだけ、爪部隊は結束してロレンスを守ってくれている。それを見た牙部隊もまた、今度の参謀は悪い人間ではないらしいと警戒を解いてくれた。ワイルドには礼を言ってもいいくらいだった。不愉快では、あるけれど。
「そいつは結構。そろそろ仲良くする頃合かね」
「……は?」
 にやりとワイルドが笑っていた。それだけで生まれながらの殺人者のような目が、柔らかな印象になる。瞬くロレンスにワイルドは再び笑う。
「一人くらい敵役がいた方がやりやすいだろうが」
「お前……! わかっていて、わざとだったのか!?」
「団の事情はもう把握してるだろうが。参謀長って聞くだけで部下どもは闇討ちでもしかねないくらいだったからな」
 肩をすくめるワイルドをロレンスは呆然と見やる。印象が、変わっていく、否、戻っていく。けれど、しかし。
「仕事はやりやすくはなったがな。不愉快だったぞ、ワイルド」
「すまん」
「……別に。まぁ、いい」
 肩を震わせて笑いをこらえるワイルドなど、ここにきてはじめて見た気がした。どちらからともなく、立ち止まる。騎士団の明かりがもうすぐそこにあるというのに。
「一つ、忠告をしてもいいだろうか」
 咳払いをするのは、困ってしまったせい。ワイルドにいまこれを言えば、またも敵意を向けられることになるのかもしれない。それでも言わないという選択肢はない気がした。
「咎めようと言うのではないがな、ワイルド。お前の交友範囲はあまりにも華やかだ。――上に見咎められると、厄介だぞ」
 視線をそらすロレンスにワイルドは肩をすくめる。視界の端に映ったのだろうロレンスがきっとワイルドを見据えた。
「睨まれても、これ以上飛ばしようがないだろうからな」
 竜騎士団というのは騎士団の中では一番の辺境と言ってもいいくらいだ。あとは国境警備にでもつくくらいしかない。
「歩兵団の指揮官、と言うのもあるぞ」
「それは……ご免こうむりたいな。性格的にあわん」
「だったら自重はすることだ」
「一応考慮はするよ」
 誠意がないにもほどがある言葉だった。ロレンスは信じないだろう。現にじっと見つめてくる紫めいたその目。ワイルドはそらしもせずに肩をすくめた。
「あんた、何やらかしたんだ?」
 逆にワイルドは問う。ロレンスが有能なのは嫌と言うほど知っている。だからこそ、わからない。こんなところにいるべき人材ではない。国王の側近くで働けばより輝くはずの男。
「私が何かをしたわけではないぞ」
 顔を顰めるロレンスだったが、思い当たる節はあるらしい。溜息をついてちらりと見上げれば、ワイルドはどことなく苦笑していた。
「強いて言えば、生まれが悪い、というところか」
「は? 公爵閣下の後嗣でいらっしゃるオフィキナリス子爵が何をおっしゃるか」
「それをやめてくれ、と言っているだろうに」
 長い溜息にワイルドは素直に詫びた。ロレンスは小さく笑い、肩をすくめる。互いに戯言、とわかってやっていた。先ほどまで敵意を見せていたワイルドだというのに。役者もいたものだと思う。
「私の母は、陛下の御妹だからな。父が宮廷でちょっとした失態を演じたらしいんだが、おかげで私までとばっちりを食らったと言うわけだ」
「政争?」
「そういうことだな。もっとも、私自身は望んでここに来たのだがな」
 とばっちり、と言った本人が何を言うか。ワイルドは迂闊にも笑ってしまった。それを咎めるロレンスもまたほんのりと笑っている。
「個人的な趣味を言うならば、宮廷生活は趣味ではない。――こうして、騎士団暮らしをするのはいいものだ。きちんと生きている、そんな気すらするよ」
「好き嫌いで逃れられるものでもないだろう?」
「まぁな。いずれ呼び戻されるのだろうが……できるだけ遅いことを祈っているよ」
 父の失敗を願うようで申し訳ないが。言いつつロレンスは微笑む。本心のようだ、ワイルドは思ってしまう。思うからこそ、目をそらす。
「お前も、そうだろう? 有能なくせに出世欲は皆無ではないのか」
「皆無でもないさ」
「せいぜいここに留まることができるくらいの欲だろう?」
 見抜かれている。思ったけれどワイルドは当然だろうとも思った。一月足らずで全騎士を掌握してのけた男なのだから。
「……お前と話せてよかったよ」
「なんだよ、急に」
「いつまでも敵意を向け続けられるのは腹立たしいからな」
「頃合見計らってたんだがな」
 そして、わからなくなってしまったとはワイルドは言えなかった。できればあのまま距離を置いていたかったものを。




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