彼の人の下

 執務室に戻ってきたワイルドが人目も気にせず着替えをはじめた。もっともこの場にいるのは副官たるマケインだけではあるのだけれど。そもそも着替えが必要なほどきちんと部下の訓練に参加する指揮官、と言うのは珍しい。この竜騎士団の多少の事情、というものではあるのだけれどマケインは無論のことそんな指揮官を尊敬してやまなかった。
「隊長」
 頃合だろう、と淹れておいた茶がワイルド好みに冷めている。体を動かして戻ったばかりに熱い茶は飲みたくない、と文句を言う指揮官にマケインは仕え続けていた。
「どうよ?」
 だからそんな曖昧な言葉でも指揮官が何を言っているのかマケインにはよくわかる。思わずにやりとしてしまった。それをまたワイルドも咎めはしない。長い付き合いの二人だった。
「こう言ってよければ、妙な御曹司様ですね」
 ロレンスだった。赴任から一月がすでに過ぎている。赴任当日のことを思い出してマケインは苦笑が抑えきれなかった。
 隊舎だけを案内するつもりだったマケインだ。が、おおよその紹介が終わったところでロレンスは淡々と言った。
「騎士たちとも顔合わせがしたいのだが。差し支えはあるだろうか」
 それはワイルド隊長の許可が出ないのならば致し方ないけれど残念ではある、とでも言うよう。マケインは一瞬、迷った。が、すぐさま判断を付ける。隊長からは案内をしてやれ、と言われている。そして部下に会わせるなとも邪魔をしろとも言われていない。そのあたりははっきりと言う人だったから、言われていないのならば案内してよいと同義。
「は。こちらへどうぞ」
 が、マケインは不思議でもあった。策戦参謀長として赴任してきたこの美しい騎士が軽騎兵隊になんの用があるのかと。本来ならば、用事はある。なければ困る。両騎兵隊と綿密な打ち合わせをし、連携を取り、作戦行動を可能にする、それが策戦参謀に求められる役割でもある。何も作戦だけを立てていればいいというものではない。
 そして竜騎士団が仰いできた直近二人の参謀は、その役割をまったく理解しないどころか自分の存在意義すら放棄しているような輩だった。
「注目! 本日赴任なさった策戦参謀長閣下である。一同、敬礼!」
 マケインの声に合わせて騎士たちが一斉に顔の前に剣を掲げた。ちょうど訓練中だったから、全員が軽武装だ。その前に立ち、ロレンスは些かも萎縮した風ではない。それをちらりとマケインは横目で見ていた。そして内心で溜息をつく。ロレンス襲来を察知したのか、ワイルドはさっさと逃げていた。
「アルバート・ロレンスだ。よろしく頼むよ」
 柔和では決してない。けれど穏やかな微笑み。部下たちがどことなく違和感を抱いたのがマケインには見てとれる。
「副長」
「なんだ」
「……訓練中だったんですが。もういいですか」
 マケインはロレンスがかすかに肩を震わせたのに気づいた。どうやら笑いをこらえたらしい。が、なにに笑いそうになったのかまではさすがにわかり得ない。
「いや、すまないがもう少し付き合え。――ここで一番腕がいいのは、誰だ?」
 マケインが部下を咎める間もなくロレンスが言う。その屈託のない声に部下たちがわずかに気を緩めたのを感じる。いままでの参謀とは違う、そんな希望にも似た。だからこそ身を引く。警戒は怠らない。所詮相手は高位の貴族、と。マケインにはそれが見てとれていた。
「それは……」
「なぁ?」
 騎士たちが小声で言いかわすのをロレンスは待っていた。ワイルドよりマケインはこの新任の参謀長が公爵の子息、と聞いている。だからこそ驚き過ぎて声も出なかった。下級騎士、と言うだけで同席するのも身の穢れ、と言わんばかりだった前任者たちとはあまりにも違う。まるで同階級の騎士のよう。新しく仲間に入れてもらえるのを待ってでもいるかのような。
「遠慮はいらん。率直な回答が欲しい」
 気にするな、と手を振っていた。ただの雑談で、どうこうではないと示すかのよう。それに意を決したか、それとも自棄になったか。若い騎士の一人が手を上げて発言をした。
「もちろん、隊長です!」
「それは社交辞令として、か?」
「違います!」
 一応尋ねただけだ、ロレンスは言った。そして気分を害したのならばすまないと軽くではあったが頭を下げまでした。それにマケインは息が止まりそうになる。公爵家の人間がどうのではない。ロレンスは参謀長で、彼らにとっては隊こそ違えど上官だ。若い騎士もまた目を白黒とさせていた。
「心に留めておくよ、感謝する」
 なにを心に留める、と言うのだろうこの騎士は。マケインの疑問を読んだかのようロレンスは彼を見た。
「確かに諸君らの業績は私の元に書類として届いてはいる。が、数字を見てなんになる? 無意味とは言わないが、私が策を立てるのは諸君らの誰一人として失いたくないからだ」
 綺麗ごとを言うと思っているだろう。そう言ってロレンスは目許で笑った。思わず引き込まれたのだろう、騎士たちが真っ直ぐとロレンスただ一人を見ていた。
「だから、数字ではない諸君らと面識を得たい。書類上でこの小隊をどう動かせばよい、と作戦を立てるのではなく、諸君ら一人一人にどう働いてもらうか、それを考えたい」
 演習場が水を打ったよう静まり返っていた。そこにマケインは熱気を見る。同時に、期待を裏切られたくないとの警戒もまた。それが敵意として現れる。裏返しの感情をロレンスは悟っているかのよう。気づいた素振りも見せなかった。
「私も人の子だ。こうして顔を知り、言葉を交わした者の死はつらいからな。否が応でも必死になって考えもする」
 だから顔合わせがしたかったのだ、ロレンスはあっさりと言った。マケインは身のうちに震えを覚えた。いままでこんな騎士はいなかった。否、一人だけ。忠誠を捧げた己の隊長を思う。体を張って一人で爪部隊を守ってきた男を。
「マケイン」
「――は」
「邪魔でなかったならば、早朝の訓練には私も参加していいだろうか」
「……は?」
「共に体を動かしたほうが理解が早いはずだ」
 だからロレンスは基礎訓練には参加をしたい、そう言う。マケインはまじまじとロレンスを見てしまった。無礼だと気づくのに一瞬。目をそらすのにまた一瞬。
「もっとも、私の都合もあるから毎日と言うわけにはいかないが」
「は……。歓迎いたします」
 朝の基礎訓練に関してはワイルドよりマケインは訓練内容を一任されている。よって、問題はないはずだ。ここで断ることも、認めることも。悩むより先に部下たちの熱気を感じたマケインは、知らずうちそう言っていた。
「……で、まだ続いてるって?」
 回想に声が届く。マケインは瞬きをして苦笑した。ワイルドが呆れ顔のような、居心地の悪いような顔をして窓の外を見やる。もう午後も遅い。この時間にはロレンスは訓練などしていない。それでもそこに彼の人の姿を探したのではないか、マケインはなぜかそう思った。
「毎日は無理だって言っておいででしたがね。そりゃそうでしょうよ」
「うちには一日おきに律儀に来てるって?」
 にやりとしたワイルドにマケインは肩をすくめる。そのとおりだった。無論ワイルドはその程度のことは副官からの報告を待つまでもない。知っている。そして再びにやりとして見せた。
「うちに来てない日は何してるか、知ってるか?」
「知ってますよ? 牙で訓練してるそうじゃないですか」
「なんだ、知ってたか。つまらん」
 言いつつワイルドは嬉しそうだった。この有能な副官が知らないとは思ってはいない。が、知っていればまた嬉しいものでもある。
「うちよりあっちの訓練のほうがきついでしょうに。よく続きますよ」
 通称牙部隊、重装騎兵隊だ。それは軽装騎兵であるこちらの訓練より厳しいものだろう、とマケインは言う。なにしろ武装した場合、鎧の重さからして違う。元々の体を作っておかなくては鎧も着れない、という事態にならないとも限らないのが牙部隊の恐ろしいところだった。
「うちはうちできついがな」
「そりゃそうですがね。そろそろ別内容を考えましょうか」
「飽きが来てるか?」
「多少は。まぁ、あいつらは訓練をしないと生き残れないってのをよくよく知り抜いてますからね。大丈夫でしょうが」
 それでも最善は尽くしたい。どこでもない場所を見て言うマケインにワイルドは微笑む。ここで多くの騎士たちを失ってきた二人だった。辺境の国境警備をしているわけでもないというのに。期せず溜息が重なり、互いに顔を見合わせては苦笑した。
「じゃあ一つここは俺が出るかね」
 にんまりとしたワイルドにマケインは慌てて見せる。わざわざお出まし願うようなことではないと。けれどワイルドは気にせず片目をつぶる。
「若いのは俺に叩きのめされるのが好きみたいだからな。可愛がってやりゃ喜ぶさ」
「隊長……」
「うん?」
「うちは由緒正しき名誉ある竜騎士団麾下の騎兵隊ですぞ。変態の集団のように言うのはやめていただきたい!」
「でも、事実だろ?」
「……遺憾ながら」
 嘆かわしげに言ったマケインにワイルドが大きく笑う。由緒あるの名誉あるの言ってはいるが、実のところそれをあまり信じてもいない二人でもある。近衛騎士たちに無頼同然と陰口を叩かれているのを聞いてすら、納得してしまうような二人だ。そしてその方がよいとも。
「久しぶりにお前もどうだ? たまには手合わせをしてほしいもんだが」
「ご冗談を。隊長には敵いませんからね。もう少し腕を上げたら、見ていただきますよ」
「その腕がどこまで上がったか見せろって言ってるんだがな」
 にやりとしたワイルドのその表情が固まる。何気なく振り返り、マケインは驚く。それを顔に出すことだけは、控えたが。
「仕事上のことで尋ねたいことがあるのだが。かまわないか?」
 いままで噂話をしていた当のロレンスが現れてしまってはさすがにぎこちないマケインだった。が、できる限り冷静に入室は促せたらしい。
「では、あとは頼んだぜ」
 なにをどう頼まれたのだろう。そもそもいま手合わせをしろと言われていたはずなのだが。そそくさと去って行くワイルドの背中にマケインは首をかしげ。
「……逃げたな」
 思わず呟いてしまった声にロレンスが訝しげな顔をし、マケインはまた慌てて咳払いをして誤魔化した。




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