彼の人の下

 昨夜、星花宮に戻ってきたところだった。おかげでどうにも疲れが抜けない。イメルと揃って二人の師に遊び倒された気分、と言うのが最も近いような気がしてエリナードは溜息をつく。
 なんとか這うように起き上がったのはイメルのほう。隣の寝台で眠るエリナードを叩き起こしたのは食事くらいはしないと疲労の回復が遅れると言うもっともな理由。感謝する気にはなれなかったエリナードだったが渋々と目覚め、やっとのことで食堂までやってきた。
「あー、だるい」
 椅子の背に体を預け、だらしなく座ったままエリナードは呟く。天井を見上げればぐるぐると回っている気がする。
「だよねー」
 正面に座ったイメルは食卓の上に両腕を投げだしたまま伸びている。彼も同様らしい。そう思っても少しも嬉しくない。同病相憐れんでも何も解決しない。
「ったく。なんなんだよ……」
 イーサウにいた間のことを思い起こせば愚痴しか出ない。もっとも、それが嫌だと言うのでは決してない。文句を言いながらも――どんなに疲れようとも――師と共に過ごすのは楽しくもあった。それがまた忌々しい事実でもあるのだけれど。
「やあ、エリナードにイメル。帰ってたのか。疲れた顔してるなぁ!」
 先輩魔導師の一人だった。先ごろエリナードは再会したばかりの、セリスと言う風系魔導師だ。かつて幼かったエリナードを星花宮に連れてきてくれたあの魔術師。彼の姿を認めてエリナードの口許がつい、ほころぶ。
「そりゃ、疲れますよ」
 だいたいの事情は察しているのだろうセリスだった。からりと笑って一言呟けば、その手に二本の薬瓶。鮮やかなものだった。
「ほら、強壮薬。こんなときに飲む物かって気はするけどな、いまのお前たちには必要だろう?」
 確かに、と苦笑しながらエリナードはなんとかそれを受け取った。イメルはまだ伸びたまま、手だけを伸ばしてセリスから受け取る無精さ。同系統の気安さ、というものかもしれない。
「今日は師匠がたもご機嫌麗しかったからな。お前たちはよく働いたよ」
「あれで不機嫌だったらさすがに俺は師匠に殴り込みかけますよ」
「……同感」
 ぼそりとしたイメルの呟きにセリスが笑い声を上げる。そこにやってきたフラメティスはどう見てもどこぞの騎士団所属と言った方がいいような優れて立派な体格を誇る、だがセリスと同期の火系魔術師だ。彼がにやりとすると岩塊が笑ったようで少し、怖い。
「何をへたっているか。鍛錬が足らん、鍛錬が」
 笑いながら言われても、いったいなんの鍛錬をすればいいのか。そもそもそんな鍛錬はしたくないだとか。色々思うところはあっても反論する気力がいまはない。そのエリナードの視界の端、ちらりと映ったのはあのチェスター。こちらを気にしているな、と内心で笑えば感づいたのだろうイメルが顔を上げてにやりとした。
「それでお前たち。何やってきたのさ?」
 無論、エリナードが気づいたくらいだ、セリスたちはとっくに気づいているはずだった。だからチェスターに聞かせてやれ、と言うつもりなのだろう。年上の魔術師の志をエリナードはありがたく受け取る。が、なんとも言い難い顔になった。
「……とにかく、ずっと喧嘩しっぱなしなんですよ。なんなんですかね、ありゃ」
「俗に言うあれだろ、夫婦喧嘩はなんとやら」
「否応なしに犬にされる弟子の身にもなって欲しいもんですがね」
 長い溜息を先輩魔術師たちは笑う。イメルもまた、疲れた顔をしながら笑う。彼にとってもタイラントとすごした休暇は、たとえ休暇のような気がしなくとも楽しくはあったのだろう。
「けっこう本格的なのをやらかしましてね」
 はぁ、とエリナードは溜息をつく。思い出すだけで背筋が凍り、けれど腹立たしくてならない、そんな相反する気分になって仕方ない。
「否も応もないんですよ、俺とエリナードとで師匠たちのところで言い訳です」
「タイラント師のとこに出向いて、ほんとは師匠だってこう思ってるんですけど、言うに言えない可愛いところを汲んでやってください」
「俺は俺でフェリクス師んとこ行って、師匠はちょっと言葉使いがあれなだけなんです。ほんとにフェリクス師のことは大事に思ってますし、それはご存じのはずです――って」
「なぁ?」
 二人顔を見合わせれば力ない笑み。これを休暇の間中ほぼ連日にわたってやり続けたのだ。いい加減になんとも言い難い気分にもなるというもの。
「しかもですよ、セリス師、フラン師。聞いてくださいよ。俺が必死になって師匠の代弁をしてたらタイラント師、なんて言ったと思います? そんなことは知ってる、ですよ!?」
「こっちもですよ。そんなの知ってるに決まってるじゃない、ですからね。ほんっとにもう!」
「連夜にわたって俺とイメルは血反吐を吐きっぱなしですよ」
 さすがにタイラントにそう言われたときにはエリナードも苛立ったものだった。顔に出てしまう前に退去すれば、イメルが足音高く戻ってくるところ。どうやらフェリクスのほうも同時に同じことを言っていたと見える。それを互いの顔の中に見つけて二人、肩を叩きあったものだった。
「しかも……最後はあれだったよな、お前……」
「やめろ。思い出させるな」
「ほうほう、何があったのか。エリナード、そこまで言ったのだからな。聞かせろ」
「フラン師……。性格が悪いですよ」
「お前は星花宮の魔導師に何を期待しておるか」
 ですね、とうっかり納得してしまえば岩のようなフランの拳に頭を撫でられた。さすがに殴るのは遠慮してくれたらしい。
「いや、大した……ことではあるんですが……誤解を招くような危険な事実でもあったわけで。――まぁ、お二人ならいいですけどね」
「なに、お前とフェリクス師が妙な噂を立てられているのは知ってはいるがな。あの方はたとえ相手がお前であろうともタイラント師以外に心を移せるようなお方ではあるまいよ」
「なのになんで喧嘩ばっかりするんですかねー、ほんと」
 イメルの溜息をセリスが笑う。あれが喧嘩に見えているようではまだまだだね、とでもいうところなのだが、眼前で見続けた二人としてはあれが喧嘩に見えなかったら何を喧嘩と言えというのか、見合って小さく溜息をついた。
「それで、エリナード?」
「いやね……、その前夜に、ひときわ派手な喧嘩をしたらしいんですよ。さすがに同席は遠慮したんで何を言ったのかは知りませんけどね」
 同席はさすがに自分も嫌だな、とセリスが朗らかに言う。イメルがたまには代わってくれ、と先輩魔導師に泣きついていた。
「ここじゃ俺とイメルは同室じゃないですか。だからせっかくだしって、それぞれ部屋をもらってたんですよ」
「たまには一人でのびのびってのもいいよな。わかる」
「――セリス師、のびのびできたと、本気で思います?」
「馬鹿だなぁ、エリナード。思うわけないだろ。で、何があったの?」
 明るい彼の言葉をエリナードはねめつける。それでも馬鹿話をしていて少し、気が楽になってきた。一つ向こうの食卓で、チェスターが聞いているのを感じつつエリナードは話を続ける。
「研究もないわけですしね、夜でしたし。当然、寝てましたよ俺だって。なのにね、朝起きたら……隣に師匠が寝てたんです」
「……すまん、エリナード。苦労をかけた」
「フラン師?」
「いや、なんだか詫びねばならんような気がしてな。正直に言ってぞっとしたんだ」
 わかるわかるとセリスがうなずく。少しばかり顔色が悪い。体験してしまったエリナードとしてはそんなものでは足りないと非難をしたい。
「こう、人の体にくっついて、ちょこんと寝てるわけですよ。後で聞いたら寝てたから起こすのは悪いと思った、らしいですがね。起こしてくれた方がどれほどましだったか」
「だよな……。起きて気がついたらそれだったら、俺だったら絶叫してる」
「馬鹿イメル。そんな猶予があるか。俺は息ができなくなったぜ」
 それもそうだ、とイメルが肩をすくめた。彼は彼で想像してしまったのだろう、紙のような顔色だった。
「んでもって俺が起きた途端に怒涛の愚痴ですよ。違うな、愚痴と言う名目の惚気ですよ。ったく、今度は砂吐くかと思いましたよ」
「しかもですよ、フェリクス師ってばエリナードの上に乗っかって押さえつけてずーっと喋ってたみたいで」
「喋ってたんじゃない、喚いてたんだ」
「喧嘩したばっかりでばつが悪かったのか、師匠が一緒にエリナード起こして、それからみんなでフェリクス師を起こしに行こう、なんて呼びに来て見つけたのがそれですよ? いやもう……修羅場でしたよ」
「その真ん中にいた俺の身にもなってくれ」
 言外にお前は見ていただけだろうと言えばイメルは誰が介入できるか、と肩をすくめる。逆の立場だったらエリナードも同じことをしただろうと思わなくもない。
「いやはや……酷いもんだな」
「でしょ? ――なぁ、チェスター」
 不意にエリナードは振り返り、チェスターに声をかける。聞いていた、とありありとわかる態度で彼は体を強張らせた。
「これでも本気で俺と代わりてぇの?」
 普段のエリナードならばそれを笑って言う。いまはその気力がないせいでいつになく精悍な目をした彼にチェスターはわずかに怯む。だが。
「なにはどうあれ、お前が可愛がられてるのは事実だろ!」
 果敢に言い返すチェスターにはじめてエリナードは笑みを浮かべる。ふっと口許がほころんだだけのことではあったけれど、それだけで印象が和らぐのは見物だった。
「そこだぜ。あのな、師匠も生きもんだ、相性ってのはあらぁな。俺相手には好き勝手できるんだろうよ」
「それを――」
「贔屓だって言うのが違うんだろうが。俺もイメルも休暇の間、とにかく走り回らされただけだぜ? 喧嘩の仲裁に走ってたか、走って逃げてたか、どっちかだ。別に他の誰かが知らない大事な何かなんざ教えてもらってねぇよ」
 む、と口をつぐんだチェスターにエリナードは目を細めていた。決して飲み込みの悪い男ではない、彼は。おそらくは熱心すぎるだけだと思っている。先へ先へと進みたい、だからこそ、可愛がられているエリナードが羨ましい、そういうあたりだろう。
「俺が師匠に可愛がられてるのまでは否定しねぇよ。しても無駄だし。でも贔屓だなんだって言うのは違う。そんなことするような男じゃないだろ、あの人は。そこは理解してやってくれよ」
 振り返り、チェスターと相対していたエリナードの背中に笑い声。何事だ、と見やればセリスが笑いをこらえ、フラメティスがうつむいていた。どうも肩が震えている。
「お前……ほんと……お前は苦労するよ、エリナード!」
 エリナードは天井を仰ぐ。先輩方に褒められている気はまったくしないエリナードだ。貶されているとも思わなかったけれど。事実、結果的にまたフェリクスのために熱弁を振るっていたのは否定できない。小さな溜息をイメルまで笑った。そのとき突如として食堂が静まり返る。
 エリナードが動くより先に逃亡は許さない、とばかりの笑顔のフェリクス。にっこり笑って呼びつけられた。
「エリィ、ちょっと仕事があるんだけど。やってくれるよね?」
「へいへーい。承知仕りましたー」
「なにそれ、いいけど。早く来て、忙しいんだから」
 ちょい、とフェリクスが指で招く、それだけでエリナードはよろめいた。あっという間に魔法で軽く束縛されたらしい。食堂を去って行くエリナードの背中に、少し明るくなったチェスターの笑い声が聞こえた気がした。




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