彼の人の下

 さてこれからどうしよう。せっかくのイーサウだ、温泉にでも行こうか。あるいは別の遊びを探すか。そう言えばこの前の実験が、今度はこんな研究をしてみようと思っている。次々と他愛ない話題が湧いては消え、消えては湧く。いつの間にか新しい飲み物まで買っている始末だった。
「って、おい。いい加減にどっか行こうぜ」
 移動しなくてはならない理由はないのだけれど、何もここで話している理由もない。春の木漏れ日の当たる木陰は心地よかったけれど。
「そうだなぁ……。どこ行く、やっぱ風呂?」
 なにしろイーサウだ。ここに来て風呂に入らないと言う手はない。宿の部屋にも風呂はあるけれど、二人の師が同宿だ。危険極まりない、と二人とも知っていた。その苦笑にエリナードも苦笑を返し、とにかく立ち上がろうとする。その目の前でイメルが硬直していた。何事だ、と問う間もない。ほっそりとした腕が背後から首に絡んでくる。背に当たる柔らかな感触。溜息をついてエリナードは振り返り、珍しくぎょっとした。
「……また可愛いな」
 フェリクスだと言うのはわかっている。ここはイーサウで、ごろごろ知人が転がっている環境ではない。この状況において、ここまで親しい素振りを取るのはフェリクス以外に考えられない。それでも、驚く。
「でしょ? ちょっと自慢なんだけど」
 言いつつフェリクスは不満そうだった。つん、と顎を上げて不機嫌を表明する態度も苦笑を誘う。やはり珍しい、とエリナードは思っていた。
 フェリクスの変装姿をエリナードはたぶん星花宮一、よく見ている。長期の外出先にはほぼ確実に出没し続けているのだから当然だ。
 それでもこの姿は見たことがない。普段の彼と、ほとんど変化していなかった。フェリクスは闇エルフの子。町に出るにも危険を伴う。そのせいで彼は日常、外出するときには人間の幻影を被っていた。無論、闇エルフの子の特徴を緩和するためだけのものであって、わざわざ顔形を変えてはいない。だからエリナードがよく知る「男性のフェリクス」だ。今は。
 その男としてのフェリクスとさほど変化がない。それでも女性だった。年の頃は十七、八。だが元々彼の顔立ちは幼い。これも変えていないに等しい。女性として作ったからこそ、より若く見えているあたりだろう、とエリナードは観察する。髪の長さも普段どおり、目の色も変わっていない。
「すげぇな。それでもちゃんと女になってる。しかも可愛いし」
 拗ねた顔をしながらフェリクスがエリナードを見やるでもなく気にしている。イメルが頭痛をこらえた顔をしつつわずかに青くなっていた。タイラントは、と己の師を案じているのだろう。エリナードはそちらは放っておいて何気なく手を差し伸べる。それを取ったフェリクスがすとん、と彼の隣に腰を下ろした。ふわりと広がったスカートをそれとなく直す仕種も完全に女性のものだった。
「あなたに可愛いって言われてもね。なんて答えたらいいのか迷うよね」
「褒めてるんですけどね。それ、よく似合ってますよ」
 言った途端、むっとされてしまった。エリナードはさすがに意味がわからずイメルを窺うが、彼は彼でまったくわからない、と首を振っている。諦めて肩をすくめ――ようとしたらとっくに片腕はフェリクスにとられていた。
「タイラント師からの贈り物ですかい?」
 柔らかな黒髪に飾られた銀の羽。細工物の飾り櫛だろう。フェリクスにはとてもよく似合っていた。宝石一つついていない単純な銀細工だったけれど、甘い印象のある彼の髪には殊の外似合う。
「そう。酷いと思わない?」
「は……? 何がです」
「だって、女物だよ? 別にこれがはじめてってわけじゃないし、それはそれで腹立つんだけど、似合うのはよくわかってるよ。それでも僕にだって男の矜持ってものがあるじゃない。だから――」
「あぁ、だから、女になったのか。なるほど」
「ってエリナード!? なんでお前はそこで納得できるんだよ!」
「え? すごい理に適った説明だっただろうが」
 どこがだ。絶叫するイメルにフェリクスと二人、顔を見合わせて首をかしげてしまう。フェリクスの言っていることのほうが、エリナードにはよくわかる。
「ちょっと拗ねてみただけでしょうが」
 言えばごつん、と音がした。音ほど痛くはなかったが、どうやら背中を叩かれたらしい。それでもフェリクスは胸に抱いたエリナードの腕をまったく離していなかったのだが。
「全然顔形は変わってないのに、そこまで印象が違うって、すごいな」
「そう? タイラントはものすごく嫌だったみたいで喚いてたけどね」
「どうしてそんなに嫌がるかなぁ。師匠は師匠だろうに」
「だよね。さすが僕の可愛いエリィ。いい子だよね、あなた」
 微笑んで覗き込んできた、蕩けるようなフェリクスの笑顔。そのときにはエリナードもすでに悟っている。イメルはそのエリナードの表情にぴんとくるものがあったらしい。完全に身構えていた。
「シェイティ、君は――!」
 案の定、フェリクスを追いかけてきたタイラントの悲鳴。わざわざ彼に見せるためにしていたとしか思えない。否、そのとおりなのだろう。エリナードはもうそう言うものだ、と達観して笑っていた。
「ちょっと邪魔しないでくれる? せっかく僕がエリィと一緒にいるのに。タイラント、邪魔!」
「それはないだろ。だいたい君はな、ほんとに俺の話を聞かなすぎる。俺だって言いたいことはあるし、言い訳の一つや二つ、させてくれたっていいだろ」
「しても無駄じゃない。僕は怒ってる。あなたは僕を怒らせてる。その繰り返しでしょ」
「だからな、どうしてそこでエリナードを巻き込むんだ、君は。そんなに俺が不満かよ!」
「あぁ、そうだね、不満だね!」
「だったら――」
「えー、タイラント師。ここで痴話喧嘩はやめてください。公衆の面前ってことをお二人とも、いい加減に覚えてください。それと、俺を巻き込んでるのはタイラント師も同じですから」
 もっともタイラントも人目は気にしているのだろう。一応はと言わんばかりの簡略さで姿を変えている。左右色違いの目は青く、銀髪は栗色に。ただそれだけで世界の歌い手とは誰も気づかない。
「待て、エリナード。俺は!」
「別に嫌だとは言ってませんし、かまいませんよ。ただ人目を考えてくださいって言ってるだけです。加えて、生意気言わせてもらいますとね、タイラント師」
 にっと笑ったエリナードの目にタイラントがわずかに怯む。それに満足そうな顔でもしているのかと思ってはらはらとイメルはフェリクスを見やったけれど、馬鹿馬鹿しいことに彼はエリナードに少しばかり腹を立てた様子だった。内心で小さく溜息をつく。この場において一番苦労をしているのはイメルかもしれない。
「タイラント師が師匠に似合うだろうと思って贈り物をしたのは、俺にもわかりますよ。実際、似合ってますしね。でもこれでも男の師匠はやっぱりどことなく不愉快だってこともわかってやってください」
「……関係ないだろ。男とかさ、女とかさ。シェイティに似合うって、それだけだったんだぞ」
「だから言ってるじゃないですか。似合ってますよって。それとこれとは別問題ってやつですね」
 生意気を言いました、再び言ってエリナードは殊勝らしく頭を下げた。小さな溜息は誰のものだったのか。イメル一人、頭を抱えていた。
「ほんとさ……君のほうがシェイティの気持ちをわかってるってのが、一番俺は情けない。同じ男として、なんと言うか……ちょっと負けそうかなって」
「俺が言うのもなんですけどね? 本人が言う気は更々ないみたいですから代弁しますけど。それでも師匠はタイラント師がいいんですよ?」
「ちょっと、エリィ! 僕はそんなこと言ってない!」
「心ん中で言ったでしょうが、いま! 師匠だって俺の心に平気で手を突っ込むんだから、たまには自分がやられるべきですよ!」
 言いつつからからと笑うエリナードにタイラントがそっと溜息をつく。そんな師を心配そうに見上げるイメルに、彼は黙って首を振っていた。
「エリナード……」
「いいですよ、師匠の愚痴の相手はしておきます」
 どちらかと言えば惚気の相手だろうな、とエリナードは思っている。が、イメルには伝わらなかったようだ。不安そうに二人の師の間に視線をさまよわせていた。
「頼む。付き合え、イメル」
 それだけ言ってタイラントは背を返す。一度だけフェリクスを見やったけれど、見られた当人はきつくエリナードの腕に顔を埋めたまま。心配そうに振り返り振り返りしながらイメルもまたタイラントを追って去って行った。
「で、師匠」
「……なにさ」
「可愛いですよ、よく似合ってます」
「うるさいな」
「ほんとは、お気に入りでしょ。すごい嬉しかったんでしょ?」
「……うるさいって言ってるの、聞こえないの、エリィ」
「はいはい、聞こえてますよ」
「だいたいあなたに可愛いって言われることそのものがまず微妙だよ、僕は」
「ただの客観的な感想ですよ」
 すくめた肩に合わせるよう、フェリクスの体が動く。ようやく顔を上げる気になったのだろう。まだまだ不機嫌なままだったけれど。
「女の姿でも師匠は師匠なんだけどな」
「――まぁね、僕もその境地になるまでけっこうかかったけどね。だから、タイラントが喚くのも、わかる気はする」
「そう、なんですか?」
 うなずいてフェリクスは自分の過去のことを知っているだろう、とエリナードに言った。それに顔を強張らせる若き弟子にフェリクスは口許をほころばせる。少し緊張がほぐれた気がした。
「昔は……女の姿は死んでも嫌だと思ってたよ。女の名前で呼ばれてたせいだね」
 変わったのは、タイラントを得たからだ、とフェリクスは呟く。どうあっても、自分は自分だと思うようになったと。
「ほら、結局は惚気だ」
「違うよ、そんなことしてないじゃない。可愛い弟子に魔道の何たるかを教授してあげてるんじゃない」
「へいへい」
 生返事をしながらエリナードは笑う。やはり惚気以外の何物でもないと。以前フェリクスは言った。タイラントがいなければ自分はどこかが欠けた壊れた絡繰りのようなものだと。最愛の伴侶を得て、はじめて彼は確固として立つことができたのだろう。
「それでも飽きもせずに女物を贈られるのはなんの嫌味だって言いたくなる僕の気持ちもわかってほしいんだけどね」
「……まぁ」
「エリィ。言いたいことがあるなら言って」
「いや……。ちょっと気色悪いことを考えちまって。――実はタイラント師、わかっててやってるんじゃなかろうかと言う想像を」
「やめて!」
 わざわざ怒らせて叱られるのを楽しんでいるのではないか。エリナードの言にフェリクスは身を震わせる。その表情にエリナードは確信した。二人とも、わざとだ、と。呆れてついた溜息は春風がどこかに連れて行ってしまった。




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