穏やかなフェリクスの表情。星花宮ではぴりぴりしていると言うわけではないのだけれど、やはり休暇のせいだろうか、いつになく柔らかい。 「タイラント師がいて、師匠は幸せだな」 それなのに言った途端、ぷい、とフェリクスが顔をそむける。くすくす笑えば、拗ねたような師の姿。師と自分と、こうして過ごしているだけでエリナードは幸福だと思う。まさかそんな気分に気づいたわけでもないだろうが、唐突にフェリクスは立ち上がり、開け放ったままだった窓をものすごい勢いで閉めた。 「師匠?」 呆気にとられていた。よもやと思うが攻撃されたかと。ここはイーサウで、ここにいるのはカロリナ・フェリクス。彼を四魔導師の一人と知って攻撃する自殺願望の強い暗殺者は普通はいない。だが。 「あ――」 エリナードは、けれどすべての懸念が明後日の彼方に飛んで行く気分で頭を抱えた。そっと顔を覆ってしまう。 「師匠……そりゃない」 閉めた窓の硝子に激突し、そして勢いのままずるずると滑り落ちて行った何かの塊。青かったような気がする。 「大丈夫でしょ。ここの硝子は高級品だからね、けっこう丈夫だし」 「って、そっちですかい!?」 他になにかあるのか、とでも言わんばかりのフェリクスの眼差し。振り返って肩まですくめてはまた椅子に戻って茶を飲む。その足元だけが、そわそわとしていた。 「師匠……」 呆れた、とエリナードは呟く。それを意に介した様子もなくフェリクスはどこかを見やったままだ。そうこうしているうちに今度はきちんと扉から飛び込んできたもの。 「フェリクス師、ちょっと酷いです」 イメルだった。その腕にはぐったりと伸びた青いものを抱えている。その色が移ったわけではないだろうが、イメルの顔色もよくはない。当然だな、とエリナードは思う。 「よう、イメル」 片手を上げれば、抱えたものをどうしていいのかわからないイメルだ。おろおろとする様に少し彼の師との相似を見てエリナードは笑う。 「ほら」 打ち合わせをしたわけでもなかったというのに、挨拶一つない。星花宮で共に過ごした長い年月が遠慮を奪っている。エリナードが差し出した柔らかな浴布にイメルは青い何かを静かに乗せる。 「ここに置きますよ、師匠」 フェリクスの膝にそっと預ければ、そっぽを向いた。いままで機嫌よく喋っていたのにこれだと思えば笑うしかないではないか。 「なにがおかしいの、エリィ」 「別に? なんでもないですよ。イメル、行こうぜ」 「って、いいの!?」 「いる方が問題だろうが。これからいちゃいちゃすんでしょ、師匠」 「誰がいちゃいちゃだ!」 「師匠が。――だいたい、喧嘩の原因が何かなんて俺は聞きませんからね。どうせ聞いたって意味わかんねぇし」 どこからともなく、ちょっとくらい混ざれよ、と呟き声。エリナードはにやりとフェリクスの膝の上を見やる。 「介入するのはいいですけどね。そもそも俺は師匠の弟子なわけですし。息子としては親父の味方をしますよ?」 「だよね、可愛い僕のエリィ。わかってるじゃない」 「でしょ。そうするとイメルはやっぱりタイラント師の味方をするわけで。結果として俺とイメルが喧嘩を代行することになると思うんですが。それでよかったら師匠がた、さっさとイメルと殴り合いでもしますけど。どうしましょう?」 「って俺かよ!?」 にっこり笑うエリナードにイメルが青くなる。吟遊詩人らしい演技にエリナードは笑った。唇まで尖らせて不満を表明するフェリクスなど、星花宮では滅多に見られない。 「……いいよ、わかった。遊びに行ってな、子供たち」 「へいへい。行こうぜ、イメル」 片手を上げて部屋を出る。呆気にとられているイメルの腕を引きつつエリナードはちらりとフェリクスの膝の上を見やって目で笑った。 「……フェリクス師、機嫌悪そうだな」 宿を出て、イーサウの町中を散歩する。イメルとしては気がかりなのだろう。エリナードは楽観的なものだった。 「別に機嫌悪くはねぇよ。タイラント師と逢い引きが楽しみで、どきどきする自分が恥ずかしくって、それに機嫌損ねてるってとこだな」 「……なんだそりゃ」 「その気持ちはよくわかる。ま、可愛いもんだろ、あの人も」 「達観してるよなぁ、エリナード」 そうでなければ誰がフェリクスの弟子などやっていられるか、言ってエリナードは笑う。二人の師がくれた休暇だ、せめて師のいないところでは羽を伸ばしたい。 「それより、タイラント師。すげぇな、さっきの」 「だろ!? 目の前でいきなり変わられたんだぞ。びっくりしたよ、俺は」 まるで青い閃光だったとイメルは感嘆する。窓硝子に向かって飛んできた何か、それはタイラントの変化した姿。何度か見たことはあるが、まじまじと観察する暇があったためしはない。 「あれ、火蜥蜴か?」 「んー、火蜥蜴風のドラゴン、だと思うよ」 「だよな。大きさで誤魔化されてるけど、きっちり肉体的にはドラゴンだよなぁ」 一応、二人ともフェリクスとタイラントの馴れ初めは知ってはいる。きっとそれにまつわる姿なのだろう、先ほどの小さな青い竜は。それにしても。 「動物への変化は難しいよな」 イメルが顎先に指を当てて考え込む。これでイメルはすでにアイフェイオンの名を得た一人前の魔導師だ。エリナードはそんな友の姿を眩しそうに見やる。 「だよな。精神的なものなのか、思考過程の問題なのか、動物への変化は人間性を失くす危険性が高いからな」 「それを師匠はあっさりやるんだ。ちょっとおかしいだろ」 「ちょっとで済むか?」 二人、顔を見合わせて力なく笑う。今頃フェリクスの膝の上でタイラントは小さな竜のまま言い訳を並べ立てているのだろうか。 「……想像しちまった」 「やめろ、俺まで想像しちゃっただろ!?」 「せめて付き合え」 吟遊詩人の想像力を舐めるな、と喚くイメルをエリナードは笑っていた。本当に、休暇の気分だ。きっとすぐに何かが起きるのだろうけれど、いまは。 「なんかさ、ちょっと懐かしいよな」 「だな。あれ、まだあるかな……」 「行こうぜ」 くすりと笑ったイメルがそれと悟ったのだろう、一筋の道を選びだす。こんなとき、少しだけイメルは兄ぶりたがる。それほど年上と言うわけではない、たった三歳の差だ。子供時代には大きな差だった年齢だけれど、今ではさほどでもない。 「お、あった、あったよ! エリナード、どれがいい!?」 一瞬後にはこうやって子供のように満面の笑みを浮かべるイメル。兄ぶりたがったことなど嘘のように。それがエリナードは心地よかった。 「あー、果汁。柑橘のやつ」 「お前、あんときにもそうだったよなー。お気に入り?」 言いつつイメルはエリナードの分まで買ってくれた。居心地のよい公園に出ている飲み物の屋台だ。周囲には他にも軽食から甘い菓子まで色々とある。 「お前だって結局おんなじの買ってるだろ」 イメルの手元を見やれば発酵乳。それに彼は照れたよう笑った。はじめて二人がここに来たのはもうずいぶん昔のことになる。まだ十代のころだった。当時起こされた事故の被害者として、二人の師が療養がてらに、と連れて来てくれたイーサウ。あのときと同じ飲み物を手に、二人は昔話に花を咲かせていた。 「それさ、凍らせたらうまくねぇ?」 ふと思いついてエリナードはイメルの発酵乳に向けて呟く。勝手にやるなと笑っていたけれどイメルも反対はしなかった。 「あ、うまいうまい。これいいな、今度星花宮でもやろうよ」 発酵乳自体は王都でも一時流行り、今ではさほど珍しいものではなくなっている。星花宮の料理人は研究熱心で、子供が喜ぶから、とよく発酵乳も食卓に用意してくれていた。 「面倒くせぇからヤだ」 作れば子供たちが喜ぶだろう、言うイメルにエリナードはそっけない。照れているのかと思ったイメルはそんな彼を笑うばかり。師であるフェリクスが気恥ずかしさに機嫌を損ねているのといい勝負だと思ってしまう。 「ん、エリナード。お前、手。どうしたんだよ?」 今更気づいてイメルは慌てた。思えばエリナードは先ほどからずっと片手を庇っていたような気がする。 「たいしたことねぇよ。神官の治療は――」 「いいから見せろ。俺はこれでも呪歌の使い手だぞ」 「信用できねぇんだよな。なにしろ修業時代を知ってるからよ」 言っていろ、言い返しておいてからイメルは勝手にエリナードの手を取る。そしてまだ残る火傷に顔を顰めた。これではまだまだ痛むだろうに。小さく囁くような歌声。エリナードはどこかを見たまま片手を預ける。ほんの少し、照れる。それを勘づかれたくない。たぶん、気づかれている。 「ほら、少しはよくなっただろ」 「……まぁ。助かった」 「あのな、エリナード」 「なんだよ」 「そこで照れられるとさ、すっごくやりにくいんだって。わかってる? なんかさー、口説かれなきゃならないのかとかさー、気にしちゃうだろー」 「気にすんな! つか俺はそこまで悪食じゃねぇよ!」 「どーゆー意味だよ、それ!」 「そのまんま」 ばっさりと切って捨てたエリナードに朗らかなイメルの笑い声。彼もまた、休暇を楽しんでいると言うのが充分伝わってくる。それがなんとも言えず快かった。 「たまには悪くないよな」 普段は研究に次ぐ研究。合間に実験をして、また研究。その日々だ。イメルは名を得た魔術師で、エリナードは弟子。その違いはあってもしていること自体はさほど違いがない。だからこそ、たまにはこうして空の下で他愛ないことを喋る、と言うのはいいものだった。 「そんでも、放り出してきた研究が気になるってのは魔術師の性分かねぇ」 呟くエリナードをまたもイメルが大笑いしていた。 |