彼の人の下

 休暇、と言われたときに見当はついていたけれど、行き先はイーサウだった。道理で姿を変えているわけだ、とエリナードは納得する。なにもフェリクスは「四魔導師ここにあり」と喧伝したいわけではない。ひっそりと休暇を楽しみたいだけだ。
「タイラント師は、先乗りしてるんですか?」
 だからエリナードは疑っていなかった。タイラントが共にいてこそ、フェリクスの休日になる、それを。
「違うよ。まだどっかで歌ってると思うけど?」
 腕の中の子供は淡々と肩をすくめる。どうやら本当にどこにいるか知らないらしい。珍しいな、と少しだけ思う。
「あのね、エリィ。僕だっていつもいつもタイラントと一緒ってわけじゃないし、お互いどこにいるか知ってるわけでもない」
「そう……なんですか?」
「そうだよ。別に問題ないでしょ」
 言われても納得はしがたい。陰に日向に共にいる二人だと思い込んでいるのかもしれない、ふとエリナードはそんな自分を笑った。
「じゃあ、向こうで合流ですね。だったら宿はいつものとこでいいな……」
「ちょっとエリィ?」
「合流しないって選択肢はないと思うんですけど?」
「……まぁね」
 渋い顔の幼児にエリナードは笑う。笑って転移した。中々素早い詠唱だった、と自負したところ、腕の中の子供はひょい、と肩をすくめる。まだまだ問題点があったらしい。
「自信過剰は事故の元。わかってるでしょ、エリィ」
 そちらだったか、と内心で首をすくめた。こうしていると少しずつ、苛立ちが静まって行く。いまだ師に頼りきりの頼りない自分を自覚して、だからこそまた進む、そんな気にもなる。
 エリナードはイーサウの街の外、人目につきにくい場所を選んで出現していた。何度かここには来ている、慣れたものだ。そして真っ直ぐに宿へと向かっていった。
「別棟を借りたいんだが」
 宿の名はアリス亭。すでに何度も来ている、フェリクスが気に入っている宿だ。が、宿の主人はそれを知らない。なにしろ一度として同じ外見で来たことがない。エリナードが知る限り、彼が「カロリナ・フェリクス」として投宿したのは一度だけのはずだ。
「おや、可愛いお子さんだ。旦那さんとお子さんとで? うちはかまいませんが……少々広すぎますよ」
「いや、あとでもう一人、いや、二人、合流する」
「なるほど、四人さまでしたか。ならばちょうどようございますな。お子さんのお母さんで?」
 エリナードは交渉しつつなんとも言えない気分になっていた。フェリクスを我が子と言われることには慣れては――遺憾ながら――いたけれど、この子の母親、と考えるのは相手が誰であってもぞっとする。
「いや、友達だよ」
 にっこりと笑って詮索を回避した。あとでフェリクスにイーサウ側に事情を説明しておいてもらおう、と思う。何も宿の主人は楽しくて詮索をしているのではない。ここはイーサウでも歴史ある宿だ。他の泊り客のためにも危険人物の投宿はご遠慮願いたい、というところだろう。心得たよ、とばかり抱いた子供がそっと襟を引っ張った。
「ちょっと、エリィ」
 主人の案内で――実のところこれも必要ない。どこに何があるかも覚えているほど来ている――別棟の小さな家に入るなり、フェリクスは腕から飛び降り、腰に手を当ててエリナードを見上げる。それでもまだ幻影の子供の姿のままなのだから笑えばいいのか溜息をつけばいいのか。
「なんですか、師匠」
「あのね、どうして二人合流するとか言うの。タイラントが来るってどうして――」
「だから戯言は聞こえないって言ってるでしょうが。合流しないはずねぇでしょ。ちなみに二人って言うのはイメル込みです。あいつもタイラント師と一緒なんじゃないんですか?」
 むう、と幼児が唇を尖らせた。どうやら正解だったらしい。エリナードは笑って茶の支度をしてやる。機嫌を損ねていても淹れてやれば飲むとエリナードは知っている。
 本館とは別棟のこの小さな家のような部屋には贅沢にも風呂がある。フェリクスが気に入っている理由はそこらしい。闇エルフの子が、人目を気にせず素顔でいられる、と言うのはありがたいのだと彼は言う。もっともエリナードとしてはタイラントが共にいると言う時点で別の理由を察してはいるのだが。
 春まだ浅い時期とはいえ、イーサウは温泉の町。開け放った窓から入り込む風は優しい。温泉の匂いと茶の香り。フェリクスがふっと笑った気がした。
「少し機嫌直ったじゃない?」
 けれどようやく幻影を解いたフェリクスが茶を飲みつつ言うのはそんなこと。なんのことだと肩をすくめてもエリナードは内心でひやりとしていた。
「別に機嫌は悪くないですよ。絡まれて鬱陶しかっただけです」
「違うよ、エリィ。あなたが苛々してるから、よけいに絡まれるんだ。そのくらいのこと、わかってるでしょ」
「絡まれるのは前提なんですか」
 言えばちょい、と肩をすくめるフェリクス。子供の姿ではなくなってもまだ、少年の気配のする人だとエリナードは小さく笑った。
「悪いとは思ってるんだけどね。僕やタイラントに平気で言い返すのはあなたとイメルくらいじゃない? 僕だってせっかくの休暇だもの、ゆっくりしたいよ。なに言っても、はい師匠、はい師匠って言われてたら気が抜けやしない」
 その子供じみた言い分につい、エリナードは笑ってしまった。それを絡んでくる相手に聞かせてやれればいいのだが、生憎とフェリクスは「気が抜ける相手」であるエリナードだからこそ、こんなことを平気で言う。逆説的に絡んでくるような輩には決して彼は言わない。
「師匠になると色々あるんだよ、その辺がね」
 エリナードの目が笑ったのを見咎めてフェリクスは苦笑する。相手を選んで言うべきこと、言ってはならないこと。これでも繊細に気を使っているフェリクスだ。
「俺にはまだまだ関係ない話ですよ。何しろいまだ弟子ですからね!」
 朗らかに言えばそのとおり、とフェリクスが微笑んでいる。まるで手元に置き続けていたい小さな子供を見るような眼差し。そんなことを思ってしまったエリナードは思わず視線を外して頬の赤みを隠した。
「それでエリィ。何に苛々してたの?」
 聞かれるだろうな、とは思った。が、今ここでとは思わなかった。否、タイラントが合流する前に、と気を使ってくれたのかもしれない。そうエリナードは思いなおす。だからこそ、さほどためらわずに言えた。
「……男と別れたばっかなんですよ」
「あぁ、ロイ?」
 飲んでいた茶が程よく冷めていてよかった、エリナードは思う。思い切り吹き出していた。慌てることも忘れて呆然としたエリナードに顔を顰め、フェリクスはいそいそと零れたものを拭いてやる。その仕種にやっとのことで正気を取り戻したエリナード。師の肩を掴んで怒鳴っていた。
「ちょ、師匠!? なんで知ってるんですか!?」
「逆に聞きたいけど。なんで知らないと思ったの? ロイは青薔薇楼の見習いじゃない」
 そのとおりだった。フェリクスは娼家であり神殿である青薔薇楼と縁がある。現在でもフェリクスは花街の監査役だ。だからと言って。
「青薔薇楼で遊んで行けば僕に筒抜けだけど? あなたは気にしてないんだとばっかり思ってたよ」
「……知りませんでしたよ。まぁ……そうですね、驚きましたけど、気にはなりませんね。驚きましたけど!」
「そう、よかったよ」
 にっこり笑う悪魔にエリナードは抵抗を放棄する。これでエリナードは贔屓をされている、フェリクスに殊の外可愛がられている、と羨む輩がいるのだからどうかしている。可愛がられてはいるが、方法論が間違っている。
「それはね、エリィ。あなたが気にしてないからだよ?」
「俺はこうやって師匠が人の心に勝手に手ぇ突っ込んで読んでも気にしませんけどね」
「そう、普通は弟子でも嫌がるんだよ。だから僕は他の誰かだとどんなに出来のいい弟子でも気を使うんだって」
 なぜか自分の責任のように言われた気がするが、それこそ気のせいだろうとエリナードは思い込む。エリナードの諦めまじりの達観をフェリクスが笑った。
「それでなんで別れたの?」
「まだ話続いてたんですか? ――別に、たいしたこと……かな。俺は……ロイが正神官になりたいって言ったときに、止められなかった……って言うより、止めたいと思えなかったんですよ」
 ふ、と溜息が漏れる。青薔薇楼のロイは、すなわち双子神の神官見習いでもあった。彼が正神官を目指す、と言うのならばそれは聖娼への道を進むと言うことでもある。エリナードは、止めたい自分を見つけられなかった。
「ロイの信仰を邪魔したくなかった?」
「それもありますね。ただ、それ以上に……俺だけの側にいてくれって、思えなかったんですよ」
 冷めた茶の残りを飲み干しエリナードは苦笑する。本当に、そのとおりだった。自分だけのものでいてほしい、彼だけのものになりたい、そう思えなかった。
「俺……十年くらい前から、顔形、変わってないでしょう?」
「そうだね。だいたいあの辺で止まったかな」
「でしょ。だったら俺はたぶん、死ぬまでこの面だ。変わらない俺の側で、変わって行ってくれとは……言えませんでした」
 たぶん、それが正解だろうとエリナードは思う。ロイの信仰と、自分の魔道と。並んで歩けはしなかった。
「まぁ、別れたって言っても聖娼ですからね、付き合いはあるんですが」
「それも中々勇気がいることだと僕は思うけどね」
「要りましたよ。来なかったら呪うって脅されて行ったんです。ぜんっぜん変わらないロイが迎えてくれて……俺たちは当分、こうやって行くんだろうなって納得できたのがまた……なんと言うか……」
 言葉にはならなかった。ロイへの思いは嘘ではなかった。いまでも好きだと思う。けれど生涯を誓えるかと言われれば否と答えざるを得ない。
「それでもいいと思うよ。こうやって緩やかな付き合いを続けて行くのかもしれないし、いつか違う人を好きになるのかもしれないし」
「それでも悩みますけどね」
「当然じゃない、生きてるんだから。いずれあなたは魔術師だ。同じ魔術師を選べば、時間の悩みはなくなるよ。でも常人を選ぶかもしれない。それはあなたの選択次第だ。変わっていく、同じ時間を生きられはしない常人であってもそれでもって思える人がいたなら、それはそれでいいんだと思うしね」
 はい、とエリナードはうなずいていた。すっきりしたとは言わない。けれど苛立ちは少し、収まった、そんな気はした。




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