彼の人の下



 数日前に負った手の怪我がまだ少し痛む。少々無茶をした自覚はあるエリナードだった。噴出した蒸気に片手を火傷した。苛立ちのままに実験をするからこういうことになる。こんな気分のとき火系呪文の扱いにはいつにも増した注意がいる。それもまた、わかっている。
「よう」
 一時、実験は凍結するべきか。考えながらエリナードがたどり着いたのは星花宮の食堂。多少なりとも食べて飲んで、そして考えようと思っていたものを。入った途端、呼び戻される。
「エリィ、お出かけするよ。支度しな」
 長い溜息をついてもいいだろうか。無駄だと知っているエリナードは素直にはい、と返答をする。そのままくるりと食堂を出て準備に向かった。その背中、嫌な声が色々と聞こえているのに苦笑をしつつ。
 食堂に戻ったときにもまだやっていた。星花宮の魔術師は――弟子も含めて――それほど暇ではないはずなのだが。春ともなればこう言う輩が湧くのはなぜだろうとエリナードは思う。浮き浮きと食ってかかられるのはたまったものではない。案の定。
「お前、贔屓されてるよな。またフェリクス師と一緒なんだろ?」
 額のあたりに筋が浮かんでいる。よほど鬱憤がたまっているのか暇なのか、どちらだろうとエリナードは首をかしげる。実年齢で言えば彼、チェスターはエリナードと変わらない。せいぜい一歳下かその程度だ。が、魔術師の世代で言うのならば一つ下の世代になる。チェスターのせいでも年齢差でもなく、エリナードが上の世代に属するほど早熟だったせいだ。もっともイメルにオーランドと他に二人もいるのでエリナード自身は気にしたことがなかったのだが。
「贔屓? どこがだ」
 毎年のことだ、とエリナードは内心で笑ってしまう。フェリクスのせいだった。むしろ彼のせい、と言うより頭の中身を沸かせてしまったものの責任だとエリナードは思うのだが。
「いつもお前はそうだ。自分は贔屓なんかされてませんって涼しい顔しやがって」
 そうだそうだと同調する声が増えはじめた。出かける前に何かを食べておきたかったエリナードは小さく溜息をつく。それがまた癇に障ったのだろう相手がかっとして言葉を放とうとする、そのとき。
「エリナード、どこに行くんだ?」
 ミスティだった。にやりと目だけで笑う彼がそこにいる。どうやら助けてくれているつもりらしい。子供扱いされたようで苛立ちを覚えないでもなかったがエリナードもまたにやりと笑った。
「知らねぇよ。師匠に出かけるから用意しろって言われただけだぜ」
「あぁ、なるほど。休暇、か?」
 その辺にあった軽食を皿に取り分け、たぶん、とエリナードは肩をすくめた。星花宮には大勢の幼い子供たちがいる。彼らのため、四魔導師は年に二度、子供たちを引率して泊りがけで出かけて行く。春先に行われるのは、火地系の遠足だった。ちょうどそれが終わったばかりだ。しばらくは静かだった星花宮がまたうるさいのもそのせい。ミスティはカロルの手伝いとして、遠足について行っていたのだろう、くたびれた顔をしている。
 そして星花宮に残るのは水のフェリクスと風のタイラント。結果として、短期間ではあるけれど、その二人に実務が伸し掛かることになる。だから遠足が終わるとなると、彼らの休暇だ。ミスティはそれと気づいたのだろう、納得して一人うなずく。だからなんだとばかり食ってかかるのがチェスターだったが。
「そうやってお供して、俺たちが教えてもらえないようなこと、習ってるんだろ、お前は!」
「教えてもらえないようなこと、だったら自分で勉強すりゃいいだろうが。やりもしないでごちゃごちゃ言うんじゃねぇよ。みっともねぇな」
「それが贔屓だって言ってるんだろ!」
 理性も何もなくして彼は言う。研究が行き詰っているのか、とエリナードは思った。ミスティは、魔道そのものに迷っている、と感じた。肩をすくめるミスティにエリナードは溜息をつく。
「だったら代わってやろうか?」
 よもやエリナードがそんなことを言うとは思ってもいなかったのだろう。チェスターがきょとんとした顔をした。ついで浮かびあがる歓喜。これはこれで可愛いものかもしれない。悩んでいようともまだ魔道への情熱は失ってはいないのだから。ただそれで済ませるエリナードではなかったが。
「ただし!」
「な、なんだよ!」
「だいたい……そうだな。十日くらいだと思うんだが」
 二人の師の休暇期間は前後してもその程度だ。それ以上になると今度はカロルとリオンの体が持たない。四人揃っていてすら忙しい四魔導師だった。
「十日間、朝から晩まで、痴話喧嘩と和解、それも危ないところでうっかり濡れ場付きで繰り返しだぞ? 魔術談義をしないとは言わないけどな、ほとんどそれだ」
「……は?」
「だから師匠は休暇なんだ。要はタイラント師といちゃいちゃしに行くんだ」
「だ、だったらなんでお前が一緒に行くんだよ、そんな馬鹿な話があるか。騙そうたって――」
「そりゃあの二人だけで行かせると危ないから、だな。宿を取る前に揉め、部屋に入って揉め、なに食うかで揉め。周囲が迷惑をする」
 仲介をする人間がいないと周りの迷惑だ、とエリナードは断言した。そんなエリナードが耐えきれなかったのだろう、珍しくミスティが吹き出す。
「笑うなよ。けっこう事実でまいってるんだぜ?」
「それでも。フェリクス師はお前が平気でいるから、指名なさるんだろうなと思ってな」
「あぁ、なるほどな……」
 言われてエリナードは食ってかかってきた彼を見やる。冗談か、とむくれていたものが、事実と気づいて青くなっていた。これではフェリクスが同行させたくとも、無理だろう。
「お前は平然と師に言い返すだろうが」
「言い返していいときとそうじゃないときを心得てるだけだ。戯言ぬかしてるときに真面目に相手がしてられるかよ」
「仮にも師匠の言葉を戯言で片づけられる感性を私は褒めたい」
 褒めてないだろう、と疑わしげに見やればにこりと微笑むミスティ。腹立ちまぎれ、食べかけのパンの切れ端を投げようとした手。思い切りよく掴まれていた。
「食べ物を粗末にするような子に育てた覚えはないよ、可愛いエリィ」
 にこにことしたフェリクスだった。エリナードは思わず顔を顰めてしまう。それに気づいた様子もない師。ちらりと見やれば、チェスターはまだそこにいた。
「そいつ一緒に行きたいそうですよ?」
「ふうん、そうなの?」
「え……いえ、その!」
「ちなみに、見ればわかると思うけどな、師匠。いまものすっごい機嫌悪いぞ?」
「ちょっとエリィ」
「俺ら弟子のせいじゃない、でも機嫌は悪い。顔に書いてありますよ、師匠」
 にこりと笑って座ったままエリナードはその師を振り仰ぐ。八つ当たりならば喜んで甘受する、そんな弟子の顔にフェリクスは肩をすくめていた。
「それを読み取れるのがエリナードだな。だからこそ、師はお前をご指名なさる」
「面倒くさいんだろうよ、せっかくの休暇に気を使いたくなんかないだろ。なんでわざわざ遊びに行ってガキの面倒見なくちゃならねぇんだよ」
「そういう言い方はないでしょ、エリィ。別に子供たちの面倒見るのが嫌なわけじゃない。そんなはずない。もしそうだったら僕はとっくに放り投げてるからね」
「でもたまには気を抜きたいでしょ、師匠」
 そのようなことはないと言っている、と不機嫌そうに黙る師からようやく自分の手を取り返し、エリナードは立ち上がる。
「で、どうするよ?」
 真正面からチェスターを見つめた。贔屓のなんのとまだ言うならば自分が相手とばかりに。ただでさえ疲れている師にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない。その背中に小さな笑い声が。
「これじゃどっちが師匠かわからないじゃない。もう」
 エリナードは前を向いたまま溜息をついた、長々と、体中の息と言う息を吐き尽すまで。当然にして眼前の男はとっくに硬直していた。
「師匠、素早いにもほどがあります。いま、全然聞こえなかったな」
 振り返ったそこにはすでに変化を遂げたフェリクスが。相変わらずのお気に入り、七歳ほどの幼い男の子の姿。そのままきょとんと首をかしげ、エリナードに向けて腕を伸ばした。
「注意力が足らないんじゃない? 僕はいま、面倒なことはしなかったよ。ただ幻影の呪文を圧縮して、抑制も一緒にかけただけ」
「それを超高速で」
「たらたらやってても仕方ないじゃない?」
 そう言う問題か、それは。エリナードは溜息をつきながらも奮い立っている。振り返ったら姿が変わっていた、それだけのことにしか見えない。けれど込められた技量の凄まじさ。いまだ到達できない魔術の粋がここにある。
「エリィ、抱っこして」
「へいへい、立派なあんよがあると思うんですけどね」
「いいでしょ、遊びに行くんだから。付き合いなよ、それくらい」
「はいはい、わかりましたよ、抱っこ抱っこ」
 投げやりに言ってエリナードは手を伸ばす。そこに飛びつく勢いで子供がやってきた。ふわりと抱き上げたときには軽量化の呪文まで発動している始末。いったいいつどうやってかけたのか、と頭を抱えたくなる。
「あのな……、十日間はこれの繰り返しだぞ? 俺で遊んで、タイラント師と遊んで。喧嘩して、遊んで。――それでも行きたいか、お前」
 長い溜息が消えるより先に男は首を振る。本当に、自分の知らない魔法をエリナードが習いに行くのではない、と理解したのだろう。やれやれとエリナードは息をつく。
「――エリナード」
 食堂を出ようとしたというのにミスティに呼び止められた。腕に抱いた子供は少しも重たくなかったけれど、さらし者のようで人目がつらいエリナードだ。思わずミスティを見やる目が険しくなる。
「なんだよ?」
「実験をするなら、素直に言え。だから怪我をする」
「ミスティ!」
「ふうん、あなた。怪我してたの? あとで見せなよ、可愛いエリィ」
 なぜ言った、どうして暴露した。ミスティを睨んでも、わかっていてやったのだろう彼はこたえた様子もない。飄々と茶など飲んでいた。腹立ちまぎれ。
「おい、エリナード!」
 うろたえたミスティの声にエリナードはからりと笑う。飲んでいた熱い茶が氷の塊になれば普通は驚く。それでもそのうろたえぶりがおかしかった。
「お前な、覚えていろよ!」
 ミスティの捨て台詞を背中に聞きつつエリナードは食堂を出て行く。腕の中、フェリクスである子供がくすくすと笑っていた。




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