翌朝、ずいぶん早くに目が覚めた。自宅ではない場所で眠っている、その高揚感だろうと高橋はすっきりした気分で体を起こす。
 眠っている笹嶋を起こさないようゆっくりと動いてカーテンを少しだけ開ければ、朝霧が立っていた。
「あぁ……」
 思わず声が漏れる。幻想的でとても綺麗だ。そんなことを口に出すのはさすがに少し気恥ずかしいけれど、いまは誰も聞いてはいない。
 のんびりと朝霧に見惚れれば、どこからともなく物音が聞こえる。気の早い連中が起きだしているのだろう。
 昨夜の肝試しは予定よりずっと長引いてしまった。みなのところに戻れば顧問がほっとした顔をしたのを高橋は苦笑と共に温かい思いで思い出す。
 心配をかけてしまった、つくづくそう思う。最初で最後の機会だから、と言っていささか無理を言ってしまったのかもしれない。
「でも」
 参加したかった。どうしても最後だけはみなと同じことがしてみたかった。昨夜、笹嶋に言ったより高橋の体はよくはなっていない。
 気をつけてさえいれば日常生活になんら問題はないものの、その気をつける、と言うのが曲者で高橋自身が望むより制約はずっと多い。
「子供のときより、マシか」
 小さく呟いて少しだけ笑った。その目が自然と笹嶋に向く。いまだ彼は寝息を立てていた。そのことにほっとしつつ高橋は寝顔を見ている。
 奇妙な寝顔だった。シベリアン・ハスキーの子犬が悪夢にうなされてでもいるような苦痛に満ちた顔のくせ、寝息だけはすやすやと穏やかだ。
「変な顔」
 ぷっと吹き出し苦悩するハスキー犬の頬をつつく。苦しそうに呻いた。それに声を立てずに笑い、高橋は目を細めた。
 笹嶋がハスキー犬と違うとすれば、子犬と違って彼はあまり成長の見込みがないことだろう。手足も大きな方ではなかったし、全体的に小作りだ。以前聞いたところによれば両親揃って小柄だという。
 ドアの外のざわめきが大きくなっていた。長引いてしまった肝試しのせいで空腹を訴えているらしい誰かの声。
「――ごめん」
 きっと同級生たちは事情を話さなくともある程度は知っている。体育の授業中、いつも見学をしている高橋を彼らは見ている。
 だが下級生は知らないだろう。実際、笹嶋も知っていた様子はなかった。
「お前じゃなぁ」
 きつく寄せられた眉根に向かい高橋は呆れたよう呟いた。笹嶋の観察眼など、まるであてにならない。それを高橋は身を持って知っている。
 ゆっくりと呼吸を繰り返し、なぜか騒ぎ出した鼓動を静める。左胸に置いた手に視線を落とし、苦笑した。それから意を決して立ち上がり、笹嶋のベッドに近づく。
「起きろ」
 まるで花田のように乱暴に笹嶋の頭を小突いた。途端にわっと悲鳴めいた大きな声。それにぎょっとして再び胸に手を置く。
「笹嶋。朝だ。いつまで寝てる。起きろ」
「うは。驚いたー。もうちょっと優しく起こしてくださいよー」
「なんで?」
「そのほうが嬉しいからっす」
 一瞬で目覚めたらしい健康優良児に高橋は顔を顰める。あからさまな表情に笹嶋がしゅんとするのに追い討ちをかけるよう言った。
「お前を嬉しがらせてなにが楽しいの」
 飛び起きていた笹嶋がへたりとベッドに潜り込む。毛布を手荒く剥げばいったいどこから出るのか疑いたくなってくるほど可愛らしい悲鳴。
「笹嶋、俺は男相手に無体を働く趣味はないんだがな」
「働いてますって!」
 叫び返しつつ頑固に毛布を離さない。それを高橋は笑って再度、毛布を剥ぎにかかった。
「悲鳴が可愛くない」
「嘘嘘。シュウ先輩、ちょっと俺の悲鳴可愛いとか思っちゃったり――。やめてー!」
「馬鹿言ってないで起きろ。朝飯抜きを部長様に進言してやろうか?」
「それは勘弁っす!」
 一言で飛び起きた。たいしたものだと思うが、そんな仕種がやはり小動物めいている。
「高橋ー。起きてるー?」
 そんな声と共にドアがノックされたのは二人ともが身支度を丁度整えたときのことだった。
「起きてるよ」
 言いつつドアを開けば案の定、花田が立っている。にんまりとしているところを見れば朝食の準備も整い起こしにきたと言うところか。
「すっかり俺らで朝飯作っちゃったんだよなー? 高橋、なにしてもらおうかなー、今日は」
「俺だけかよ。笹嶋は」
「え、ササ? 当然一蓮托生。それが同室の責任ってもんでしょ」
「ここは寮か!」
 叫んだ高橋に花田は似たようなものだと笑い、二人を促す。振り返った高橋に手招かれるまま、笹嶋も嬉々として朝食に向かった。
 豪勢な、とは言いがたかったけれど部員たちが作ったに違いない朝食はそれなりに体裁を整えていた。出来上がるまで起こしにこなかった花田たちを思えば高橋はすまなく思う。
「悪かったな、さんきゅ」
 誰にともなく言えば、返事は返ってこない。それで充分だった。気遣われているのを強く感じる。それでいて押し付けがましくはなかった。
 昨夜の肝試しで自分が普段より疲れているだろう、あるいは体調を崩しているかもしれない、それを慮ってくれたのだと高橋にはわかる。
「悪いと思ってんならさっさと食って、そんで高橋には用事を頼もうっと」
「花田?」
「みんな、買い出し行ってくれるってよー、高橋が。頼むもんがあったら一時間後までに要提出」
 待てと言う間もなかった。わっと歓声が上がる。菓子だの飲み物だのてんでばらばらに言い出す部員の要求を手早く花田がまとめるのを呆れ半分賛嘆半分で眺めれば、袖を引かれた。
「シュウ先輩、俺」
「花田ー。笹嶋が志願するってよ」
「なに言ってんだ。さっきも言っただろ、ササは込みだ込み。ササ、荷物持ちな?」
「うい、了解っす!」
 役目を押し付けられたにもかかわらず笹嶋は嬉しそうに笑う。それに花田は少しばかりほっとした。
「笹嶋、抵抗しろよ」
 投げやりに言う高橋を見上げ、けれど笹嶋は首を振る。どうせのんびり過ごすだけなのだ。合宿などと言っても何か予定があるわけではない。
 それならば高橋と買物にでも出かけたほうがずっと楽しい、そう笹嶋は思う。
 肝試しのときに聞いてしまった彼の体のことが少し気がかりではあったけれど、いまは元気だと高橋は言う。
「シュウ先輩が行くなら俺も行くっす」
 力強く言って拳まで握って見せた。それに呆れ顔で笑われるのも、嫌いではなかった。
 こうしてずっと過ごしてきた先輩たちがもうすぐ部活から引退してしまう。その寂しさが笹嶋を心細くさせていたのかもしれない。
「別にいいけどな」
 突き放すよう高橋に言われ、うなだれかけた顔を必死で戻せば、花田からそれでいいと言わんばかりの微笑をもらった。
「やった。シュウ先輩と一緒ー」
 茶化した口調で言ってにっこり笑い、朝食の残りを片付ける。そのあまりの勢いに上級生たちが揃って顔を顰めた。
「お前なぁ」
 高橋がなにを言わんとしたのか笹嶋にはわからない。そんなことを言いながらもちゃんとかまってくれるのを何度となく経験していた。
「花田先輩、あとでメモください。あと――」
「地図な?」
「えー、花田先輩の? 昨日、迷子でしたよね」
「そんなこと言うなら地図なしで放り出す」
「うは、それはやめて」
「ササ、いい子だよな?」
「いい子っす、いい子っす。もちろんとってもいい子っす。花田先輩、尊敬してます!」
 調子のいい笹嶋の言葉に部員たちの誰もが笑う。顧問すらも微笑ましげに彼を眺めていた。
「でもなぁ」
 そんな笹嶋を上から見下ろすよう、花田はふんぞり返って言った。
「ササ。なんで俺は花田先輩で高橋はシュウ先輩なの」
 一度聞いてみたかったんだ、と言いつつ花田の目が意外と厳しいことに笹嶋はわずかにうろたえた。が、すぐさま花田の目が和んでからかわれたのだと知る。
「えー。だってシュウ先輩、俺大好きっすもん」
 言った途端に言われた当人がむせた。飲みかけたコーヒーカップを手に、咳き込んでいるのを目に留めて、笹嶋は本気で慌てた。
「うわ、シュウ先輩、大丈夫っすか!」
「お前が変なこと言うからだろ!」
「変なことなんか言ってないっす!」
 自信満々に胸までそらして言う後輩に高橋は肩を落とし、花田に助けを求めようかと思ったけれど事態が悪化しそうな気配がありありと漂っていたので諦める。
「俺、シュウ先輩が一番好きっす」
「ササ。よく言ったなぁ。で、俺は?」
「えー。花田先輩はだから、尊敬?」
「なんだその疑問形は!」
 飛び上がった花田は一息で笹嶋の元に走りより、後ろから首に手をかけてひねり上げる。じたばたと悲鳴交じりで笹嶋がもがいた。
「助けてー、シュウ先輩!」
「どうしようかいま物凄く迷ってるところだよ」
「そんなこと言わずに! 是非!」
 悠然と残りのコーヒーを飲む高橋に笹嶋は必死の嘆願をする。が、実際はほとんど痛くもない。花田ともこうして何度となく遊んでいた。
「ササ、いい子だから答えろよ。なんで俺は花田であいつはシュウなの」
「んなこと言われたって! 花田先輩っすよ!」
「なにが? うん? もうちょっと締めちゃおうかなー?」
「落ちる落ちる落ちる! 花田先輩が高橋先輩をシュウって呼んでたから、俺もうつっちゃったんですってば!」
「そうだっけ?」
 悲鳴だか叫び声だかわからなくなってきた笹嶋の言葉に花田がきょとんとした。その隙を狙って笹嶋は自力で危機を脱する。
「高橋、覚えてる?」
「二年位前まではそう呼ばれてたような気がするけど?」
「ありゃ? そうだっけ。てことは俺かー。んじゃしょーがねぇか」
 一体なにがどう仕方ないのか誰にもわからなかった。花田本人もわかっているのかどうか知れたものではない。笹嶋の抗議と部員の笑い声。適当にいなす花田の声。その陰に隠れて高橋はこっそりと溜息をついた。




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