最終組だった。他のみなは全員戻ってきて和気藹々と結果を話しては楽しんでいる。高橋はちらりと笹嶋を見やってかすかな溜息をついた。 「シュウ先輩」 「うん?」 「いま……」 「あぁ……。気にしくなっていい」 溜息を聞かれて高橋は慌てた。笹嶋にはそう言ったものの、彼が信じるとは思っていない。案の定、笹嶋は表情を強張らせた。 「高橋。いいよー。行ってこい」 花田が戻ってきた部員を確認して手を振った。高橋は軽く手を上げることで答えに代える。 「行くよ、笹嶋」 返事もしなかった。無言で笹嶋が隣を歩き出す。もう一度溜息をついてしまいそうになって高橋は必死でそれを飲み込んだ。 「高橋、ちょっと待て」 「先生?」 「問題ないと思うが念のためだ。携帯の番号な。なんかあったら知らせろよ」 そう言って顧問から携帯電話の番号を手渡される。高橋は苦笑して受け取った。それを笹嶋が訝しそうな目で見ているのを感じる。 「とりあえず預かっときます」 それでいい、と言うよう水野がうなずく。高橋はそれ以上の会話を打ち切って笹嶋を促した。 真っ暗な夜道を歩いていく。夏合宿恒例の肝試しに高橋が参加するのは実は初めてだ。無言で歩きながら不意に笹嶋はそのことに気づく。 「シュウ先輩」 「どうした。怖いか?」 「からかわないでくださいって。シュウ先輩、いままで肝試し、参加してないっすよね。なんでですか」 「そりゃ、留守番がいるだろ」 「いつも? シュウ先輩が?」 曖昧な言い訳に笹嶋が反発して声を荒らげた。高橋はそれに戸惑いながら笹嶋を見る。 「どうしたんだよ、今更」 「だって……。シュウ先輩こそ、なんでいままで。今回急に」 「最後だからな。俺も行ってみたくなった。それじゃだめか?」 ひゅっと夜風が吹き抜ける。その音に笹嶋がびくりと体を震わせた。一瞬立ち止まって辺りを見回す。そんな仕種が本当に小動物のようで愛らしくも見えてしまう。 「だめっす」 ゆっくりと息を吸って吐いて、それから笹嶋は言った。声が震えているのは怯えたせいか。それだけとも思えなかった。 「さっきの水野先生だって、なんか変だったじゃないっすか」 「そうか?」 「なんかあったら、なんて言ってましたけど、なんかってなんですか」 「なんかだから、なんかだろ」 「シュウ先輩!」 声を上げた拍子に木の枝が落ちてきた。偶然ではあるものの、いやな偶然もあるものだと高橋は苦笑いをする。笹嶋はその場にしゃがみこんでいた。 「ほら、笹嶋」 手を伸ばせば上目遣いに見上げてくる。情けなさそうで、悔しそうな顔。高橋は笑わず手を差し出した。 「ういっす」 唇でも噛みしめんばかりにして笹嶋は言う。それでも高橋の手をとった。緊張と恐怖に汗ばんだ手をとられるのがいやだ、そんなことを考える余裕もないのだろう。繋いだ手はじっとりとしていた。 「シュウ先輩。俺ってそんなにだめですか」 「どうした、笹嶋」 「だって、なんかみんなして先輩たちも先生も隠し事してるのはわかりますもん。俺、だめだけど、それでも悔しい」 「あのな、笹嶋――」 「自信もないし、文芸部らしくないし、まともに作品書き上げた事だってないし――」 「それは改めろよ。ちゃんと書き上げてなんぼだろうが。まぁ、それはそれとしてな。花田も先生も気を使ってるのは俺であって、お前に隠してるってわけじゃない」 「一緒っす」 言下に言われ高橋はそれもそうだと思い直す。確かに彼らは笹嶋に隠し事をしているし、それが不快なのもよくわかる。 「俺な、笹嶋」 高橋は言ってしまってから迷っていた。あまり、言いたくない。それでも笹嶋に言う機会はいましかない、そうも思う。 「ひゃ」 遠く、夜の散歩中だろう猫の目がきらりと緑に光った。悲鳴を上げて笹嶋は気が抜けてしまったのだろう、少し笑った。 「いいっす。シュウ先輩。もういいっす」 「拗ねるな、話してやるから」 「拗ねてなんかないっす!」 その態度が拗ねている、と言うのだが高橋は苦笑するだけで何も言わなかった。妙に可愛らしくて困る。 「先に断っとくけど、昔の話だ。いまはなんの問題もない。とりあえずは」 「どういうことすか」 「子供ん時な、あんまり丈夫じゃなかったって言うか。治療が成功するまでは病弱だったって言うか」 「先輩!」 「だから! いまはほとんど健康体。それでもあんまり心臓に負担がかけらんないの。だから肝試しにも参加してなかった。花田や先生が気にしてるのはそういうこと」 「そんな……」 「隠してたのは、俺のプライバシーに関わるからだろ。別にお前がどうこうって言うんじゃないんだ。わかったか、笹嶋」 「わかったけど……でも、シュウ先輩。いまは」 「マラソンやれって言われたら断る程度には元気だよ」 「それって元気っすか」 「まぁね」 言って高橋は言葉を濁した。実際、体育の授業はほとんど見学だ。急激に体を動かすのはさすがに医者に止められている。この肝試しの話しも医者が聞けば目を回すだろう。それを思えば少し楽しい。 自分では、健康だと思っている。周りが過保護なのであって、体育も充分できると思っている。多少、心臓に負担がかかっても死にはしないと経験上高橋は知っていた。 「なんか、その……。あまねちゃんみたいっすねー。あまねちゃんがどんな病気だったのか知らないっすけど、でも先輩みたいに元気になってるといいなぁ」 「……まったくだな」 明るく言った笹嶋に、高橋の返答が一瞬遅れる。が、幸いにも笹嶋はそのことに気づかなかった。 「先輩」 「うん?」 「いまは、平気なんすよね?」 「あのな、笹嶋。いままで俺がぶっ倒れたの見たことあるか? ないだろ。俺の話し聞いたからって急に態度を変えんな。けっこう気分悪いぞ」 「うは。すいません」 どこまで本気で謝っているのだかわかったものではない。高橋がじろりと目の端で睨めば体を縮める笹嶋の気配。 喉の奥で高橋は笑い、手近な木の葉をちぎった。その音に笹嶋が身をすくめる。 「ほんと怖がりだな」 「音がだめなんです。怖いわけじゃないっす」 何度も繰り返したことを笹嶋は言う。本心からそう思っているのは明らかで、だから高橋はからかいたくなる。手に握ったままの木の葉をそっと笹嶋の背に這わせた。 「うっひゃ――!」 とても人間とは思えない悲鳴だった。正に飛び上がるとしか言いようがない勢いで笹嶋は跳ね上がり、駆け出そうとする。が、止まった。 「笹嶋?」 かがんで覗き込めば、目の端に涙を溜めていた。すぐに高橋の悪戯だと理解したのだろう。恨めしげな目に高橋はすまなく思う。 「逃げてよかったんだぞ。怖かったんだろ?」 それでも高橋は言う。小さな動物を苛めているようないたたまれない思いはあるものの、相手は人間で後輩だ。多少の意地悪は許される。 「シュウ先輩置いていけないっす」 高橋の予想を裏切る答えだった。小さな声はいまだ震えていたし、本気で恨んでいそうな目をしてもいる。それでも笹嶋はそう言った。 「あのな……」 「シュウ先輩置いてけぼりにして、俺にどこ行けって言うんですか」 「笹嶋」 「俺、怖がりで臆病っすけど、卑怯だって言われたかないっす」 「悪い」 「別に先輩は悪くないっすもん」 言いつつ笹嶋はそっぽを向く。完全に拗ねているな、と思いつつ高橋はそれを口には出さない。代わりに花田がするよう、笹嶋の短い髪を乱暴に撫でた。 「シュウ先輩!」 「怖がりさんな後輩の男気に乾杯ってとこだな」 「シュウ先輩っ!」 夜道でも真っ赤になって怒鳴っている笹嶋の顔がよく見えた。高橋はそんな彼の頬を撫でるよう叩いて歩き出す。いつの間にか止まってしまっていた。 「行くぞ、笹嶋」 あまり遅くなってはそれこそ血相を変えた花田や顧問が探しに来てしまう。それは願い下げだった。最後の夏合宿くらい、充分に楽しみたい。 「シュウ先輩。もう脅かさないって約束っすよ?」 「さぁ? どうかな。わかんないなぁ」 「約束してくんなきゃ、一歩も動きませんからね!」 「いいよ。置いてくもん」 言って歩き出せば悲鳴が上がった。慌てて駆け寄ってくる笹嶋に高橋はこらえきれない笑いを漏らす。それに目を止めた彼が不満そうに鼻を鳴らすのもまた笑いを誘った。 「いいっすよ。笑いたいだけ笑えばー」 「悪い。ごめんな」 「知りません、シュウ先輩なんか。もう知らないっす」 「ごめんって」 言いながらぴたりと側に寄って離れない笹嶋に高橋は手を差し出す。怖がりもここまで来ると笑えてしまう。もっとも、本人にしてみればまったく笑い事ではないのだろうけれど。 「ほら」 差し出された手を一向にとろうとしない笹嶋を高橋は強く促し、顔を覗き込む。悔しそうに唇を噛んでいた。 「うい」 呟くよう笹嶋が言って手をとったのは、夜風に驚いた鳥が慌しく飛び立つ音にひとしきり怯えた、そのあとのことだった。 |