花田が意識して呼び方を変えたのだと知らない高橋ではなかった。何しろ本人からそう聞いている。言った花田が忘れている、とも思っていなかった。
「シュウ先輩、先に軽いもん買っちゃいます?」
 地図を睨んで笹嶋が言う。花田から渡されたそれを信用しがたいらしい。
「どっちでもいいよ。どうせ持つのはお前だし」
「そりゃないっすよ」
「どこが?」
 悲鳴を上げつつ、笹嶋は最初から荷物持ちは自分がするつもりでいる。自分より背も高いし、体格も優れた高橋が子供の頃は体が弱かったなど、聞いてもいまだ納得はしにくい。
 それでも聞いてしまった以上、気にかかって仕方なかった。だから、重たいものは自分が持つ。それが当然だと思う。ついでに言えば先輩に荷物を持たせるなど、後輩の矜持が許さない。
 のんびりと別荘街を歩いていく。休みのいまは充分に人がいるはずなのに、それでも静けさのほうがずっと勝っていた。
「シュウ先輩」
「なに」
「花田先輩が呼び方変えたのって、なんでですかね」
「それは――」
 不意に尋ねられて高橋は動揺した。理由は知っていたけれど、それを笹嶋に言うべきかどうか迷う。
「あ、いや。別に大して興味があるってわけでもないんすけど」
 ただの雑談だ、といわんばかりにして笹嶋は笑う。高橋はそれに乗った。
「だったら聞くなよ。面倒だな」
「えー、だって。黙って歩いててもつまんないじゃないっすかー」
「そんなこと俺は知らないよ」
 さらりと言って高橋は足を速めた。慌てて笹嶋が追いかける。ぱたぱたと軽い駆け足の音。小動物の散歩でもしている気分で悪くはない。
「シュウ先輩!」
「なに」
「そんな急がなくってもいいじゃないっいすか。それに――」
「おい」
「シュウ先輩、その。体調は……」
 言いよどみながらも笹嶋ははっきりと尋ねる。それに溜息をついて体ごと振り返った。高橋の目にある険に彼が一瞬怯んだ顔をした。
「あのな、笹嶋」
「うい」
「俺はそういうことを言われるのがいやだから、いままで黙ってたの。わかる?」
「あ――」
「別に死にかけてはいないし、現状、元気だ。一々この程度のことで気遣われるのは癇に障る」
「う……。その、すんません」
「いいよ、別に」
 言いつつ高橋はやはり足早に歩いていった。気にしているのがありありと背中に窺えて笹嶋はわずかにためらう。追いかけられなかった。
「笹嶋!」
 それを察していたよう高橋の声が飛ぶ。慌てて走れば、前を向いたまま彼が笑った気がした。
「なんか、その。シュウ先輩」
「はっきり言え、はっきり! 怒りゃしないよ」
「絶対怒ると思うんすけど? でもいっか。あれなんすよ、あんな話聞いちゃったせいってのもあるんですけど、やっぱなんか、シュウ先輩があまねちゃんに重なっちゃって」
 たどたどしい言葉に高橋は溜息をつく。やはり花田がなぜ呼び方を変えたのか言わなくてよかったかと思う。反面、言ってしまったほうが後々のためだとも思う。
「俺、あまねちゃんが大好きっすから、先輩のことも心配って言うか」
 ちらりと視界の端に映せば、言いながら自分の言葉に照れたのだろうか。笹嶋がうつむいている。それが異様に癇に障った。
「あのな……」
「あ、いや! 別に先輩が可憐な美少女に見えてるとか、そんなことはないっす!」
「見えてたら早急に病院を紹介する必要がある」
「ですよねー」
 ははは、と虚ろに笑って笹嶋は高橋を追い越していく。地図を見つめて曲がり角を探す。態度そのものが動揺を隠し切れていなかった。
「あれ……」
 不意に地図から顔を上げて笹嶋が首をひねった。周りを見回し、何かを確かめるよう景色を見る。それからふとある別荘に目を留めては顔を輝かせた。
「あの別荘……」
「またあまねちゃんか?」
「そんな意地悪言わないでくださいよ。あまねちゃんと遊んだときに見た覚えがあるようなないような?」
 ふらりと吸い寄せられるよう笹嶋が足を進めた。呆れてそれを追い、高橋は唇を軽く噛む。小柄な背中を見やればよくわからないもやもやとした感情。
「笹嶋」
 気づけば呼んでいた。不思議そうに振り返った彼に厳しい目を向け、顎で呼び寄せる。
「こっちだ」
 なぜ、そのことを言う気になったのかわからなかった。強いて言えば腹が立っていた。が、なにに腹立たしい思いをしているのかが、よくわからない。先輩、と呼びかけている笹嶋の声も聞いていなかった。黙って歩いていく高橋を彼はおろおろと追いかける。
「見覚え、あるか」
 まるで道でも知っているかのような確かさで高橋が歩いていく。その足をとめてそう言ったのに笹嶋は答えられなかった。
 見覚えが、ありすぎた。記憶の中、今でも鮮明にあの夏のことを覚えている。
 小さな子供だった自分のこと。ほんの数日、一緒に遊んだ白い服の少女のこと。きらきらとした夏の日差しと彼女の含羞んだ笑顔。
「先輩……」
 それを知ってでもいるように高橋はこの別荘に辿り着いた。笹嶋ははじめて彼を見た気がして振り仰ぐ。彼の目は何も語ろうとはしなかった。
「花田が、なんで呼び方変えのたかって、さっき聞いたよな」
「え、あ。はい」
「お前だ。笹嶋」
 錆びたフェンスに手をかけ、高橋はじっと中を見つめていた。
「シュウ先輩、それは……」
 どういうことなのか、聞きたい。聞きたくない。聞いてはいけない。色々な思いが笹嶋の脳裏を駆け巡り、言葉は中途半端で止まる。
「あそこで――」
 それには答えず高橋はフェンスの中を指し示す。指先は一本の樹を指していた。
「あの木陰にいた。違うか?」
「あまねちゃん……」
「そう」
「日に当たるのが苦手だからって。だから、色も白くって」
 自分はなにを言っているのだろうと思う。ぼんやりと口にしながら高橋を見上げても彼の視線は別荘の庭に向けられたまま。
「子供の頃。療養に来ていた。こっちは都会より涼しいからな――」
 すっと高橋の目が何かを映す。あるいはそれは過去だったのかもしれない。
「こっちに来てもたいしてなにができるわけでもない。外に出してもらえないこともよくあった。だから、そこで本でも読んでるのが一番楽しかった」
 指がまた樹を示す。笹嶋は、自分の呼吸の音が耳につくのを感じていた。
「小学校に入ったばっかか、その前の年か。どっかの別荘に遊びに来てた年下の男の子がいた。ここに入り込んで、よく遊んで行った」
 それが誰かもう言わなくてもわかるだろう、と高橋はようやく笹嶋を見る。笹嶋は黙ってぼんやり首を振ることしかできなかった。
「お前だ、笹嶋」
 認めたくないことを拒否する笹嶋を高橋は撃ち抜くつもりでそう言う。きゅっと唇を噛んでうつむいた後輩をさらに追い詰めていく。
「花田が呼び方変えたのも、お前が誤解してたせいだ」
「なにを、すか」
 掠れ声に嗜虐的な歓びが湧き上がる。笹嶋が今見ているのは彼の「あまねちゃん」ではない。そのことにどきりとしつつ、高橋はゆっくりと息を吸う。
「俺の名前は?」
「高橋、シュウ先輩」
「それが違う」
「え――」
「高橋周。シュウって書いてあまねって読む」
 どこかで、もうわかっていた気がする。それでも笹嶋は息を飲む。ずっと探していた少女。初恋の彼女は、どこに行ってしまったのだろう。
「シュウ先輩……」
「別にどんな呼び方してもいいけどな」
「先輩は……」
「お前が探してんのが誰か? わかってたに決まってるだろ」
「なんで!」
 かっとして高橋に掴みかかった手を、笹嶋は自ら引いた。あの、あまねちゃんに乱暴などできない。思い出の中の彼女はあまりにも儚かった。
「お前がどう思ってたかは知れないけどな」
 嘘だ、と高橋は思う。知っていた。彼があまねちゃんをどう思っていたかなど、いやになるほど何度も聞いた。
「俺にとってお前ははじめての友達だった。忘れるはずがない」
 記憶の中、精一杯に背伸びをしていた少年。あのときから勘違いしていたのかと思えば笑えてしまうけれど、笹嶋はいつも一生懸命だった。飛んで行ってしまった帽子を探して駆け出したこと。遠くに行けない自分のために野の花を摘んで持ってきてくれたこと。そのたびに向けられた、笑顔。
「俺は――」
「なにをどう勘違いしたのか、お前は俺を女の子だと思い込んでたみたいだし、記憶の中でずいぶん美化もしてたし。言い出すのもなんかと思って黙ってた」
「みんな……花田先輩も」
「さぁ? どうかな。花田は勘がいいからな、なんか気にしてはいるみたいだけど」
「……すか」
「なに」
「俺、馬鹿みたいじゃないっすか! そんなの、信じらんないっす。シュウ先輩があまねちゃんだなんて。そんな――」
 かっとして上げられた声に滲んだ悲しさに、高橋は唇を噛む。だから、黙っていたのだと言い返してもよかった。できなかった。
 笹嶋が、真に可愛い後輩だったのならば、ずっと黙っていてやればよかった。いつか笑い話にできるときまで。
 それをしなかったのはなぜか。思い至って高橋は視線をそらす。記憶にあるよりあのころ過ごした別荘はずっと小さく見えた。
「バイバイ、直己くん」
 笹嶋の、頬に触れて笑った。すっと背を向けて歩いていく高橋の背を笹嶋は呆然と見送る。あのころの、彼女の別れの言葉だった。




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