窓から外を眺めれば、強い風に高い木々の梢が揺れていた。涼しげな、と言うよりは少しばかり風がきつすぎる。
「なんか怖いとこっすよね」
 外を見たまま笹嶋は言った。こぢんまりとしたいい部屋だった。これが一家族の有する別荘だ、と言うのだからあるところにはあるものだとしか言いようがない。
「毎年言ってるよな」
 重たい音がして笹嶋には振り返らずとも高橋がベッドの上に荷物を放り投げたのがわかる。穏やかそうな風貌のくせ、高橋は仕種が案外乱暴だ。
「そうですけどー」
 ぷい、と頬を膨らませて振り返った。途端に笹嶋は赤くなる。高橋がおかしそうな顔をして微笑んでいた。
「シュウ先輩!」
「別にからかってない」
「嘘です!」
「ほう。先輩を疑うか。ふうん?」
「シュウ先輩!」
 声を荒らげて枕を取り上げ放り投げる。軽い音がして枕は高橋にぶつかった。
「先輩! よけてくださいよー」
「お前、自分で投げといてそれを言うか?」
「よけてくれると思ってるじゃないっすか」
「勝手なこと言うなよ」
 言って高橋は少し笑った。それから落ちた枕を拾い上げ、放る。すっぽりと巧く笹嶋の腕に収まった。
「うっす。ありがとうございます」
 枕を抱えて運動部のような謝り方をする笹嶋を高橋は笑う。決して貶めてはいなかった。それどころか高橋はこの後輩と話すのを楽しんですらいた。
「うわ」
 ひときわ大きくなった風の音に笹嶋が可愛らしくない悲鳴を上げる。もっとも、声変わりの済んだ男の悲鳴など誰のものを聞いても可愛くなどない。
「ほんと怖がりだよな、お前」
 くすりと笑って高橋は窓辺へと近寄った。青く茂った葉を引きちぎらんばかりに強い風が吹き寄せていた。
「風の音って怖くないすか」
「別に?」
「シュウ先輩、怖いものってないですか」
「そう言われてもな。ちょっと思いつかないよ」
 穏やかに笑う高橋に笹嶋は思わず惹きつけられる。何かがはじめて引っかかった。が、それが何かわかるより先、思考は破られた。
「怖がり笹嶋。忘れてないだろうな?」
「うわ、やめてください!」
「お前が怖いのは風の音だけだろ? だったら問題ないじゃんか」
「ありすぎっす」
 真顔で言う後輩の頭を高橋は乱暴に撫でた。途端に上がる抗議の声になどかまわない。よりいっそう酷くくしゃくしゃにしてやった。
「先輩!」
「楽しみだなぁ? 合宿恒例肝試し」
「うは。やめてくださいって」
「笹嶋さ、なんで?」
 長身を折り畳むようにしてベッドに腰掛けた笹嶋を覗き込めば、嫌そうに顔を背けられた。それを高橋は笑う。
「なんでって……」
「毎年肝試しがあるのわかってて、なんで参加するんだ?」
「そりゃ――」
「どーしてもいやなら来なきゃいいのに。強制じゃないんだから」
 心底不思議そうに言う高橋を笹嶋は思わず下からねめつけるけれど、唇を子供のように尖らせているのだから締まらない。
「……楽しいじゃないですか」
「ほんとに?」
 本心とは思えないことを言う笹嶋に高橋は食い下がる。否、本心でもあるのだろう。だが笹嶋には他に言っていないことがあるような気がした。
 最後の合宿だった、高橋にとっては。来年の合宿に自分たち三年生はいない。秋になれば部活からも引退だ。
 いまの文芸部に二年生がいない以上、あとは笹嶋たち一年生に任せるしかない。もしも来年度新しい部員が入ってこなければ、文芸部は同好会扱いに格下げだ。
 それも、不安だった。自分が楽しく過ごして遊び続けた分が後輩たちに圧し掛かってしまった。悪い、とも思う。
 だからもう少し笹嶋とは親しくなっておきたかった。自分が卒業しても相談相手になれる程度に。高橋はそう思う。この夢ばかりを語る後輩が可愛い。おかしな意味ではなく、気にかかる。
「シュウ先輩」
 高橋の意図を察したのだろうか。笹嶋はためらうよう名を呼んだ。
「うん?」
「笑わないで聞いてくれます?」
「いいよ、なに」
 そう言って高橋は笹嶋の隣に腰を下ろした。ベッドがぎしりとひずんだ音を立てる。
「この辺って、懐かしいんですよ」
「懐かしい?」
「うい。子供ん時――」
「あぁ……。あまねちゃん?」
「うい」
 そう笹嶋は少し照れた顔をしてうつむいた。高橋は黙って隣の後輩を見ていた。決して笑わなかった。むしろ、笑えなかった。
 細い肩をしていた。高校生になってもちっとも背が伸びないのを笹嶋は気にしていた。それを高橋は知っている。
 中学生の頃から知っている。部活の先輩後輩として、親しいほうではある。それでも少し、距離を置いていた。
 それは高橋に半ば責任のあることで、今更距離を詰めたいと思っても中々巧くは言えなかった。
「この辺って、俺があまねちゃんと遊んだとこなんすよ」
「別荘にきてたって言うか、静養だよな」
「たぶん。俺が言うのもなんですけど、細くってちっちゃかったから。丈夫じゃないなんてもんじゃなかったのかもって……」
「お前……」
「あまねちゃん。元気になってるといいなって思います」
 勢いよく上げた顔は言葉とは裏腹な気持ちを語っていた。もしかしたらあの時の少女はもうこの世にいないのではないか。不安がありありと顔色に出ていた。
「元気だろ、あまねちゃんは」
 きっぱりと言えば不満そうな顔。どうしたものかと高橋は悩む。案外、難しいやつだったのだと今更知る。
「シュウ先輩」
「なに」
「気休めって、物凄く傷つきます」
「おい」
「先輩に悪気がないのはわかってます。生意気言ってすみません。でも――」
 言葉を濁して再びうつむいた笹嶋の頭に高橋はそっと手を置いた。
「悪い」
 手に柔らかな髪。子供の髪だと高橋は思う。たった二つしか変わらないのに、どの年代より大きな二歳ではないか、高橋はそう思ってしまう。
「俺こそ、生意気でした」
 顔を上げ、無理しているのがはっきりとわかる顔をして笹嶋は笑った、
「あのな……」
「はい?」
「いや、なんでもない」
 精一杯の一生懸命。夢の中で生きているような笹嶋の、純真さ。世の中が楽しいことだけではないと知らない年齢ではない。
 それなのに笹嶋は明るい。人のよいところばかりを見て真面目に突き進んで行く。中学生のときからそれが変わらなかった。
「シュウ先輩?」
 だから、言えなかった。笹嶋を壊してしまう気がして言えなかった。
「なんでもない、荷物片付けちゃえよ」
「うい。先輩のもやっときましょうか」
「いいよ、自分のことは自分でする」
 ひらり手を振って高橋は立ち上がる。いそいそと荷物を片付け始めた笹嶋を視界の端に納めながら高橋は軽く唇を噛んだ。
 こんな笹嶋だから、言えなかった。はじめて聞いたときに言ってしまえばよかった。あれから長い時間が経って、よけいに言えなくなった。
「笹嶋――」
「うい、なんすか」
「うん? どうした」
「そりゃ俺の台詞っす。呼びました、シュウ先輩?」
「呼んで……ないよ」
「そうっすか。聞き違いかなー」
 頭をかいて散らばった荷物を前に首をひねっていた。高橋は足元に転がってきたペットボトルを笹嶋に放る。
「落ちたぞ」
「あ、すんません。気がつかなかったー」
 へらりと笹嶋は笑った。人に慣れた猫のような顔だった。笑って目がなくなったところなど、特に。
「変わらないな……」
 小さく呟いた声は誰にも聞こえなかった。はっと口にしてしまってから慌てて高橋は振り返る。
「先輩?」
 きょとんとした顔をして笹嶋が見上げてきた。ベッドの上には荷物が完全に散乱していた。
「お前な。片付けてんのか散らかしてんのか、どっちだよ」
「片付けてます!」
「それで?」
 疑いも露に言えば上がる大きな声。嬌声めいて意外と可愛い。そう思った自分に高橋は愕然としていた。
「貸せ」
 乱暴に言って笹嶋の手から荷物を奪う。手早く彼の分まで備え付けのクローゼットに放り込む。それから持参の本をベッドのサイドテーブルにと並べる。あっという間に片付いた。
「シュウ先輩」
「なんだよ」
「尊敬します」
「お前の手際が悪すぎんの」
「俺、ベッド周りを片付けんのが一番苦手なんすよー」
「慣れだよ、慣れ」
 肩をすくめて言えば笹嶋の不思議そうな顔。
「慣れ、ですか?」
 改めて言われて気づく。普通はベッド周りの片付けだけ、慣れることなどないと言うことに。
「ちゃんと自分の部屋の片づけくらいやってるのか?」
 からかった言葉が自分でも不自然だと高橋は気づいていた。だから幸いだった。笹嶋がそれに気づかなかったのは。




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