弱小部である文芸部の夏合宿の楽しみはといえば、なんといっても部費の少なさからくる自活だった。部費が潤沢にあるのならば食事の支度も掃除も専門家を頼むことができるのだろうけれど、文芸部ではそうは行かない。
「ササ、鍋!」
「うは。吹きこぼれましたー」
「だから見てろって言っただろ!」
 先輩たちから口々に怒られながら笹嶋は台所に立っている。毎年のことだから、少しばかり来年が不安になる。
「先輩ー」
 手際のいい花田を見やれば、渋い顔をされて慌てて笹嶋は作り笑いをする。
「なんだよ?」
「俺、凄い不安になってきました」
「なにが?」
 調子のいい音を立てていた花田の包丁が止まる。自宅でも料理をするとかで、花田はこの程度のことは難なくこなす。
「だって、来年の合宿はもう先輩たちいないじゃないですか」
「留年しなきゃな」
「するわけないじゃないっすか!」
「したら困る」
 真顔で言われて笹嶋は困る。そもそも口うるさい顧問のせいで、一学期の成績が振るわなかった生徒は夏合宿には参加できない。
 だから今ここに来ているものは全員ある程度の成績を残している、と言うことになる。留年などだから、冗談だった。
「慣れだよ、慣れ」
 先ほども高橋に言われた言葉だった。笹嶋はいったいどうやって慣れたらいいのかわからない。
「いままで俺ってずっと先輩たちに頼りっきりだったんすねぇ」
「おんぶに抱っこだったよな」
「そこまで言います?」
「おう、言うぞ」
 はっきり言われて笹嶋は落ち込む。いろいろと頑張ったつもりではあるけれど、それでも先輩たちがいるからこそ、こうやってここまで来たのだというのがしみじみよくわかっていた。
「先輩――」
「あのな、ササ」
「うい」
「俺たちだってはじめっからなんでもできたわけじゃない。先輩たちに怒られて躾けられていまササが見てる俺らがいる」
「……うい」
 返事はした。けれど笹嶋には納得できない。確かに花田たちの上級生も笹嶋は知っている。が、彼らに花田たちが怒られていた場面などさほど見ていない。
「先輩たちはな、お前の前で俺らを怒んないようにしてくれてたの」
「なんすか、それ!」
「後輩の前で俺らが怒られてたら示しがつかんだろ」
「あ……」
 たった数年早く生まれただけ。その上級生が示した態度に笹嶋は動けなくなりそうだった。自分はそのようなこと考えたことなど一度もない。
「来年は最上級生がいなくなるからな、気楽だと思えばいいさ。それに俺も高橋もたぶんこのまま上に進むと思うから」
 そう言って花田は照れくさそうに微笑んだ。
「大学、すぐ横だし。なんかあったら呼べばいいだろ」
 高等部に隣接する大学からならば、それほど手間もかからず遊びに来ることができる。花田に言われて笹嶋はほっとする。それがまた情けなかった。
「別にお前が来てもいいし」
「大学に? そりゃ行きにくいっす」
「まぁ、それもそうか。俺だっていま行けって言われたらいやだ」
「花田先輩ー」
 気弱な悲鳴を上げた笹嶋を花田は邪険に振り払う。そこにまた笹嶋がじゃれついた。
「なにやってんだよ。鍋、消えてるけど?」
 呆れ声に振り返れば高橋が立っていた。他の部員たちの立ち働く中をすいすいとよけて彼は花田の前に立つ。
「花田。鍋が消えてる」
「うん、そうだな」
「後輩からかって遊んでていいのかな、部長さん?」
「遊んでないぞー。相談に乗ってたんだぞー」
「あとでやってくれ。飯が炊きあがっててカレーができてないなんて洒落にならない」
「ごもっとも」
 真顔でうなずいて花田は再び包丁を取る。高橋はちらりと鍋の蓋をとって覗き込む。そして呆れ顔で笹嶋を見た。
「笹嶋」
「はい!」
「なんで長葱が入ってんの」
「あー。えーと、入れてみました!」
「お前が? 花田が?」
 にっこり笑って食い下がれば、おろおろと笹嶋の視線が宙に浮く。感心にも誰とも目を合わせようとはしなかった。その根性に免じて高橋は勘弁する。
「花田。味付けみたの」
「まだ」
「んじゃ、適当にやっていいか」
「おう、任すわ」
 言って花田がぱちりと片目をつぶる。おかげで長葱の犯人は自白をしたようなもの。高橋は苦笑して笹嶋を呼んだ。
「めんつゆとって」
「カレーっすよね?」
「長葱入りのな」
「シュウ先輩ー」
「どうせだったら和風の味付けにしちゃえばいいだろ。別にお前を責めてはいない。お前は、な」
 くっと唇の端をつり上げて、高橋は花田を見やる。笹嶋が困り顔でもぞもぞとしていた。
「ほら、早くよこせ。大食らいがわらわらいるんだ」
「うっす!」
 運動部丸出しの返事に高橋は笑いを漏らし、カレーの鍋の調味をする。先ほど吹きこぼした、と花田が横から言ってきたけれど、さほど酷いことにはなっていなかったことに安堵する。
「笹嶋」
「うい」
「味見しとけ」
 つ、と目の前に小さなスプーンが出てきた。ほんの少しカレーがすくってある。笹嶋は思わず唇を噛んでいた。
「どうした?」
「シュウ先輩……」
 泣き出さんばかりの後輩の顔に高橋はうろたえて花田に助けを求めたけれど、彼は我関せずとばかりわざとらしく口笛まで吹いてサラダの材料を刻んでいる。舌打ちをして改めて笹嶋に向き直った。
「どうした?」
「俺、なんにもできないっす。先輩たちが卒業したらどうしよう……」
「だからと言って卒業しないってわけにも行かないだろ。だから味見しとけって」
「……うい」
 スプーンを受け取る手が震えた恥ずかしさを隠すよう、笹嶋はそれを握りこむ。口に運んでできるだけ味を覚える。
「……旨いっす」
 ただの市販のカレールー。花田が冗談で入れてしまった長葱。ほんの少し高橋が足しためんつゆ。それなのにとても旨かった。
「文芸部特製蕎麦屋風カレーってとこだな」
 花田が味見をして高橋に言う。それに笑いながらうなずいているから、最初からそれを念頭に高橋は味付けをしたのだろう。
「先輩ー」
「大丈夫だって、ササ。なんとかなるし、なんとかならなかったら後輩に押し付ける!」
「先輩!」
「なに言ってんだ。それが先輩の極意ってもんだぞ。自分がやりたくないことできないことは後輩に押し付けるに限る。な、高橋?」
「ま、そういう考え方もあるってことだ」
 高橋の言葉にこそ笹嶋はうなずく。いままで三年生たちは誰一人としてそのようなことをしなかった。むしろ自分にできないことは後輩にもさせない、それを心がけていたようにも思える。
「俺、頑張ります。最初は色んなとこに迷惑かけると思いますけど、でも頑張ります!」
「おう、その意気その意気。可愛いねぇ、ササ」
「花田先輩!」
「いやがんな。可愛い後輩を撫でてやってんだから」
「シュウ先輩助けてー」
 半ば冗談の悲鳴を上げて手を伸ばせば笑って拒まれる。その笹嶋の頭に柔らかいものが当った。
「あれ?」
「台所で遊ぶのは感心せんな」
「うは。先生」
「夕食の用意は出来たのか」
「えーと、いまシュウ先輩が最終調整を……」
 思わず助けを求めてしまって、まだまだ自分はだめだと思う。来年度がいまから不安でたまらなくなる。
「笹嶋、おいで」
 眉を下げて立ち尽くしている笹嶋を手招けば、ちょこまかと走ってきた。つくづく小動物だ、と高橋は思う。
「ここでクイズ。最後に入れたいものがあります。それはなんでしょうか」
「うは、先輩。そりゃないっす」
「ほれ。がんばれー」
 無責任な花田の声が後ろから聞こえる。高橋を見上げれば、黙って笑っているだけ。背後で花田が顧問と話す声が小さく聞こえた。
「シュウ先輩」
「降参か?」
 してもいい、と高橋の目は言っていた。ここは文芸部であって調理部ではない。と。それでも笹嶋は挑戦を受ける。こんなこともできずに来年を迎えたくない。
 もう一度味見をする。このままでも旨かった。もうこれでいいじゃないかと言いたくなる。それはそれで正解かもしれない。
「シュウ先輩」
「うん?」
「好きなこと言っていいすか」
「いいよ」
「これに揚げ玉入れたいっす」
「……そう来たか」
「え、いや。やっぱまずいっすよね! カレーに揚げ玉はないですよねー」
「いや、いいんじゃない? 俺はバター入れようかと思ってたけど。どっちにしてもちょっとこくが足んないから。花田、いいだろ」
「おっけー、了解。部長権限で許可。揚げ玉入れちまえ」
 そう言って花田が豪快に放り込んだ揚げ玉入りカレーは、なぜか今後文芸部名物になってしまうことをこのとき彼らはまだ知らない。




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