まるで自宅でくつろいででもいるような格好だった。部員が散らばっているにもかかわらず広々としたリビングのソファに水野がゆったりと腰掛けている。その手に薄手のティーカップ。どことなく頭痛でもしそうな気がする高橋だった。 紅葉坂学園は良家の子弟を教育する、と謳われている私立校だ。実際、一般的に富裕層といわれる家の子供が多い。が、それにしても水野は似合いすぎだ、と高橋は思う。花田も同感のようでかすかな溜息が聞こえた。 「もうちょっと待っててください。あと少しだから」 水野の横柄とも言い得る問いかけにシュヴァルツェンはにこやかに答えた。いったいどういう関係なのか、と思った所で花田は赤面する。 「なぁ、水野……」 言いかけて、花田は言葉を止めた。こんな人目のあるところでする問いではなかった。だが水野は内容を察したのだろう、途端に目つきが険しくなる。 「夏樹さん。喧嘩をするなら外でやってくださいよ。せっかく掃除したんだから」 ちらりと水野を見ただけでシュヴァルツェンは言った。その彼に水野は視線を向けただけ。しかしシュヴァルツェンはにっこりとうなずいた。 「わかってますよ、私は。大丈夫。もうちょっと待っててください」 水野は答えない。それでもシュヴァルツェンは何かを納得したのだろう。再びうなずいた。 「シュウ先輩」 混乱の極みにある花田に目を向け笹嶋もまた不安そうだった。わずかに首をかしげて後輩を見やれば、頼りない顔をしている。 「あの、シュヴァルツェン先輩ですか? って、誰っすか」 言って自分の言葉がおかしいことに気づいたのだろう。笹嶋はかすかに笑った。 「あぁ……そうか。お前は知らないのか」 「うちの?」 「卒業生って言うか。俺たちの三つ上だから……笹嶋が中一ん時の高三だな」 「それじゃわかんないっすよね」 「部活の先輩ってわけでもなきゃ知らないよな」 「あれ……」 笹嶋は首をかしげる。中学に入ったときから、自分は文芸部だ。それなのに先輩ではない、とは。それに気づいたのだろう、高橋が笑みを浮かべた。 「シュヴァルツェン先輩ってなに部だったっけ?」 掃除の続きだろうか、どこかに行ってしまった彼に代わり水野に尋ねた。少しだけ、緊張する。あまり人付き合いがよくない、と言うのが水野に対する最大限の譲歩した表現だ。思えば学校でもほとんど言葉を交わした記憶がない。 「カイル? 入ってたかな。名前だけどっかに置いてたかもしれないけど」 「……そっか」 また、先輩を名で呼んでいた。思わず高橋は花田と顔を見合わせる。それをどう思ったのか水野は珍しいことをした。ちらり、と笹嶋を見やって薄く笑う。 「カイルは俺の付き合いでここにいる。さっきも言った」 別荘の掃除の件だろう。と見当をつけてこくりと笹嶋はうなずく。それにうなずき返し水野は続けた。 「こっちの二人は驚いてるな、どういう付き合いかわからなくて」 「珍しいな、水野」 「なにが」 「よく喋る」 「まぁね」 花田の問いに我ながら驚いたのだろうか、わずかに目許が和んだ。それから休みだし、と小さく続ける。それを問い返すより先、水野は話しを続けた。 「カイルは俺の親戚だ。だから叔父貴……水野先生もあれを使う」 言った途端だった。花田が腰を抜かさんばかりの勢いで大きな声を上げる。高橋は声をあげることも忘れてまじまじと水野を見ていた。 「え、親戚なんすか」 普段の水野を知らない後輩だからこそ、平然としていられる笹嶋に上級生たちが揃って畏敬の視線を向けた。 「そう、親戚」 どこか楽しそうな顔をして水野は言う。それに何度となく花田が目を瞬いた。 「ちょっと待て、水野。親戚って、おい。そりゃ、藤井さんのことだろうか」 「露貴も親戚。カイルも親戚。何か不思議が?」 「なにかって! シュヴァルツェン先輩は――」 「親戚って言ってもかなり遠いけどな。水野の祖先の誰かがカイルの家に嫁に行ったらしいから」 曖昧な言い方をして水野は話は終わりとばかり口をつぐむ。本当は水野はもっと詳しい話を知っていた。だがそれをここで同級生だというだけの彼らに話して聞かせる必要を感じていない、それだけのこと。 「シュウ先輩……」 「あぁ、水野はこういうやつだから」 不安そうな後輩に言って笑ったけれど、自分でもなにが面白いのか高橋はわからなかった。少しもおかしくなどなかった。 「こんなやつ?」 言葉尻を捉えて花田が笑う。知りもしないくせに、そう言われた気がした。それももっともなこと。同級生であるにもかかわらず、水野のことなどほとんど知らない。 「あー、えーと。俺、シュヴァルツェン先輩でしたよね、手伝ってきます」 「手伝う?」 「うい、一番下っ端ですから」 水野に精一杯元気よく笹嶋は言ってみせた。なんとなくこの場の空気がいたたまれない。 「要らない」 「おい、水野」 「いい。カイルにやらせておけばいい」 「お前なぁ……」 「言い方が悪いか? カイルは好きでやってるんだ。手を出すな」 それは趣味の邪魔をするなとでも言っているように聞こえてしまって、花田はそれ以上笹嶋の味方もできなくなる。 「なにをするつもりだった?」 後輩が居心地の悪い思いをしている、と察したのだろうか。今日の水野は単に機嫌がいいだけかもしれない。それでも彼は笹嶋に向かってそう尋ねた。 「えー、あのー」 「家事が得意とか」 「ないっす」 即答する笹嶋を水野はかすかに笑った。好意的なものだったのかもしれない。それでも笑われたことが高橋は不快だ。 「うちの後輩、笑いものにしてくれるなよ」 思わず口に出したときには高橋自身が驚いている。言った途端にきょとんとした顔を自分でするのだから、そのほうがずっと水野に笑われる、咄嗟にそう思った。 だが水野は笑わなかった。妙に真剣な顔をしてこくりとうなずく。それから首をかしげて唇を引き締めた。 「反省してるみたいだから、許してやってくれる?」 突然、後ろから声をかけられて高橋は飛び上がりそうになった。そこには当然の顔をしてシュヴァルツェンが立っていた。 「カイル」 「どうしました?」 「お前が言うな」 「ではご自分で。どうぞ?」 そう言われると口にしがたくなってしまったのか、水野は険しい顔をした。ゆっくりと息を吸って、吐く。 「水野、いいよ。わかったから」 「いや……俺が悪かった。謝るときには謝るべきだと、思う」 律儀な言葉に彼の純粋さを見た気分だった。先ほど感じた不快さがすっと消えていく。高橋は軽く手を振って了解に代えた。 「夏樹さん、お待たせしました」 同級生同士のやり取りをどう見たのだろう。彼は微笑ましげにそう言って水野の肩に手をかけた。それにも三年生たちは揃って驚く。 「あぁ」 水野が少しも嫌がっていなかった。体育の授業で体が触れ合っただけでもいやな顔をする水野が、平然としている。 「ちょっと待って。そこの一年に聞きたいことがある」 「え、俺っすか!?」 「そう。お前」 なにか楽しいことでもあるような顔をして水野が問う。それがとんでもなく珍しい、とは笹嶋はわからなかった。 「花田と……」 「高橋。お前、クラスメイトの名前くらい覚えとけって」 「高橋と喋ったことなかったから」 そういう問題か、と思ったけれど高橋は肩をすくめただけで問い詰めはしなかった。代わりに花田がこれでもかと言ううくらいやっている。 責められているはずの水野の顔色のあまりの変わらなさに、本当にこの男はクラスメイトの名前を覚えていないのかどうか、高橋は疑わしくなってきた。もしかしたら水野にとって名前を呼ぶというのは最大級の好意の表明なのかもしれない。それならばただのクラスメイトの名前は覚えていても呼びたくはない、と言うことか。そこまで考えた高橋はその神経質さに呆れていた。 「それで、水野?」 きりがない、と見た高橋は会話に割り込む。隣で笹嶋が不安そうな顔をしていた。 「そこの一年――」 「笹嶋」 名前など、ここにきてから何度も呼んでいるはずだった。水野はそれでも覚えない、と言うことはたぶん親しくなる意思はない、と言う彼なりのある種表明なのだろう。高橋はそう思ったけれど取り合えずとばかり名を教えておくことにする。いつまでも一年、と呼ばれていたのでは笹嶋が可哀想だ。 「笹嶋、な」 よろしくとでも言うよう、水野は後輩に向かって手を上げた。とても今更だ、と高橋は思ったけれどあえて何も言わない。 「笹嶋を侮辱する気はないし、からかうつもりも笑いものにするつもりもない」 「わかったから、いいから言えよ。なんだよ」 癇性に花田が言った。それに水野はちらりと笑みを見せた。彼の笑みがよほど嬉しいのだろうか、シュヴァルツェンがつられたよう微笑む。 「笹嶋はどうして文芸部なんだ?」 水野が言った途端だった。三々五々散らばっていた部員たちが一斉に笑ったのは。笑わなかったのは笹嶋本人と頭を抱えたい気分の高橋だけ。 「水野ー」 呆れ果てた、とでも言いたげな顔をして花田が言う。それにまずいことでも言ったのだろうか、と水野はシュヴァルツェンを見たけれど、その視線の意味が理解できたのもまたシュヴァルツェンだけだった。 「こいつはさんざん俺らにそれを言われてんの! 初対面のお前にまで言われたら落ち込むだろ!」 「水野がなんでそう思ったのか、俺はそれが聞きたいよ……」 口々に言う花田と高橋に、水野は心底困ったようだった。もっとも、表情一つ変わっていないせいで、それに気づいたのは微笑んでいるシュヴァルツェン一人だった。 |