再び花田が盛大な溜息をつく。その姿に高橋は違和感を覚え彼を見た。 「花田?」 呼べばじろり、睨まれた。そこまで怒られる覚えのない高橋は唇を尖らせかけ、あまりにも子供じみている、と自分を笑う。 「大変遺憾なんだがな」 「なにがだよ」 「物凄く認めたくない」 「だから――」 言いかけてちらりと笹嶋を見る。その視線に気づいて花田が渋々うなずいた。 「よかったな、笹嶋」 「え、なんすか。シュウ先輩」 「あってんだよ、ササ。お前があってるんだ。クソッ。悔しいなぁ、もう」 言い捨てて花田が背を返す。すたすたと歩いていく姿に部員たちは呆気にとられ、ついで笑い出して彼を追った。 「シュウ先輩」 頼りなげな声に振り向けば、眉を下げた笹嶋が心細そうに立ち尽くしていた。 「別に花田は怒ってるわけじゃない」 「そりゃ、そうかもしれませんけど……」 「行くぞ。ただの八つ当たりだ」 「……うい」 まだたくさん持っているうちの荷物の半分を奪い取り、高橋もまた花田を追う。慌てて笹嶋も小走りになった。 「花田」 追いついて呼びかければ、その手の荷物に視線を走らせ花田が半分ばかりを受け取る。 「さんきゅ」 「別に」 「あのな……」 「わかってる。八つ当たりだって。ササは?」 「落ち込んでる。一年生をからかうな」 「からかわれてるってササもわかってんだろ。気にすんな」 「俺は気にしてない」 言葉にこめた意味に気づいて花田が力なく笑った。それから振り返って笹嶋を手招く。とぼとぼと歩いていた笹嶋は跳ねるように二人の側に来た。 「わりぃな、ササ」 「んなことないっす! 万事問題ないっす。俺、なんともないっす」 明るく言うぶん嘘が滲む。そんな後輩の頭に花田は手を乗せ、大袈裟にくしゃくしゃにした。 「先輩ー」 抗議の声が明るくなる。それに高橋は口許をほころばせ、すぐそこに現れた別荘へと視線を向けた。 瀟洒な、とまではいかないが綺麗な建物だった。部員全員が泊れるのだからそこそこ大きな別荘のはずだが、広壮さは感じない。むしろちんまりと居心地のよさそうな家に見えた。 「花田、ここ?」 「おう」 地図と見比べて花田はうなずく。高橋は辺りを見回すけれど、自宅ではないのだから表札の一つもかかっていない。これではまだ不安だった。 だが花田は確信しているのだろう、ためらうことなく玄関ポーチに立ち、チャイムを鳴らす。 「誰かいんの?」 それに不思議を覚えた高橋が問うた。が、答えは得られない。その前にドアが開いた。 「……はいー?」 花田の素っ頓狂な声に高橋も同感だった。すぐ後ろでも声が上がる。部員たちも驚いたらしい。 「シュウ先輩」 隣にきた笹嶋が袖を引く。その目がどうして、と尋ねていた。そう言われても高橋にも答えられない。 「なんでお前がいんの、水野」 ドアを開けたのは高橋たち三年生の同級生だった。無論、驚いたのだから部員ではない。 「叔父貴の手伝い……の、おまけ」 その言葉に高橋も花田もいっそう驚いた。こんな軽口めいたことを言うやつだとは思ってもいなかった、とありありとその顔に書いてある。 笹嶋は上級生の顔を窺い、改めてドアの向こうの水野を見やる。紅葉坂学園一の美少年とも名高い人が、淡く笑っていた。 たぶん、笑っているのだと思う。だが表情があまりにも動いていなくて笹嶋には確信が持てない。ちらりと高橋を見れば彼もまた同じようなことを考えているようだった。 「叔父貴?」 一番に立ち直ったのは当然といおうか花田。果敢に話しかけているのだが眉根がよっている。 「あ、そっか。水野先生か」 「そう。お前らの顧問だっけ?」 「だっけってなぁ。顧問だよ、顧問!」 私立校のいいところなのか、この水野と文芸部の顧問である教師の水野は叔父甥の間柄だった。校内ではまるでそのような素振りは見せないし、彼も決して叔父とは呼ばない。だから花田にしてもわずかの間、失念していた。 「で、水野先生は。もうきてんの」 「さっき」 言葉の短い水野はそれだけを言い、体を半身にしてドアからよけた。どうやら入れ、と言っているらしいと見当をつけて花田は部員たちを手招く。 恐る恐る水野をよけて部員が進むのに花田は苦笑し、高橋へと目を向ける。まだ隣では笹嶋が居すくんでいた。 「入れよ」 「……お前が言うか?」 「水野!」 声を荒らげて、だがもっともだと花田は笑う。水野が言うのは半ば当然だった。これほど広い別荘を弱小の文芸部が易々と借りられるはずはない。 ここは元々水野の父が所有する別荘だった。双子の弟だという教師の水野がそれを借り受ける形で夏合宿が行われることになったのが事の経緯だ。 ふと花田は水野へと訝しそうな目を向ける。その視線をすっと彼はよけた。 「水野、念のために聞くけどな――」 「お前は花田。何度も言われたから覚えてる」 「……同級生の顔と名前くらい何度も言われなくても覚えろよな」 「まぁね」 なにがまぁ、なのかちっとも高橋にはわからなかった。だから笹嶋はもっとわからなかったことだろう。二人顔を見合わせて首をかしげているところを水野に見られた。 「入れば」 それだけを言われたのに、なぜか二人は慌てて中に入る。命令されたような気がしていた。決して不快ではなかったけれど、逆らえなかった。 「あー、涼しー」 長閑な声を上げたのはやはり笹嶋だった。一年生だけあって、水野がどういう男なのかあまり知らないのだろう。緊張感がなかった。 「水野、お前なんで……」 また花田が問いかける。叔父の手伝いをするような殊勝な性格だとは思ってもいなかった。それに答えかけようと水野が口を開く前、彼の後ろから声がかかった。 「夏樹さん。そんなところでいつまでもなにしてるんです。お茶でも淹れましょうか」 礼儀正しい律儀な声。思わずはっと居住まいを正したのは花田と高橋。それに不思議そうに笹嶋が目を瞬いた。 「シュヴァルツェン先輩!」 花田が敬礼でもしかねない声で呼びかける。背筋を伸ばして思い切りよく頭を下げた。 「お邪魔してます!」 言ってから自分で気づいたのだろう、花田が頭をあげて眉根を寄せた。 「……先輩?」 「なにかな」 「どうして、先輩が……」 「ん、元々水野先生に頼まれたのは夏樹さんなんだけどね」 そう言ってちらりと水野を見て彼は笑った。高橋のみならず花田までもが呆気に取られる。水野がぷいと顔をそむけて唇を尖らせた。彼がこんな子供のような態度を取るとは同級生には信じがたい。 それが笹嶋にはわからなかった。この妙な緊張感漂う上級生たちと、彼らが先輩と呼ぶのだからもっと上の卒業した先輩とを見やる。 そしてようやく気づいた。彼らは礼儀正しい男をシュヴァルツェン先輩、と呼んでいた。耳に届いていたはずなのに気づかなかった。彼は日本人ではなかった。とすれば留学生だろうか。 「俺に頼むのが間違ってる」 笹嶋が感じた疑問を口にする間もなく水野が不満を漏らす。 「あなたに頼んだって事は、私に言ったということですよ、水野先生は」 「回りくどい」 「あなたの口から私の耳に入ることはわかっていたはずですから、先生も」 柔らかく言ってその男は微笑んだ。笹嶋は不思議だった。先輩の先輩が、なぜか先輩に敬語を使っている。それを誰も疑問に思っていないらしい。 「それが回りくどい」 ぴしりと言って水野は背を返した。誰にも何も言わなかった。それなのにシュヴァルツェンは微笑む。 「お茶の用意をするからどうぞ、と言ってるよ。入ったら?」 そう言ってリビングと思しきドアを開けてまた微笑んだ。 「……誰が言った?」 思わず高橋は花田に耳打ちをする。花田は肩をすくめて答えなかった。 「お茶の用意って、水野が?」 「すると思うか、高橋」 「思ってれば聞かない」 「だったら聞くな」 「シュヴァルツェン先輩?」 「他に誰がいる」 「……だよな」 ここに彼がいる不思議が、その頃になってようやく二人の頭にきざしてくる。 「ササ、おいで」 あまりにも不思議すぎて、頭がおかしくなりそうだった。水野先生の実家の別荘なのだから、甥である水野がいても不思議ではない。だがなぜシュヴァルツェンまでもが。 「うい、先輩」 首をかしげて笹嶋が寄って来た。その頭を花田は乱暴に撫でる。短い髪が手指に心地良かった。まるで小動物でも撫でている気分だ。 「花田先輩! シュウ先輩、助けてー」 きゃいきゃいと騒ぐ笹嶋も上級生の不安を感じているのだろう。その声はいつもよりも甲高かった。 「騒いでると、お茶がなくなるよ。早くおいで」 上品な声が三人を呼ぶ。なまじの日本人よりよほど綺麗な日本語だった。慌ててリビングに入れば部員たちは思い思いにくつろいでいる。その豪胆な感性が恨めしいような花田だった。 「シュヴァルツェン先輩は――」 言いかけた花田の声にかぶさるよう、水野が言った。 「カイル。まだ終わらないの」 名を呼んだ水野に花田は危うく飛び上がるところだった。先輩の名を呼び捨てたから、ではない。あまりにも水野は彼の名を呼び慣れていた。この、何度言っても人の名を覚えない水野が。 |