自分から引き剥がさなければならなくなるその前に高遠は名残惜しげに離れていった。 「コーヒー、冷めちゃうね」 小さく笑って無理した顔が痛ましくてやりきれない。 「そうだな」 もう一度そっと頭を抱きこんでそんな無駄な言葉を言うより何も出来ないけれど。 「伯父様ってどんな人?」 いつもの定位置。右側に、軽く頬杖をついて見上げながら訊いてくる。 それから眼鏡のない目を満足げに見詰めてくる。そんな仕種がどうしようもないほど、愛しい。 「どんなって言われもな」 思わず苦笑がもれる。 「不器用で口下手で、言いたいことの半分も言えない人。その辺りは恋人のほうもちゃんと飲み込んでて……あまり二人で話し込んだりとかは見たことがないな。ただ黙って並んで座ってる。それだけでけっこう通じてた、そんな人たち。ほら、ちょうどその辺りだ」 開け放った障子から差し込んだ光が陽だまりを作っている。 陽だまりの中にあの人は座って庭を見ていた。その横で障子に寄りかかって本を読む伯父の姿。 子供の頃見慣れていたいつもの景色がふいに見えた気がした。 「……十年前に亡くなったって。随分早くに亡くなったんだね」 懐かしい過去にとらわれた気持ちを引き戻してくれたのはそんな問い。 「交通事故でね。車の前に飛び出した子猫を助けようとして、伯父貴まで一緒に跳ねられちまった」 「そんな」 「ちょうど玄関から迎えに出た恋人の目の前でな。結局意識も戻らないまま――そのまんま」 「……つらいよね、そんなとこ見ちゃって」 「だろうな。あの人もそのまま死んじゃったから」 「え……」 「あぁ違う、誤解。後追った訳じゃないよ。ただ気分的にはそうかもしれない」 「訊いてもいい?」 込み入った事情を慮りつつも訊きたいのは俺の身内の話だからか。 「もちろん。伯父が亡くなったその日の事だったよ」 結婚はしていなかった。 けれど伯父とは二十年以上連れ添って、親族の誰もがあの人を伯父の正当な伴侶だと認めていた。 認めていなかったのはそれよりずっと以前に亡くなった伯父の母だけかもしれない。 それほどあの人は皆に愛され、大事にされていた。無論、一番大切にしていたのは伯父その人に他ならないけれど。 伯父が息を引き取った時、周りには沢山の人がいた。 俺たち兄弟に、その両親である伯父にとっては弟夫婦、幼馴染でもあった年の近い叔父。 それに当然あの人も。 集まったのは皆二人のことを知っている人だったから、あの人は誰に憚ることもなく伯父の手を握って離さなかった。 最期の瞬間、涙もろいあの人が泣かなかったのは、泣けなかったからだと知ったのは何時のことだっただろうか。 葬儀の手はずや何や、にわかに忙しくなったその場にあの人は座り込んだまま、ただそっと伯父の頬を撫ぜていた。 「あの日は友引でね。すぐに通夜が出来なかったんだ」 明日になれば弔問客であわただしくなる、だから最後に二人きりにして欲しい。 親族の前ではいつも控えめでおとなしかったあの人が求めたそれは、最初で最後のことになった。 誰もがそれを当然だと認め、あの人は襖の向こうに消えていき、それきり。 「次の日、その部屋にあの人起こしに行った時にはもう冷たくなってたよ。伯父の胸に抱かれるようにして……少し笑ってた。たぶん、あの人は伯父貴のためだけに生きてたんだ。伯父貴のいないこの世に未練なんかなくて、それどころか一人で取り残されるのがつらくて、逝っちゃった。思いがけなく死んじまった伯父貴が連れに来たのかもしれない、そんな風に言った人もいたよ」 綺麗な、それは綺麗な顔だった。二人とも。 あんな死に方がしたい、とは言わない。けれどあれほどまでに慈しみあった二人をうらやましくは思う。あんな風に一生を過ごしてみたい。 「先生、淋しかったよね」 そう言う高遠の目に、涙の影。 あの淋しさに、あの時のあの人と同じように泣けなかった俺のために今、高遠が泣いてくれるのか。 「……少し、な」 黙ってしまった俺の肩に高遠の頬のぬくもり。慰めるようなその体温をずっと感じていたかった。 昨日は体育祭だった。 全ての競技をクラス対抗で行うという三年生にとって非常に都合のいいルールは、案の定三年A組を優勝に導いた。俺のクラス。もちろん高遠のクラスでもある。 それはリレー競技の二十分前のことだった。 競技の二十分前に係りの生徒は集合してその準備を整えることになっている。 高遠はリレーの係りで思うに道具置き場にそろっていなかったリレーのバトンを取りに来たのだろう。 体育倉庫の暗がりで一年生に抱きつかれているのを見られたのはその時のことだった。 教室で、図書室でさりげなく声をかけようとしても目をそらされ、今日は電話をしてくるかと思っていたのにそれさえない。 十二時まで待って諦めた。 こんなくだらないことで高遠に身を引かれてはたまらなかったから。 今まで何度も電話をかけようとして止めたことのある指はとっくに高遠の番号を覚えている。 三回、五回、ベルが鳴る。七回鳴ってようやく声がした。 「俺。今日、親父さんは。――迎えに行く。三十分でつく」 我ながら愛想のない。 けれどこちらだって人間だ、怒ってるんだ。 頭の中で言いたいことはそれこそ山のようにあったけれど、会ってからにとっておくことにする。 高遠の顔を見て言い切れる自信はないけれど。 だいぶロータリーの音を聞き慣れたか、それとも時間を見て出てきただけなのか俺が家の前についたときに高遠はもう待っていた。 父親が夜勤で遅くまで帰ってこない、と聞けば心置きなく連れ出せる。 こんな気分でなければ楽しい、デートと呼んでもいいものなはずなのに。 高遠は黙ってドアを開け、黙って乗り、黙ったまま俺は車をスタートさせる。 ここに来るまで誰に会ってもいいようにかけてきた眼鏡を乱暴にはずしてダッシュボードに投げれば、がしゃり、金属音がする。 高遠のためにはずしたんじゃない、車を運転する時はいつもはずしている。 そんな言い訳を胸のうち、分っている。高遠がこの方がいいと言ったから。 乱暴な運転。高遠を乗せている時は決して無理して渡ったことのない黄色信号を無理やり渡り、一度は赤信号さえ無視した。 一般道のそれも真昼にわざとタイヤを鳴らして走った。 それでもスピード自体はたいして出さなかったのはやはりどこかに高遠を乗せている、そんな意識があったからか。 「先生……どこ行くの」 「べつに」 道は湘南の海岸線に入っている。 十月の海岸線は夏の人出が嘘のように少なく車も少ない。左手にずっと続く防砂林が風に吹かれて鳴っていた。 普段は馬鹿らしくて通らない西湘バイパスが見えた所で行き先を決めた。 箱根。夜中に攻める山道。黙ったままの高遠。何故責めない。どうして何があったか訊かない。どうしてなにも訊いてくれない。 「走りに、行くの?」 「だったら」 「行きたくない。怖いよ、先生」 怒ってるのは誰の所為かとひとつ息を吸い込んだら先を制された。 「あの一年生が好きなら、いいよ、しょうがないもん」 馬鹿らしくて怒る気力もうせた。 想像していたことではあったけれど、やはり高遠は誤解して、自分が諦めようとしている。 人がいいにもほどがあると思ったら新たに怒りが湧いてきた。 いやな音を立てる。悲鳴を上げたタイヤに、体がシートベルトに引き戻されるほどの勢いで車は止まる。 焼けたタイヤの強烈な匂いがわずかに漂った。 「なんでそうやって勝手に身ぃ引こうとすんだよ。なんで何があったのか訊こうとしない」 「訊いたってしょうがないじゃんっ」 今日初めて真向から見据えてくる視線にぶつかった。 それは泣き顔でさえなかった。 俺が怒っている以上に高遠は怒っているのかもしれない、ようやくそのことに思い至る。 「先生、僕と校内で会うときはいつも二人きりにならないようにしてる。自習室は二人きりだよ、外から丸見えだけどねっ! あの一年とは先生、どこで会ってたわけ。僕になに訊けって言うわけ」 「だからその事情を訊けって言ってんだ。だいたい俺はお前をちゃんと卒業させたい、前にも言った。こう言っちゃなんだがあの一年がどうなろうと知ったこっちゃない!」 「嘘だ。先生、生徒がどうなったっていいなんて言う人じゃない」 普段なら御明察というところだ。ただ違う。今回ばかりは違う。 「だって……っ」 言いながら次第に涙ぐんでくる高遠。怒りは哀しみの凝った物だったのか。よくよく見れば泣き腫らした、目。 こんなことさえ目に入らなくなっていた自分が情けない。ふいにどうしようもないほど愛しくて、それ以外どうすることも出来なくて。くちづけた。 「ごちゃごちゃ言うな」 唇が離れてもまだ驚いて目を見開いたままの高遠の髪を指でそっと梳いては抱き寄せる。 「信じてくれないのか、高遠」 いつもすがるように背に回してくる腕が今日は小さく胸の辺りをつかんでいる。 ためらい、震え。そして見上げてくる、目。 言いたいことがあるなら、そう言いかけ野暮に気づく。 乱暴に奪った唇をもう一度そっと重ねる。 柔らかくて、甘い。ゆっくり味わい、軽く吸う。ぞくり、肌が粟立つ。 たかがくちづけ、それも触れているだけの幼いそれでこんなに感じたことはなかった。 もっと深く触れたくなって慌てて唇を離せば、追いかけてくる高遠。 そっと押し付ければこのまま欲しくてたまらない。 それ以上をしてしまう前に理性が体を引き離した。 高遠はうっとりと目は閉じたまま、唇は誘うように少し開いて。 もう一度だけ軽く重ねて苦笑がもれる。本当にこれ以上してしまう前に腕の中に抱きこんだ。 「まだ怒ってるか」 「……ちょっと」 そう言いつつもそれが照れて言っているだけ、そう気づく余裕が戻ってきている。 そっと高遠の体をナビシートに押し戻し、片手はバイザーにはさんでおいたメモを取る。 「見てみろよ」 「手紙? いいの」 肯いて見せればかさりと音を立ててメモが開かれた。すうっと顔色が変わっていく。 「僕じゃない」 メモには「体育倉庫で待っています、高遠」とのワープロ文字が書いてある。 「昨日の昼、職員室に戻ったらデスクにそれがあった。そう、ちゃんと気がつくべきだったさ。お前が俺に書いてよこすのにワープロなんか使う訳ないからな」 惚れられている自信、かも知れない。にやりと笑った自分の顔にそんなものがある気がする。 「だから、行った?」 「じゃなきゃ行かない」 「だからあの一年、どうでもいいって……」 「そういうこと。こともあろうにお前の名を騙って呼び出すなんて悪辣に過ぎる。のこのこ行った俺も馬鹿だがね」 とたん高遠が破顔した。 「僕だから?」 「そ。鼻の下伸ばしてね」 高遠は吹き出して大笑いし、それからその満面の笑みのままこちらを向く。そして改めてふわりと笑った。 何物にも代えがたい、笑顔。思わず見惚れた視線に恥ずかしそうに少し目を伏せ、ちらりと見上げる。 そんな仕種にどうにかなってしまいそうで大きくひとつ深呼吸。 「車出すぞ」 「もう少し、だめ?」 「だめ。理性には限界ってモンがある。知らないか?」 |