遅めの昼食は通りがかりのファストフードで済ませてしまう。車の中で二人そんな風にして食べているのがなんだか自分でも微笑ましくなってしまうほど、楽しい。 車を中央図書館の駐車場に放り込み外に出れば、まぶしい。 午前中のあの苛々など嘘のようなこの気分はたぶん、二人とも。 「先生、どこ行くの?」 図書館の入り口とは反対に歩き出した俺にそう問う。そう言えば行き先を告げていなかった。 「あっち」 「あっちって……動物園?」 「そ」 野毛山動物園、だった。 野毛山公園に隣接するここは横浜でも古い部類に入る動物園ではないだろうか。 広い公園内の小さな動物園。伯父とその恋人もここを好んでよく散歩にきていた。もちろんまだ子供だった俺を連れて。 「先生、動物園なんて来るんだ」 なんか意外だなんて呟いて高遠は笑う。確かに笑われても仕方ないな、とは思うけれど。 「見せたいものがある。……眼鏡、かけていいか?」 「あ……誰がいるかわかんないもんね」 「なんか悪いことしてるみたいだろ?」 「悪いこと、してる。先生と……一緒にいる」 「悪い、と思っていたら誘わない……違うな。悪いと思ってても会いたかった」 「先生……」 不注意な一言に沈んでしまった顔が一瞬で上気して、それから破顔する。 たった一言でこんなにも喜んでくれるのに、たったこれだけのことをいつも言ってやれない。 ただ一言「好きだ」と言ってやればこんなに苦しめないで済むのに。 それなのに自分の枷から抜け出せない俺のことを高遠は待っていてくれている。 卒業を待っているのは俺じゃない。高遠の方。高遠が俺の枷が取れるのを待っていてくれている。 情けない、そう思うより今はそんな高遠をこの一瞬だけであったとしても幸せにしたい。そう、思う。 ゲートをくぐりのんびり一周したってたいして時間のかからない園内をゆっくりゆっくり散歩した。 「先生?」 「ん?」 見上げて笑う目にそっと微笑み返せば、いっそう幸せそうに、笑う。そのあまりの愛おしさに柔らかい髪を撫ぜて抱き寄せたかったけれど、さすがに人目があって断念した。 その代わり軽く額を小突いてみる。まるでいたずらっ子にするように。むしろじゃれあう恋人同士か。思ったとたんに自分の言動が恥ずかしくなった。 「なんだか……」 言いかけてふ、と目を伏せた。また何かまずことでもやらかしたかと慌てる俺を尻目に高遠は、笑っていた。目を伏せたままさもおかしくて耐え切れない、というように。 「なんだよ」 「だって、さっきまですごい先生怒ってたのに」 「お前だって怒ってただろうが」 「ん、だから痴話げんかみたいって、さ。思ったらおかしくって」 そう言ってまだ笑いの衝動が収まらないのか今度はくすくすと声を出して笑っている。 「みたいって……痴話げんか以外のなんだってんだよ。お前が焼きもち妬いて怒って、俺が弁解もさせない気かって怒った。そう言うのを普通は痴話げんかって言うんだ」 憮然としたまま言えば高遠はあっけに取られたように俺を見ている。 それからなんともいえないような笑顔で黙って俺を見上げた。 園内をただのんびりと、歩く。別に動物を見て歩くわけじゃない。特に何を話すわけじゃない、それでよかった。二人でこうしている、それで充分だった。 広いわけでもない動物園もそろそろ出口に近い、そんなところにそれはある。 鳥舎の裏、猛禽類舎の横手から少し入った所だ。水鳥のいる小さな池の正面にある小さな広場。そこにある誰も目をとめないだろう、歌碑。 「先生、これ……」 「そう。琥珀の歌碑さ。知らなかっただろ? こんな所にあるの」 そう言った声も聞こえないようにじっと削られた石の表面を見詰めている。 無造作に切り出してきただけ、そう言った風情の歌碑は雨風にさらされて表面がだいぶ痛んでいる、が読み取れないほどではない。 むしろそれがこの歌碑に趣を添えているようでもあった。 「契りきな……?」 「契りきな桜がすみの春の頃、現ならざる世までも共に。字は篠原の字だよ」 「随分、綺麗な字を書いたんだ……なんか、意外。篠原忍ってなにを読んでも偏屈だって書いてあったし」 「どんな風に書いてあった?」 「ん……琥珀の終生の友人で、ずっと同居して暮らしてたけど、琥珀以外にはホント数少ない友人としかちゃんと口を聞かないような人だった、って」 「人嫌いだったからな」 あえて断定して見せたのに、琥珀の歌碑に見入ったままの高遠は気づきもしない。 あたりはそろそろ色づき始めた紅葉に彩られ、それをさやさやと風が鳴らしている。 桜の歌のくせ、あたりに桜らしい木は、ない。と見えて遠く、かすかにほの光る桜の樹皮が見えた。 「さて……短歌を口語にするほど野暮はないが、訳すとどうなる?」 「えぇっ! ……契りきな、は約束したではないか、でいいの? 桜の散る頃、う……現ならざるって?」 口調だけで悩んで見せた高遠はためらうように軽く背を預けてきた。 「現、はこの世のこと。そうではないって言うんだから、この世ではないほかの世のこと、つまり死んだ後でも、と。百人一首にも入ってるな、同じ用例の歌。勉強不足だぞ」 言いつつそっと腕の中に抱きとれば安心したのかほぅと力が抜けていく。あんまり安心してしまうのがおかしくて聞いてるのか、と軽く頭を叩いた。 「あ……はい。じゃあ死んじゃっても一緒にいるって約束したよね、ぐらいの意味?」 短歌の鑑賞、という意味では感覚で味わうのは正しいと思うのだが、いかんせん高遠は受験生、少し不安になってしまう。 単語の一つ一つを覚えてなんになると言ったって現に今の受験問題というものはそう作られているのだから仕方ない。 「まぁ言葉の意味だけならば、それで正しいし大抵の本の訳はそうなってるな」 「え、じゃあ他にあるの?」 「……桜霞の中であの日、約束したじゃないか。いつまでも一緒にいようって、一人にしないって。それなのにそれなのにあなたは……そう! あの約束は桜が散ってくほどにはかない約束だったわけっ! そう、ふーん。……て言う具合に艶に妬いているわけだな」 言葉が終わるか否や高遠が爆笑した。 確かにこういう調子でしゃべるのが似合うとは思っちゃいないが、そんなに笑わなくたってよさそうにものを。 「せ……っ先生ってばまるで見てきたみたいに! やだなぁ琥珀って先生からみるとそんな可愛いこと言う人な訳なんだ」 「見てたんだよ」 「え……」 驚き、振り向いてまじまじと俺を目を見た。くちづけの近さで。 「こうやって琥珀が恋人に焼きもち妬く現場を、見てたんだ。俺は」 彼らの死後、状況が許すようにならなければ決して明かさないと誓った事実を今、こうして話そうとしている。 まだじっと見詰めたままの高遠の頭を腕の中に抱え込み、話す声は我知らず呟くほどの小声。 「だっ……だって、琥珀に恋人はいなかった、て言うのが定説じゃん、違うの?」 歌碑の前、風が吹き抜けていく。 琥珀は、そしてその恋人はこうやって死後まだ十年という時期に真相を話すことを許してくれるだろうか。 「琥珀には恋人がいたさ。もちろん。ただ世間に公言できる仲じゃなかった。もうひとつ。俺の育ての親の伯父貴には恋人がいた。ただ事情があって結婚できなかった。さて、どうなる?」 「先生の伯父さまが……琥珀?」 「はずれ。もうちょっと考えるんだな」 思わずにやりと笑ってしまった。とたん高遠が憮然とする。自分が真面目に考えているのに、と。そんな子供じみた態度さえいとおしい。 「じゃあ、篠原忍」 ちっとも考えた風ではなく、投げやりにふてくされてそう言った。 「そう、あたりだ」 「ええっー!」 「考えたんだろ。驚くことじゃない」 それよりいきなり腕の中で上げられた大声の方がよほど驚く。 「だっ、だって。先生琥珀のこと見てたって言ったじゃん……あぁそうか、一緒にくら、して……先生っ!」 「そ。伯父貴には一緒に暮らしてた恋人がいて、琥珀には言うに言えない恋人がいて、篠原と琥珀は一緒に暮らしてた。そう言うことだ」 「うわぁ……」 「高遠。琥珀のフルネームは?」 「水野、琥珀」 「俺の苗字は?」 「水野……」 「伯父貴なんだからあの人だって本名は水野だ。戸籍の上で名乗らせられないならせめて紙の上だけでも。そう望んだのがどちらかは、知らない。あのひとはだから水野琥珀と名乗っていた。琥珀、と言うのも伯父貴があの人の目の色をそう言ったんだそうだ」 懐かしい、俺にとっての二親。人嫌いだったくせ俺にはいろいろと話してくれた伯父貴。 あの人のやさしい琥珀色の目はいつも笑っていた。 「もっと……聞きたい。先生の、親だもの」 「続きは図書館で」 中央図書館には資料室が三つある。それぞれ第一第二第三資料室と呼ばれ、用があるのは第三資料室だった。 他二つの資料室と違ってここは一般解放をしていない。閲覧できるのは篠原、琥珀いずれかの研究者として許可証を持っている人間か、図書館の職員。 「じゃあ、先生、大丈夫なの?」 人気のない学者廊下――本当はなんと言うのかは知らない。要するに一般の閲覧者が入れないエリアだ――を、肩を並べて歩いていく。 「遺産相続の関係でね。篠原と琥珀の遺品に関することは俺の管理下にある」 「うっわ。相続かぁ……うちで相続なんて言ったら借金しかないよ」 思わず苦笑がもれた。相続した「遺品」の中には著作物の印税関係もあるのだと言ったら……驚くぐらいじゃすまないだろうな、そう思って。 「まぁそんな訳だ。俺は身分証だけあればいいし、事実上フリーパス」 だからお前を連れていても問題ない、と。途中にあった管理カウンターで免許証を提示すれば、それで終わり。あっさりと資料室の鍵を貸してくれた。もっとも度々ここにはくるから、慣れたものではあった。 「なんか、随分さっぱりして……」 ドアをくぐった高遠の第一印象がそれだった。 「資料室、なんて言うともっとごちゃごちゃしてるような気がするだろ?」 それに反してここは図書館の几帳面さできちんと分類整理されている。 キャビネットには写真、だとか琥珀・原稿だとかそんな文字が見えていた。 話をするのに顔も知らないのでは感じがつかみにくかろうと手近な写真を取り出してばらりと並べる。 「あっ。先生……?」 そのうちの一枚を取り上げまじまじと高遠が見詰めている。もちろん俺の写真がまぎれているわけもなく、見れば戦後しばらくたった頃だろうか、今の俺と同じくらいの年頃の伯父貴だった。 物憂げな、顔。座っているのは今の家の座敷。障子に寄りかかって庭を向いているのは見慣れた姿だった。 季節は、夏。色あせた写真でもはっきりと分る小千谷縮の着物を、長襦袢もつけずに着ている。それもいつものこと。 雑誌の取材だろうその写真には編集者がくるたびに浮かべていた不機嫌さとはまた少し違った表情を浮かべている。困惑、かも知れない。 いずれにしても他人にわかるほどの顔ではなかった。 「そっくりだろ?」 「そっくりって言うより、生き写し」 血の気の上った頬は新しいおもちゃを手に入れた子供のようだ。 「こっちが琥珀だね?」 これも取材の写真だと聞いている。時期は先ほどの写真と同じくらいではないだろうか。 本塩沢の細かい蚊絣が一面に美しい模様を作っている着物のはずだが、この写真では分らない。 少し困ったようなおとなしやかな表情のくせ、これと決めたら譲らない頑固さが目に表れている。二十歳そこそこくらいだろう。 困ったような顔なのはあっという間に歌集まで出てしまったことへの困惑なのかも知れなかった。 「先生、琥珀のことなんて呼んでたの?」 「真人さん。身内はみんなそう呼んでたんじゃないのかな。ただ、今は歌人としての話をするときは琥珀、養い親として話すときは真人さん、て使い分けてるけど」 「ずっと……死ぬまで一緒だったんだね……」 対談か何かの写真だろうか、見つけ出した高遠は、うっとりとそれを見つめ、それから少し淋しげにそう言う。羨ましげでもあったかもしれない。 「そう……ありたいな」 はっと弾かれたように顔を上げた高遠の瞳が見る見るうちに濡れていく。 まだ手に持ったままの写真を取り上げ抱き寄せればためらいもなく抱き返してくた。羽織ってきただけのシャツ越しに高遠の体温を感じる。 この世で一番愛しくて、温かい、ぬくもり。抱きしめられるだけじゃ足らないとばかりに摺り寄せてきた頬。顎先を捉え、重ねた唇。締め切った部屋の中、空調の音と衣擦れ。それからお互いの狂おしい、息遣い。血のたぎりを覚える前に、そっと離した。 |