ふいに高遠が腕に縋りついてはそのまま額をそっと腕に埋める。 じっと、何かをこらえるように。 高遠、そう呼びかけることもせず腕をほどけば、これ以上ないくらい傷ついた顔をする。 もとよりほどくのが目的ではない私はそのまま腕の中、抱きとった。 きつく、背中に回すのをためらう腕を裏切った指が、白くなるほど私の肩をつかんでいる。 静かにそれをたしなめて背中に導けばやっと安心したようにほっとつくため息。 愛しいぬくもりを腕に感じながらまだ冷え切った髪を何度も撫ぜればうっとりとした、呼吸。 「先生」 「ん?」 「……睡眠薬飲んでるって、本当?」 思わず間近でじっと見詰めてしまうほど、驚いた。 高遠に知られないように、それだけは万全の自信があったから。 とは言え、どこかにそんな兆候が見られたのかもしれない。 それに気づいただけなら、こんなにショックを受けるとは思えない。 気づいたのは高遠ではない、それが私の結論。ならばそれに気づき、しかも高遠に教えるようなおせっかいは一人しかいない。 「新田か……」 「ん。新田が先生睡眠薬飲んでないかって……ねぇ、そうなの」 私の顔を見ることも出来ず高遠は呟くようにそう言った。 「ああ……。飲んでる」 「どうしてっ」 思いのほか激しい語調に驚けば、心配で仕方ない、そんな瞳にぶつかった。 「眠れない、じゃ理由にならないな」 「そんなの、分ってる」 再び顔を埋め、小さく爪を立てた。 「自分がどうしたいか分っていて、それなのにどうしてやることも出来ない。けっこうきつい」 高遠は答えずただ黙ったまましがみついてくる。 だから言いたくなかった、知られたくなかった。悩み苦しむのはどう考えたって年上の自分の方。そう言えば高遠は余計苦しむだろう。自分もそれを共有したい、と。 「僕は……どうしたらいいの。どうしたら先生の負担にならないでいられる?」 きつく背を抱く腕。まるでこれが限りとばかりに。 「先生のこと、諦めたら、楽になる?」 とんでもない勘違いについ脱力してしまった。だから可愛いというのは惚れた欲目か。 「あのなぁ」 「だって、僕が先生のこと好きだから、先生困ってるんでしょう。だったら……」 「困ってるならこんなこと誰がするか。もうちょっと考えろ」 「考えたからきたんじゃんっ」 「もう一度言うぞ。どうしてやることも出来ないから、きついんだ」 分ったか、とばかりにぽんと頭を叩いて言った。 それからひょいと胡座のひざに抱き上げてしまう。今日は教師の仮面をどこかに置き忘れたことにして。 小柄な体をすっかり抱き取ってはそっと髪にくちづけた。無論、高遠が気づかないように。 「……僕に、何が出来るの。先生が楽になるように」 小さな呟き。それがどんなに優しい気持ちにさせてくれることか。 「そうだな……」 少し考えて、ふと思いつく。まったく大人は卑怯だ。自分の決めたモラルなのにそれをかいくぐる事ばかり考えている。 「もっと、甘えてくれていい。今日みたいに。そうすればお前の望むようにしてやれる、ある程度は」 「……会いに来てもいい?」 「ああ。ただし! 来る前には連絡を入れること。特に夜は走りに行ってることも多いから」 「うん」 「電話よこせば迎えに行ってやるから」 「でも……いつもは先生、困るよね……」 「噂にならない程度までなら、よしとしような。あとはそうだな……図書館にでも呼び出せばいいさ。な?」 「うん……」 ふわり、見上げてくる唇に触れてみたくて、この時ばかりは己の自制心に感謝した。 「ん……眠くなってきた。後は起きてからにしような」 そう言ってひざから下ろした高遠が酷く残念そうな顔を一瞬して、見られたと気づいた瞬間、消した。 「もっとわがままでいいんだ。お前は」 ふっと背中を向けた高遠が言葉をためらう。 「わがままだよ……」 しばらく経ってから聞こえた声は、そう呟いた気がした。 和室の寝間に無理にベットを入れた、なんだか不自然な寝室は伯父が生きていた頃と変わっていない。 不精でめんどくさがりの伯父は布団の上げ下ろしが嫌いだった。 からり、押入れの襖を開けて客布団に手をかけ、少し考える。 「一緒に寝るか?」 「一緒じゃだめ?」 問いかけは同時で。顔を見合わせ笑ってしまう。 男二人で寝たっていっこうに支障のないサイズのダブルベットなのだ、これは。だいたい高遠は男と言えるほど体格も育ちきってはいなかった。 「かまわない。もちろん、な」 くしゃり髪を撫ぜればくすりと笑う。今日、ようやく見せたなんのこだわりもない心からの、笑み。 「その代わり、寝るだけだからな」 「わっ……わかってるよっ」 「……こうやって甘えてくれる方が気が楽だ」 真っ赤になった高遠の額をついと小突いてそう言えば、なんて柔らかい顔をするのだろうか。なんとも言いがたいそんな顔のまま小さく高遠は肯いた。 そう言いつつも結局しっかりと腕に抱いて、眠った。 睡眠薬に頼らずに眠ったのは実に一ヶ月ぶりのことだった。 目覚めたのは昼過ぎのことだった。 頬にあたる柔らかい髪。静かな寝息。そんなことが例えようもなく幸せだった。 腕の中、恋焦がれた人が眠っている。それ以上何一つしてやることの出来ない焦燥を感じているのに、高遠はそれでも幸せそうだった。 「ん……先生?」 小さく身じろぎをして、それから少し照れたように、笑った。 先生、そう呼ばれることのもどかしさ、そして罪悪感。 「起きたか」 「うん」 きっと高遠自身、私を心配してくれてよく眠れなかったに違いない。 昨日苛つくままに飛び出した所為で閉めることのなかった雨戸から午後の陽が、高遠の目元に光を投げかけている。 まだ眠たげな、目。少し疲れたようなそれはたぶん一晩か二晩分の疲れ。 「僕、コーヒーでも、淹れるよ」 じっと見ていた私の視線に照れたものか急に身を起こしてしまう。 もう少し抱いていたかったな、そんな未練。 「あぁ、頼むよ」 名残惜しげに体を起こせば陽射しが目に飛び込んで、まぶしい。今日は昨日と打って変わったいい天気らしい。 「あ……」 驚いた、声。それからそれを隠そうと。 「どうした?」 「ん……その」 「ん?」 「言っていいの」 そこまで言われて見当がついた。驚かれても不思議ではないことだ。 「目。違うか?」 「あ……うん」 「時々なんかの拍子に色が違って見えるみたいだな」 「すごい……綺麗だった」 まるで魅せられたように覗き込んでくる。 そっと頬に手を添えて、まるでくちづけをねだるように。 「そんな風に見るな。照れる」 「うわっ、ごめんなさいっ」 一瞬本当に飛び上がって見えた。 感情をぶつけるのは下手なくせ、こういうところは妙に素直な子だった。 「……でもほんと綺麗。何色、って言うんだろ」 「夜の海のような蒼、そう言った人がいたな」 「……誰」 「妬くな。俺に言ったんじゃない」 ぷい、あらぬ方を向いてしまう。 そうか、と突然納得した。感情をあらわすのが苦手なんじゃない。感情を言葉で表現すること、それが苦手なのだ。高遠は。 「じゃ、誰」 「伯父貴がおんなじような目をしてた。その伯父貴の恋人が伯父貴に言ったんだ」 これだけ伯父貴を繰り返すと我ながら説得力に欠ける。言いながら思い出したから。 「……ハルも同じ色だね、と言われたことはあるがな」 どうもこれは惚れた弱みというものらしい。隠し事、と言うほどのことでもないのに、黙っていられない。 「ん、信じる」 言いながらも顔はまだ少しふてくされたままで。 子供じみたそんな仕種が可愛くて、抱き寄せた。 「嘘つけ。まだ疑ってるくせに」 高遠は身をよじって背中を預けてきた。しっかりと包み込まれているみたいで安心するのか。 「だって、それだけ近くで見たってことじゃん」 「あのなぁ伯父貴は育ての親だぞ」 「伯父様じゃなくってその恋人の方」 「同棲してた」 「結婚、じゃなくて?」 「ちょっと事情があって法的に無理だった」 「あ……ごめんなさい」 消え入りそうな声に謝られても自分はその、ちょっとした事情、というやつを知っているのだからなんとも困ってしまう。 高遠の手前ちょっと、とは言ったもののそれどころじゃないのだ。 「べつにいいさ。二人とももう亡くなって十年経つ」 「大好きだったんだ。なんか、口調がそんな感じ」 「ああ。親、というと俺にとっちゃあの二人。生みの親は二人ともまだ元気なんだけどな」 つい苦笑がもれる。それが紛れもない本音だったから。 「聞きたいな……いい?」 「後でな。コーヒー、淹れてくれるんだろう?」 父親と二人暮しの長い高遠は台所、という場所自体に慣れているらしい。 勝手のわからないはずの人の家でさえ手際よくコーヒーを淹れてくれる。 ふっくりとしたいい香り。器用なのかいつものことなのかとても自分ではこうはいかない、いい香りだった。 「牛乳、冷蔵庫にあるからな」 「先生、カフェオレ?」 「違う。お前」 いえば口を尖らせ拗ねた顔。 「子供じゃないんだから、そのままでいいもん」 その口調自体が酷く子供じみているのにそんなことを言う。 からかって見ようか、そうも思ったけれど口をついたのは違う言葉だった。 「子供だとでも思ってなきゃやってられるか」 瞬間、じっと見詰めてくる瞳。それから少し俯いて。 「卒業したら……子供じゃない?」 「当然」 「……うん」 少しばかり赤くなった目元を眺めていたら思わず本音が出てしまう。 「俺はお前をちゃんと卒業させたい。教師とそう言う関係にあった、そんなスキャンダルにまみれさせたくない。今そんな噂を立てられれば今年に入ってからのお前のがんばりも何もみんな傷がつく」 「先生だって……困るよね」 「俺は別にいい。教師を続けたいならどこでも出来る。何も紅葉坂にこだわる必要はないからな。今すぐやめて誰かさん迎えに行く事だって可能だよ。けど、お前の名誉に傷がつく。それがいやだ」 エゴだと分っている。名誉も何も関係ない。 今、高遠が欲しいのはこの俺、分っている。 それでも一生懸命に大学目指している生徒としての高遠に、愛しい人に不名誉な噂は立てられたくない。教師として、男として。 ゆっくりと俺の言葉を反芻するように考えていた高遠が納得したように小さく肯いた。 こうしてまた泣かせていく。 卒業するまでにいったいどれだけ泣かせればいいのだろう。ためらいがちにふと高遠が腕の中。 「少し、こうしててもいい? 少しだけ」 「ああ」 今日だけだぞ、言いかけて止めた。 高遠だってそんなことは百も承知のはずだから。 柔らかい髪に頬を押し付ければきつく抱き返してくる腕。 なにもかも捨ててこのまま……そう思う心と理性がせめぎ合い、負けてしまいそうだった。 |