いくら文化祭とは言え、と言うよりそれだからこそ普段だったらないような雑用に追われ、校庭に出たときにはもう秋の太陽が西に消えかかる所だった。
 校庭の隅、キャンプファイヤーからも離れたそこに、高遠の姿。
 だいぶ葉を落とした木の下、れんが囲いの花壇に一人、腰を下ろして。
 見渡せば遠くに新田が四條と笑っている。高遠はやさしい子だから邪魔をしないように、そうしているのだろう。歩けば砂がさくさく、鳴る。
 興奮と期待に生徒たちも柄にも似合わず教師たちさえ、はしゃいでいる声がうわーんとした音になっては伝わる。
 声をかけてくる生徒や話し掛けてくる同僚を軽くいなして近づけば高遠は疾うに気がついていたらしくて。
「ひとりか」
「はい」
「新田にも置いてかれたのか。酷いな」
「そんな事ないですよ。それに……後輩と一緒にいて不自然じゃないのって、あんまりないし」
 そうわずかばかり困った顔をして見せた。夕暮れの風がふわりと高遠の髪を弄っていく。陽が落ちる前の最後の残照が髪を透かし、金に染める。
「先生?」
「……いや。なんでもない」
「なんだか、あんなに一生懸命に準備したのに、もう終わっちゃうんですね……」
 吹きぬけた風が酷く寒そうで、学校では絶対に寄らない距離にそっと腰をおろした。
「いいんですか」
「誰も気にしちゃいない」
「……うん」
 それからなぜか二人ともずっと口を閉ざしたままだった。
 学校、という困った場所ではあったけれど、暮れていく陽の光を、濃さを増していく藍色の空を、黙って見ていたかったのかも知れない。二人で。
 九月の太陽はあっという間に落ちていき、空は瞬く間に闇の帳に閉ざされる。
 そんな短い間でも側にいられたという充足感は何物にも代えがたい、満足。これが恋をしたと言うことなのだな、と普段だったら照れくさくて考えもしないようなことを素直に思う自分がいる。
 暗くなった校庭のわずかな明かりを頼りにして、係りの生徒たちがキャンプファイヤーの形に組み上げた薪の下へ集まっていく。
 ざわめきがひときわ高くなった。
 と。一斉に全ての照明が消え、ただひとつ松明だけが灯る。
 それさえ離れたここまでは照らさない。近づいてこなければここに二人で居るのなんて誰にも分りはしないだろう。
 そっと、高遠の手に触れ、指を絡ませ。つながる手指の温かさにずきりと胸が痛む。
「先生……いいの?」
 問う唇を反対の指で軽く押さえれば微かに肯く気配。
 それを確かめては綺麗な髪を一度、梳いた。切ないとも嬉しいとも取れる、ため息。たぶんその両方なのだろう。
 キャンプファイヤーにはちりちりと火がつき始めつつあった。
 スーツの内に指を滑らせ小さな封筒を取り出しては、つないだ手に握らせる。
 高遠がそれをポケットにしまったのを確かめ、手を離す。互いの指が名残惜しげに指先で絡まっては、離れた。
 そのとき不意に炎が燃え上がり辺りは煌々とした光に包まれ、歓声が上がる。
 くすり、高遠が笑い私たちは顔を見合わせて改めて笑った。
 二週間後の十月一日、高遠は当然のようにそれを襟に飾って現れ、やはり当然のように新田にからかわれていた。

 嬉しげに見詰めてくる瞳。さりげなく追いかけてくる、視線。わずかな、微笑。そんな全てに高遠の満足が伝わってくる。
「今はいい。これで充分」
 そんな。だからこそもっと、そう願ってしまう。
 私が教師と言うモラルを破る気がない以上どうすることも出来ない、願い。
 それでも、いやだからこそ、もっと。
 十月の冷たい雨が庭の野ばらの葉を叩いている。もうすぐあのばらの葉も落ちきってしまうだろう。
「……走りに行くか」
 雨の夜。
 決して楽しんで走れる状態じゃ、ない。けれどこのまま家でじっとしていたら何かに押しつぶされてしまいそうだった。
 自宅からもっとも手近な箱根の山を一晩中、走り続けた。全速で駆け上がり、全開で駆け下りる。エンジンの唸り、タイヤの泣き声。
 雨に取られた車が滑っては幾度となくひやりとする。
 幾分気がまぎれた頃、白々と夜が開け始めていた。小さくひとつため息をつき、私は再び走り出す。今度は家路をたどるために。
 さすがにこんな気分でも、いやだからこそ警察の厄介にはなりたくなかったから、のんびりと制限速度で湘南の海岸線を走った。
 朝陽を浴びた海がなんとも言えず綺麗でふと、車を止める。こんな海と景色を眺めるのは久しぶりなほどのこの鮮やかさ。
 夜中降り続いた雨の所為かもしれない。
 愛車をあとに砂浜に降りてみればこれも心地よかった。雨と潮に洗われた砂の感触。
 鮮烈な朝の風が髪をなぶるのに任せたまま、ポケットのくしゃくしゃになりかけた煙草に火をつける。
 かちり、ライターの音がやけに響く。オイルライター独特の匂いが好きだった。
「伯父貴だったらどうする……?」
 思わず呟いたのはライターの所為。
 伯父貴が誕生日にくれたものだったから。煙草を覚えたのは決して褒められたことでも公言できることでもなかったけれど、十七の時だった。
 伯父貴にはすぐばれたのに両親は気づかなかった。黙認していただけかもしれない。
「外では吸うなよ」
 にやりと笑いただそれだけを言ったのだ。
 それは両親になじめなかった私への気遣いだったのかもしれない。
 『幼い頃は離れて暮らしたけれどそんなことを感じさせない良い子』を演じるのはまだ子供だった私には随分きついことだったから。
 だからこそ伯父はいたずら半分、私にそのライターをくれたのだ。十九の誕生日に。
 私を大事に思ってくれる、という意味では両親だってその通りではあったけれど、心底『息子』として愛してくれたのはむしろ伯父の方だった。
 だからこんな時に思い出す。伯父は幸せだったけれどつらい恋をしていた。その所為かもしれない。
 十月の朝の冷たい風に凍えそうになって、私はようやく海辺を後にする。
 ため息混じり振り向いた海はやっぱり綺麗で、なんだか懐かしい色をしていた。

 だいぶ軽くなったとは言え今日は日曜日。一日高遠の顔を見ないと思えば気持ちの明るくなろうはずもない。
 車を降りて玄関に向かいながらも、体は疲れているのに気持ちだけが妙に高ぶり苛ついて、とても眠れそうな気分じゃなかった。
 いっこうに晴れない鬱屈を抱えたまま、門をくぐる。
「……高遠」
 古寂びた玄関の前、濡れた体を震わせたその姿。
「先生」
 力なく、笑う。淋しそうに、つらそうに。
「ずっと待ってたのか?」
 小さく肯くその愛おしさ。
「雨の中?」
「……うん」
 それ以上何も言えなくて黙ったままそうっとただ抱きしめた。
「先生……」
「話は家の中。まず着替えないと風邪引かせちまう」
「うん」
 このままずっと抱いていたいのを無理に引き剥がせば、やはり同じような顔をした高遠。
 廊下に上がりかければふと、袖を引かれた。
「先生」
「……ん?」
「ひとつ、訊いていい?」
 不安げな瞳に肯けば、瞳のままの口調で訊いて来た。
「どこ……行ってたの?」
 思わずほころんでしまう口元をどうしたらいいのだろう。
「なんで笑うの」
「いや……妬いてるのか?」
 まだ濡れたままの髪を指で梳けばふいとあらぬ方に視線を泳がす。
「車転がすの趣味だ、とは言ったよな? 箱根の山、走ってた」
「一晩中?」
「そう、一晩中」
「雨だって……降ってたのに」
「……少し苛々してて、何も考えないで走りたかった。信じないか?」
「……信じる」
 疑ったのが恥ずかしいのか、ほんのりと目元を染めてそう、高遠は言った。
 信じてもらえる要素なんて何一つありはしないのにそう言ってくれた高遠が、何にも増して大切で、その高遠をこんなに苦しめている自分が誰より嫌いだった。
「まずは着替えないとな」
「うん」
 そう小さく肯いて私の後ろについてきたのだった。

「ほら」
「え……」
「どうした?」
「だってこれ、パジャマ」
「……だから?」
「だって、パジャマじゃ帰れない……」
「帰る気なのか? 今から?」
「……いいの?」
「いいも何も今から送っていったら立派な朝帰りだぞ」
「あ……」
 パジャマを腕に抱きしめて真っ赤になる高遠というのはなんだかすごくエロチックですらあった。
「何もしないで朝帰りなんてさせられるか」
 思わずそんなことを言いかけてしまう。もちろん思いとどまりはしたけれど。
「着替えてこい」
 実際に言ったのはそんな色気のないせりふだった。
 高遠が着替えている間に自分も着替え、ついでに暖かい飲み物でも用意する。
 自分用には濃い目のコーヒー。高遠にはミルク多目のカフェオレ。
 ことりとテーブルに置いた頃おずおずと高遠が戻ってきた。
 そのままぺたりと定位置に座る。夏休みの間ずっと座っていた私の右隣。高遠の位置。そう言えることが何だか嬉しくて同じくらい、いやそれ以上につらい。
「髪も拭いてきたか?」
「うん」
 そっとカップを押しやればありがとう、小さく呟いて熱いカフェオレを手に取った。
「先生、眼鏡は?」
 言われてようやく気がついた。
 眼鏡のない顔を高遠に見せるのは初めてだった。普段はかけずにいるから。素顔を見られた照れくささに知らず片手で頬の辺りをさすっていた。
「伊達眼鏡だ。いつもかけてるわけじゃない」
「知らなかった……」
「ん……目を見られるのが苦手なんだよ」
 つい、もれてしまった苦笑に高遠が顔を曇らせる。
 眼鏡をかけているには二つ、理由がある。ひとつは兄と似ていると言われたくないがため。もうひとつは些細とは言い切れない、ちょっと珍しい理由だった。
「あ、じゃあ」
「いい。お前ならかまわない」
「……うん」
 嬉しそうな、顔。こんな顔をいつも見ていたい。
 たぶん私がなぜ伊達眼鏡をかけているのか知っても高遠は驚かずにいてくれるに違いない。そう、思う。
「このほうが、すき」
 少し俯き、視線をそらせそんなことを呟いてくれる。愛しさ、嬉しさにそっと髪を梳いた。
「……それで、どうしたんだ」
「……ん」
 しばらくはそのまま。
 思ったことを素直に口に出来る子じゃなかったから。二人黙ったままそれぞれのカップを手にして。
「急に、会いたくて」
「それだけか?」
 とてもそれだけには思えなかった。
 信じがたいほど自分の感情を抑制してしまう、それが高遠だから。
 もっと感情をぶつけてきてもいいのに、そう思うほどに。




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