温かい兄の手に、なぜか子供に返ってしまったかのような安堵を覚える。それだけ心が疲れているのだな、と思えば情けないような気恥ずかしさだった。そんな私の耳にふいに声が届く。 「先生?」 甘い呼び声が聞こえた。 「高遠……どうした?」 「あ……」 どうしていいか分らない、そんな顔をされてようやく右手をハルに取られたままだと言うことに気づく。 「離せよ。ハル」 振りほどくのも妙でさも嫌そうに言えばにやりとされた。 「俺の生徒。高三の高遠」 「はじめまして。高遠です」 いまだこわばった表情のまま高遠は言う。これじゃ兄に不眠の原因はばれたも同然だった。 「前に話したろ? 兄だ」 それでふっとこわばりが解けていく。 素直さに困ったものだと思いつつ、こんな所で会えたのが嬉しかった。 「はじめまして。これの兄の春樹と言います。高遠君は受験生?」 「あ、はい」 「じゃあ大変な時期だ。かんばってね。ハル、私はそろそろ行くから……薬、医局に用意しとく。後で寄れよ」 「ああ……その」 「礼の言葉なんぞ言ってくれるなよ。気持ち悪い」 「酷い言われようだな」 高らかな笑い声を上げ、いつものことじゃないかとまた笑った。 「大体、治せるのは私じゃあなさそうだ。な?」 じゃあ、片手を上げて案の定見透かされて言葉もない私に背を向けて歩いて行ってしまう。 「先生?」 「あ、いや……どうした? こんな所で。具合でも悪いのか?」 ハルがいなくなってようやく完全にこわばりの取れた高遠がいつものような少し困った笑顔で私を見上げていた。 「父の友達が入院してるんです。急に父がこれなくなっちゃったんで……お使いです」 それより、と高遠は続ける。 「先生こそ……どこか? お兄さんさっき薬って」 「いや。たいした事じゃないよ」 まさかお前を想って寝れないなんてことが言えるわけもない。 たぶん高遠だってつらいに違いない。 あれから本当に何事もなくただの教師と生徒として、少しばかり親しくはあるけれどやってきている。 相変わらず先生、高遠、そう呼び合いながら。 それでも少し高遠はやせた。成長期の少年のやせ方ではなくてむしろそれはやつれたと言ってもいいほどに。 「これから帰るのか?」 「はい」 「……送ってやるよ。車で来てるから」 今日は朝から少し走りたい気分で、実は内緒で病院まで車で来ていたのだった。 思わぬ幸運、というヤツかもしれない。 さすがに学校では意識しすぎてお互いに寛いで話すことも出来なかったから。 ふわり、笑み崩れる高遠の笑顔に久しぶりに幸せを感じていた。 「病院の駐車場に止めてある。先乗ってろよ」 キーを渡せば満面に笑みを浮かべて走り出していく背中。体中が喜びに跳ね回っているようでそれはまさに小動物のよう。 そんな高遠を見ているのが好きだった。 「先生?」 「ん?」 「仲、いいんですね。お兄さんと」 なんだか久しぶりのドライブにセブンのロータリーサウンドが心地よく鳴いている。 普段運転するときははずしている眼鏡も高遠の前ではずす気はなく、少し鬱陶しい。 「子供の頃、離れて暮らしてたからな。その所為だろ」 「え、あ。ごめんなさい」 「いいよ。別に。年子の姉がいて彼女が五歳のときだったかな。大きな病気してね。さすがに男の子二人の面倒見ながら看病はつらかったんだろ。私が伯父の所に預けられて結局居着いちゃって、実家に戻ったのが中学のときだから」 「それまでずっと会ってなかったの?」 なにもお前がそんなに悲しそうな顔しなくたっていいのに、そう思う。 運転しながら視界の端で見ているのが、楽しい。 「いや。学校は一緒だったし……うちの小学部な?」 「先生、もしかして純粋培養?」 「なんだ、その純粋培養ってのは」 意味は充分理解しつつ、それでも苦笑がもれる。 なんだかその言い方がとても可愛くて。 「だってうち、小学部も男子校じゃないですか」 「そうだな……高校まで十二年、ずっと男ばっか、か。改めて言うとなんかげんなりするな」 思わず笑ってしまった。 確かにこれでまともな人格が出来ると信じている理事長はどうかしている。 「そう言えばもう文化祭ですね」 「ん?」 「ほら……年に一度文化祭の日だけじゃないですか。女の子が校内にいるのって」 「楽しみか?」 ついからかってしまえば刺さるような視線を感じる。 運転の合間にちらりと見れば恨みがましげに拗ねていた。 「意地悪言わないでくださいっ」 ぷいっとあらぬ方を見やった態度の好もしさ。可愛らしくてそっと手を伸ばしては軽く、髪を梳いた。 父兄や関係者だけに公開される土曜日と違って今日はよそよそしい中にも異様な活気に包まれている。 文化祭二日目、一般公開日だった。 夕方からは後夜祭がある。こちらは校内の、それも高等部の生徒と教師だけのイベント。 陽が落ちれば肌寒いほどの秋の夜空にキャンプファイヤーが綺麗に映えることだろう。 それに個人的な楽しみも、あった。 キャンプファイヤーが点火される少し前、効果をあげるためにかすべての照明が消される。 そのとき想う人にピンブローチを渡す、という奇妙な習慣があるのだ。 いつからかは私も知らない。 私自身在校中にそうされた事もあったくらいだから相当古い習慣であることは間違いなかった。 「本来は普段世話になっている友人連中に照れて言えない感謝の気持ちを形にするんだ」 先輩からは、そう聞いているが私の時にも既にそれは有名無実化していたし、半月ばかりの後、冬服に変わった時に相手がそれをブレザーの襟に飾っていたら、想いは受け入れられた、と言うことにもなる、らしい。つまり襟飾りなのだからピンブローチと言うよりはラペルピンだろう。 そればかりは受け入れたことがないので飾ったこともなくよくは分らない。 スーツの内ポケットの中、手のひらに包み込めるほどの小さな封筒がある。 綺麗な緑の濃い翡翠を卵型にカットして金細工で羽をつけた、さしずめ天使の卵。それをこれもまた小さなカードに刺して。カードにはただ。 ――翡翠へ それだけ。たぶん、気づいてくれるだろう。なにも言えない、どうしようも出来ない私の、想いに。 待たせている、つらさに。 せめて形をやりたかった。それでも。署名をしない自分の姑息さに気分が悪い。 小さなあくびをかみ殺し、一向に治らない不眠症にひとつ、ため息をついた。高遠が卒業するまで不眠には祟られそうだった。 こんな日は教師も浮かれるのかあちこちで生徒と笑いさざめいているのが見える。 私自身のんびりと各教室の展示物を見て回ったり模擬店に顔を出したりして遊んでいるくらいだ。 こんな所は昔と変わらないな、そう思うとなんとなく微笑ましい。 受験戦争なんて言われる昨今の風潮からかけ離れて見えるこの学校ですら私が在籍していたときから比べれば随分ぎすぎすとして見えるのに、文化祭でこうして楽しんでいる姿はやはり子供と大人の間を行き来する……なんと言うか人間ではないもっと綺麗な生き物みたいだ。 「たーんにんっ!」 振り返るまでもない。そんな妙な呼び方をするのは新田以外にいない。 「ヒマそうじゃん。担任さ。一緒まわらない?」 無論、というか新田の後ろで高遠が照れ臭げに笑っていた。 これで友情に厚い新田は気を利かせたつもりか――もちろん高遠に、だ――一歩先に立って歩き出す。 「先生……いいんですか」 「ああ。時間も空いてるし、な」 さすがに校内ではきちんとした口調を崩さない。そんなところが好もしくもあり、また早く枷をはずしてしまいたいとも思わせる。 八つ当たりのいたずらに前を歩く新田の耳にぼそり、呟いた。 「四條。ほっといていいのか」 とたん、新田が視界から消える。どうやらけっつまづいたらしい。 「たっ担任ッ。な……なんてこと言うんだよッ」 振り向きざまにののしる言葉も赤くなっていちゃ威力半減。なんだコイツもこんな可愛い所があるのか、そう思ってはつい吹き出してしまった。 「……ッたく教師の癖になんてこと言ってそそのかすんだか。遥は生徒会の用で忙しいのっ」 「それでかまってもらえないわけか。可哀想に」 「言い返すな。不良教師め」 「生徒のくせに口が悪い」 「高遠、高遠」 くすくすとやりとりを見て笑っていた高遠をふ、と新田は呼び、なにをするのかと思うほどもなく。 突然新田は高遠を抱きすくめた。 「新田っ! なにすんだよ」 「高遠、友達だろ。ちょっと我慢しろよ」 そう言ったかと思うとへへ、と笑いどうだうらやましいかと言わんばかりに見返してくる。 思わず新田の頭を殴ってしまった。軽く、ではあったけれど、拳固、で。 「ってぇ。暴力反対ーっ」 「高遠が嫌がってるのに無理強いするからだ」 あえて高遠が、に力を入れて言わなければならないのが少し寂しい。 と、スーツの裾を小さな子供に引かれる気配。 「おとーしゃん」 慌てて目をやればそこに見上げてくる二歳ばかりの幼児。 「ああ。どうした夏樹。こんなとこ来て」 ひょいと抱き上げればきゃっきゃと喜んでは髪をいたずらされてしまう。 「担任、結婚してたっけ?」 「せ……んせ?」 新田に白い目で見られるのは一向に構わなかったけれど、高遠にまでそんな目で見られちゃたまらない。 「馬鹿、私の子じゃない。ハルの子だよ」 新田にからかわれるのが少し悔しくて高遠にだけ分るように言えば新田のほうが怪訝な顔をする。 「先生のお兄さんが春樹さんて言うんだよ」 それに高遠が説明を加える。 「にしちゃ似すぎじゃん。担任とその子」 「先生とお兄さん双子だもん」 ね? と言わんばかりに見上げてくるのがなんて可愛いのか。思わずこちらの頬も緩んでは肯いた。 「そうか、それでお父さん、なのか。てっきり隠し子かと思ったね」 言い返そうと息を吸い込んだとたん、ぽんと背後から肩を叩かれた。 「ああ、よかった。迷子かと思ったよ」 さらり、長めの髪をかきあげて安堵のため息をつきながらハルがそこにいた。 「立派な迷子だ。二歳にもならない幼児を放し飼いにするんじゃない」 「いいじゃないか。お前に会えたんだし」 「よくない、全然」 「ま、いいや。教頭先生がこの子に会いたいって言ってるから連れてくよ」 「……何のために放したんだよ」 「人の子、獣みたく言わないでくれる? ハルがここにいるよって言ったら探しに行っちゃったんだからしょうがないじゃん。じゃあね」 と、人の手から息子を取り返し高遠に手を振りつつ行ってしまった。 「……台風か、あいつは」 「似てるって言うか、似てないって言うか」 新田までが毒に当てられた様に頭を抱えてしまっている。 三人で顔を見合わせたそのとき、放送が入った。 部外者の退去を求める、文化祭終了時刻の放送だった。 「……結局どこも見れませんでしたね」 くすり、高遠はどこか淋しげに、笑った。 |