いつの間にかさらさらと雨が降っている。
 夏の雨はそれだけで随分と熱気を奪っていくけれど、その後になって特別暑くなる。けれど今日はそんな心配は要らないらしい。見れば日は暮れて久しかった。
「ああ、すまん。遅くなるな」
「あ……ごめんなさい、夢中になっちゃって」
 顔を上げた高遠が申し訳なさそうに微笑んではそう言う。
 授業、講義、補習。そう言ったものに時間を忘れるほどのめりこんでくれる生徒がいる。それは教師としてどんなに幸せなことか。
「お父さんは? 今日」
「今日は夜勤で遅いんです」
 高遠はこんなにあっさり素直に育っているものだから見逃しがちなことではあるけれど、父子家庭だった。
 片親だからと言って皆が皆ゆがんでしまうわけではないだろうが、それだけこの子はまっすぐ育っている、ということだ。
 惚れた欲目ではなく。決して。
 そして父親は公務員で、公務員と言う響きからは意外なことに勤務は不規則で、朝早く家を出るときもあれば夕方になって出かけることもある。夕方帰ってくるときもあれば朝早く……つまり前の晩から仕事をして、帰ってくることもある。そんな仕事をしていた。
 一応は父親も寮に入ることを進めたらしいのだけれど、自分のことは自分で出来る、そう言って自宅通学を続けているそうだ。
「じゃあ、夕食は一人か……」
「はい、でも慣れてますし」
 そうは言っても少しだけ寂しそうな、顔。夏休みに浮かれてつい、ちょっかいをかけたくなってしまう。
「飯でも食ってから、送ってこう」
「え。あ、そんな。いいんですか」
「だめなら最初から言わない。嫌か?」
 そんな訳ない、そうかすかな羞恥を頬に言う姿は何物にも替えがたいくらい、貴重だった。

 駐車場から昨年モデルチェンジして発売されたRX-7を引っ張り出す。
 スポーツカーといえば定番はやっぱり赤、かも知れないが私はこの黒のセブンがとても気に入っていたのだ。
 前作に比べ幾分ほっそりとした線の華奢さが消え、代わりに野生の大型猫科獣の獰猛さと美しさが加わっている。とにかく美しい車だった。
 世界中でこのメーカーしか作っていないと言うロータリーエンジンの音がまた……この話をするときりがないくらいだ。
 車ころがすのが好きで、まぁ休みの夜なんかは警察のご厄介にならない程度に、車と遊んでいる。
 つまり、運転には自信がある、という事だ。大好きな車にもっと大好きな高遠を乗せて走れる、その事がひどく私を舞い上がらせていた。
「乗れよ」
 大概のこの年頃の少年が興味を持つように高遠もやっぱり車、というものに興味を持っているらしく目を輝かせては乗り込んだ。
「新田がね、先生の車かっこいいんだって、言ってたんです」
「ん? なんで知ってるんだ、あいつ」
「なんか、休みの日に見たって」
「ああ……日曜に用があると学校まで乗ってくからな」
「結構マニアックな車なんでしょう? 新田はそう言ってたけど」
「マニアック、というほどでもないけど、初心者向けでないことは確かだな。神経質なヤツだから。私は車転がすの好きで乗ってるけど」
 思わず苦笑してしまう。事実、神経質なんてものではないのだ、この車は。
 普通にスタートさせたってノッキングするわ、ロータリー独特の高回転域の所為でピーキーだわ、なにせ腕が悪ければ曲がれるはずのコーナーも曲がってくれない、と言うくらいだ。
 人によってはオートマよりマニュアルのほうがまだ乗りやすいとこぼしもする。それでも前作よりはだいぶ扱いやすくなったと思う。
 そもそもそれ自体がかなり無謀なことだったけれど、免許を取って以来セブンに乗り続けている私にとっては。
 大体この車を愛してきた人間はそんなことは気にしちゃいないのだ。少しも。美しいロータリーサウンドとその孤高の精神、それを愛してきた。
「新田が一度乗せてくれないかなって」
 あんまり楽しげに新田新田言うものだから意地悪をしたくなる。
 高遠があえて自分の話題に触れたがらなかった、ということには気づきもせずに。
「新田のこと、大好きなんだな。高遠は」
「……友達、ですから」
 すぅっと目を伏せ、そして上げては私を見つめる高遠の視線をどう解釈するべきだろう。
 解釈なんてひとつしかしようがなかった。紛れもなく。
「先生……好きって言ったら、怒りますか?」
 黙るしかなかった。望んでいたことなのに。教師と言う鎖にがんじがらめにされた私は、黙るしかなかった。
 口を開いたのはそれから随分経ってからだったと思う。
「……どうも、出来ないぞ」
「先生、だから?」
「ああ」
「だからやめとけってね……それこそ新田に何度も言われてるんです」
 視界の端に映った姿は自嘲の笑みを浮かべているかと思いきや、なぜかさっぱり明るかった。
「それでも、好きなんです」
 じっと見詰めて来る目に応えたいのに、応えられない。
 今ほど教師を止めてしまいたいと思ったことはなかった。そうすれば、思っていることが言えるのに。
「先生」
「ん」
「卒業するまで待っててもいい?」
 危うくガードレールに突っ込みはぐれた。ふわりとした笑顔。くだけた言葉。柔らかい色の、目。
 私が何を考えているか知っているとしか思えなかった。
「長いぞ」
「うん」
「なにも言ってやれないぞ」
「それでも」
「いいのか」
「いい」
「本当に?」
 くすりと笑い高遠は言う。
「しつこいなぁ」
 冗談めかした言葉の向こう、やっぱり私に愛されているのを分っている、そんな自信が見て取れた気がする。
 穏やかな笑顔に本当はくちづけたくて、叶わない願いの代わり高遠の綺麗な髪をくしゃりと撫でた。

 結局何事もなく夏休みが終わってしまった。
 それでいいのだと思いつつ本当は自分がどうしたかったのか分っているだけに、つらい。
 週に一度補習に来ては、真実ただそれだけで高遠は帰っていった。
 夕食だってあの後にもう一度一緒にとっただけ。
 もう少し、もう少し甘えて欲しい。
 それを願うこと自体が残酷なのは充分すぎるほど分ってはいた。
 けれどせめて腕に抱きたい。叶わぬなら側にいるだけでいい。
 そんなことを考えていたなんて分るか、高遠。内心で呼びかけてしまう自分に笑う。
 恋焦がれておかしくなりそうだなんて、知らないんだろう。当然、知って欲しいとは思ってもいなかった。おかげですっかり不眠症だ。
 二学期が始まってだいぶ経つけれど、一向に治る気配がない。
 体が生活に順応しても気持ちがついていけないのだ。
 高遠だけをただひたすらに求めている、そんな状態が続いている。
 その上夏休みで終わらなかった分と受験用の補習とを今でも週に一度、今度は図書室に場所を移してやっているのだ。
 いくら高遠がかんばってみたところで過去の成績は変えられない。
 ということは評定平均値が足らない、と言うこと。つまり内部推薦で大学に行くのは無理だと言うことだ。
 かくなる上は受験してがんばってもらうほかはなく、教師としても一生懸命にならざるを得ない。
 他の生徒ならそれで手に手を取り合って励ましあったって一向にかまわないのだ。
 問題はそれが高遠だ、と言うことだった。
 自習室と言う完全に孤立したいわば密室に二人きり。
 おまけに高遠が自分を想ってくれているのも知っている。
 それを自制しているのだからそれでどうにかならないほうがどうにかしている。
 いいかげん体の限界だった。万が一、倒れでもして高遠に心配をかけたりしたくない。それ以上に無様をさらしたくない。
 そんな追い詰められた時に来たい病院ではないのだけれどこの際仕方ない。
 とにかく今はごちゃごちゃ言われずに睡眠薬が欲しい。
 となれば紅葉坂大学付属病院しかなかった。ここには兄が勤めている。

「あぁあ。酷い顔して」
 医局に入っていくなり、兄・春樹が呟いた。
 まるで子供にするようにおいでおいでをし――実際にそうも言った。来年には三十になる大人にやる仕種か、それは――驚く間もなく両手で頬を包まれてしまった。
「離せよ、ハル」
「酷い顔してる」
「さっき聞いた」
 少し困った顔をしてハルは首をかしげる。
 ハル。それはお互いが相手を呼ぶ時にだけ許してきた呼び名。
 春樹と春真。確かに互いに呼び合う分には混乱がなくていい。一卵性の双子。本来まったく同じはずの顔なのになぜかハルは華奢ではかなげだ。
 肩すれすれにまで伸ばされた医者にあるまじき髪型の所為かもしれない。
 サイドで分けられたその姿が妙に少女めいていたから。けれどすんなりとした黒髪、という意味では同じ物。
 ハルはそれを伸ばし私は短くしている。それだけ。ハルと同じ顔、そう言われたくなくて眼鏡をかけ始めたのはいつの日だったか。
「少し歩こうか」
 そう言って彼は私の腕を取っては歩き出した。
「離せよ」
「いいじゃないか、減るものじゃなし」
 嬉々として中庭へ歩いていくのをある種の諦めを持って受け入れる。
 私とハルと決定的に違うのは何よりその相手に触れたがるという癖。ブラコン、と言ってもいいほどハルは私に触れるのを好んでいた。
 子供の頃、事情があって離れて暮らした所為かもしれない。
 中庭は夏の光にあふれている。睡眠を奪われた私の目には痛いほどに。
 この病院は名前の通り紅葉坂学園の施設、機関のひとつで建物自体も隣接している。
 場所の都合か大学部のすぐ横ではなく高等部の、横。今も部活動に励む生徒たちの声がわーんと言う音になって聞こえていた。
「どうした、とは訊かない。なにが欲しい? ハル?」
「ごめん……寝れないんだ」
「そうか」
 完全ないたわりと、慰め。
 なにも言わなくても私の痛みを感じてくれるかのように。双子独特の感覚かもしれなかった。
 いい年した男二人が手をつないで歩いていると言うのも妙なものだけどなんだか今はそれが安心させてくれる。
 人々は見慣れたものか、驚きもしない。ぎょっとするのは新しい入院患者さんくらいなもの。
 今はそれを気にしている余裕さえ、なかった。
「たまにはうち、帰って来れば?」
「こんな顔じゃおふくろに心配かけちまうよ」
「ま、心配させるのも孝行のうちさ」
 そうは言われても子供の頃に他人に――とは言え身内の、今住んでいる家の元の持ち主である伯父にではあるけれど――預けられた身としては家族、という存在は少し、なじみにくい。
 血の情愛を感じるのはこの兄だけと言ってもいい。私は双子の所為にしているけれど、それだけハルが離れて育った私に心を砕いてくれたのかもしれなかった。
 やさしくて突拍子もなくていい加減で不器用な上、常識人の皮を被った変人の兄。それでも私を誰より慈しんでくれたのは同じ年の彼だった。




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