講義を続けようとした私の目の前で、高遠の表情が変化する。一瞬前のあの得意げな笑みはすっかり消え、ほんのり染めた目元が綺麗で困ってしまう。
 何かを言いたそうに口ごもり、それからちらりと見上げてくる。
「あの、隣、来て貰えませんか。ちょっと遠くて」
 言われて初めて気がついた。大きなテーブルは講義をするにはちょっと遠い。参考書を指差すのでも身を乗り出すようになってしまう。
 まぁ、好都合、というヤツか。高遠にそんなにも照れられるとなんだか随分と悪いことをしている気になる。それも悪くない。
「ああ、悪い」
 そう高遠の左に腰を下ろした。ひとつの本を二人で覗き込んでいるのが少し、楽しい。
 高遠が見やすいよう、左手に持ったペンで、あちこちとポイントを指していった。その手を見やり高遠が小さく言った。
「先生、やりにくくないですか?」
「ん、なにが?」
「左手で、ペン持って……大丈夫ですから、僕なら」
 思わぬ気遣いにふと笑みが浮かんでしまう。申し訳なさそうに見上げてくる高遠を抱きしめてしまいたかった。
「左利きだ。気にするな」
 言えばやっぱりその瞬間、表情が変わる。今度は驚きに。
「え。だって授業中も、その……箸だって右手使ってるじゃないですか」
「よく、見てるな」
 苦笑がもれる。自分が見ているのは当然としても高遠からそんなに見られているとは思いもしなかったから。
 見れば高遠は耳まで赤くなっていて、それで知ったのだ。その事実を私に言うつもりの微塵もなかったことを。ただ自分の中だけで見ていたかったのかも知れない。
 私は、期待してもいいのだろうか。
「子供の頃になおされたから、どっちも使えるんだ。ただ、はさみと包丁だけはだめだな。今でも」
「また、きっと知らないのって僕だけなんでしょうね」
 どうやら鈍い、という自覚はあるらしい。そんなことが妙におかしい。
「そうでもないんじゃないか。自分の利き手がどっちなんて言って周る必要もないしな」
 あえてそう言ったのが、解ってくれるだろうか。
「誰も知らない?」
 どうやら解ってくれたらしい。少し拗ねた様な笑みと甘えた声に問われて、強い酒に酔った気分だ。
「……たぶんな」
 思わず目を細めては見詰めてしまう。
 見詰めればさあっと紅を刷いたかに耳元が赤くなっていく。
 それはなんとも綺麗で期待を確信に変えてくれと言っているかのよう。
 それは私自身の大いなる勘違いだということも、分ってはいるのだけれど。

 夕方の淡い闇の中、帰って行った高遠の面影を追っている自分がいる。
 開け放したままの窓から流れ込んでくる風と、光。電気さえつけることをせずにいたのは必要がなかったから。
 高遠の影が目を閉じずとも柔らかく輝いている。まるで少年の頃の初めての恋のようだ、そんな苦笑さえ甘い。
 男子校育ちで偏見は持っていないとは言うものの、当時から同性にそんな目で見られるのを嫌悪していたはずなのに、今はこうして高遠を望んでいる。
 不思議なものだった。それが恋、というものかもしれない。

 一週間が驚くほど長くて、短い。子供みたいだ。
 まずは中古代文学の物語と和歌をざっと済ませてしまう。本来はそんなに流してしまえる分野ではないのだけれど、この際は仕方ない。
 大体源氏物語なんていうのは女好みの小説で、どうにも我々男性には理解しがたい。
 香がどうとか、色がどうとか、結局千年経っても女という生き物の好みは変わらないらしい。
「ま、文学史だからな。理解するほど読み込まなくてもいいか」
「んー。なんか、ぴんと来ないんですよね。紫式部はなにがしたかったのかなって」
 わずかに寄せた眉。理解できないことが不満でしょうがない、そんな顔。幼い傲慢が私をわしづかみにしていく。
「個人的には彼女はああいう生き方をしたかったのかな、と思ってるよ。貴公子にちやほやされる身分高い女性、そんな夢を見てたのかもしれない」
「でも……受領の娘でしょう? あまり身分高い、とは……」
 さりげなく言う言葉にちゃんと予習してきた知識が感じられて、純粋に教師としても、嬉しい。
 それ以上に私に近づくためにそれだけの勉強をしているのかと思えば、たまらなかった。
 思わず口元に笑みが浮かびそうで、眼鏡を上げるふりをして表情を隠した。
「ん、だから私としては明石の上が彼女自身の理想だったんじゃないかと思うな。決して高くない身分で源氏という貴公子に愛されて中宮の生みの母になる。いわばシンデレラ、だろう?」
「あ、そうか……そう言う見方も出来ますよね」
 莞爾とする高遠に教師としての理性さえ奪われてしまいそうで、それを保つのに一苦労する。
 そんな時間が楽しいというのもまた、不思議と言えば不思議だ。
「和歌はね、まだ理解できなくはないんですよ。古今集とか」
「普通は和歌の方がよく分らないっていうんだがな」
 そうなんですか、そう少し上目遣いの目で訊ねて来た。
 そうだよ、そう肯いて見せる私はきっと学校でなんか見せたことのないほどやさしい顔をしていたに違いない。
「そう言えば一学期にやった水野琥珀、いるだろう?」
「はい」
「彼は古今集が好みで……と言うよりあの柔らかさが好きだったんだろうな、随分参考にもしたみたいだよ」
「やっぱり!」
 子供の仕種でぱちり、手を叩く。国語が苦手でもその勘の良さは褒めたいところだ。
「僕もきっと琥珀の歌に魅せられた一人なんでしょうね……」
「どれが好きだ? 一番」
「え……」
 さぁっと上気していくのを見るのが好きだった。
 答えにくいのは充分承知。それでも訊いたのはそんな風にちょっといじめてみたかったから。悪い教師だ、胸のうちで私は苦笑した。
「あの……」
「ま、琥珀の歌は全部恋歌だからな。答えにくいだろうね。……でも聞いてみたいよ」
 いたいけな少年にそれと気づかせず好き、を言わせたいのかもしれない。
「……梅の実の歌が、好きです」
「梅の実、と言うと?」
 ずるい、そんな目で高遠に睨まれた。その通り。大人はずるいんだよ。なにせ私は琥珀の歌はすべて暗誦している。大学の卒論も琥珀だったし、今でも琥珀の研究をしていることは高遠だってたぶん、知っているはず。
「……君がため摘みあつめてし梅の実の」
「清雅の香りわが身に残る? また随分と色っぽい」
 くすりと笑い隣を覗けば、真っ赤になった高遠にじゃれつくように叩かれる。
「やっぱり分ってるんじゃないですかっ!」
「そんなに怒るなよ」
「怒りますよっ」
 再び叩きに来た手を難なくつかみ苦笑する。
 このまま抱き寄せたい、そう思って。
「もう、酷いですよ。……そうだ、なんで色っぽいんです?」
「え、だって色っぽいだろ?」
「新田もそう言うんですけど。どこが? と思って」
「ああ……」
 忘れてた。ただでさえ鈍い子だけれど、ことのほか色恋には鈍いのを。
「だからな」
 解説しようとしてわずかな疲労を覚えてしまう。これじゃあ好きだと言わせようとして自分が白状してしまいそうだ。わざとやられている気さえする。
「だから……集めた梅の実、もちろん青梅じゃないぞ。梅酒漬けるんじゃないんだから。その黄色く熟れていい匂いのする梅の実の香りを琥珀の想い人は好んだわけだ。で、それを摘んで集めた琥珀にも移り香がしてる。あの人が愛でている梅と同じ香りが自分にもしていて……色っぽくないか?」
「んー。あ、なんとなく?」
 ため息さえつきそうな徒労感だ。
「あのな、高遠。移り香ってどういう時にするか、分るか」
「え……」
 いきなり赤面したから、今度は分ったようだ。ほんと、疲れる。
「そ。たとえば香水をつけた人と一夜を過ごした場合なんかだろ」
「せッ先生っ」
「事実は事実。だから結句があえてわが身に残る、なんだよ。わが身に移る、じゃなくてな」
「うわ……っ」
 健全な青少年には少し刺激がきつかったらしい。
 そんなことを聞かれる私の立場にもなってみろ、そう言うことでよしとしよう。
「新田、酷いんですよ」
「なにされたッ」
「え……?」
「あ、いや……どうした?」
 思わず動揺してしまった。
 確かに新田はこれからまだまだいい男になる要素を含んでいるし、大体高遠と一番親しいのも新田。むしろ校内ではほとんど一緒にいるといっても言いすぎじゃあない。
 嫉妬のあまり動揺したって少しくらいは許されると言うものだ。若干、大人としてそれはいささか情けなくはないか、と思いはするが。
「この前遊びに行く約束してたんですよ。それなのに前の日になっていきなり明日、遥と約束しちゃったからって」
「遥……ああ、四條か」
「先生ってもしかして生徒の名前、フルネームでみんな覚えてるんですか」
「そんなわけないだろ」
「……ですよね。四條可愛いし」
 なんて誤解をしてくれるんだか。
「学園始まって以来の美少年なんて言われてるらしいな」
「そう思います?」
「いや……私が学生の時にもそうやって言われてたのはいるし」
「あ、先生も卒業生でしたっけ」
「そう」
「ん、四條とどっちが……って変なこと訊いてるな。僕」
 すっと目をそらす。それから自嘲的な、笑み。それは嫉妬かもしれない。私が四條に興味を持っていると誤解して。胸の高鳴りが抑えがたかった。
「さあな。片方は身内だし」
「え」
「私のときに言われてたのは兄貴でね。とは言っても双子だけど」
「二卵性の?」
「いや」
「じゃあ……」
「雰囲気の問題だろ。大体あんなのは好みの問題」
「……でも四條。やっぱ、可愛いし」
 お前のほうが可愛い、そう言いたいのを喉元でぐっとこらえて言葉を探せばそれより先に高遠が口を開く。
「新田……四條と?」
「こら、教師にそんな事言うんじゃない」
 当たり前ではあるけれど、そう言う事実があった場合は双方とも退学、というのが校則。無論教師の場合は免職だ。
「あ……」
「知ってるからいいけどな」
「……っ、そうなんですかっ?」
 自分は知らなかったのに、そんな見当違いの非難めいた口調。
 いくら惚れてたってお前の鈍さと一緒にして欲しくはないぞ、私は。
「だって、有名だろ。あれだけ荒れてた新田が四條と会って落ちついたんだから、まぁいいんじゃないか。それはそれで」
「……うん」
「これから先も一緒に生きてくつもりなら……大変だろうけど、な」
 わずかなためらい。高遠は私になにを訊きたいのだろうか。
「それでも好きって……あると思いますか。先生」
 一瞬ためらったのは今度は私のほう。今、目の前にしている。そう言ったらどんな顔をするだろう。そう、思って。
「……あるだろ」
「本当に?」
 覗きこんで来る目。まるで鼓動が感じられるほど側にいるのに。
 腕の中、倒れこんでくる。そんな幻覚さえ、見えた。重症かもしれない。
「ああ」
 意地悪をしてからかうつもりが、口説かれているのは私の方かもしれない。そんな気がした。
「さ……続きやるよ」
「……はい」
 幾分上ずっていたかも知れない私の声に高遠がわずかに反応したのをあえて、無視した。




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