高遠が突然、職員室を訪れたことにまず驚かされた。生徒なのだから職員室に来るくらい別にたいしたことでもないだろうに、なぜか私は酷く動揺したのだ。 「国文学部を受けたいんです」 そしてそれをさらにあおるよう、そんなことを言ったのは夏休みも近い六月の末のことだった。 「今の成績ではちょっと難しいと思うが……」 「分ってます。今の僕に出来る限りの勉強はします、だから」 見かけの柔らかさとは裏腹にそう、言い募る。シャツのポケットに刺繍された校章代わりのエンブレムが、なんとしても私を説き伏せようとする興奮にか、揺れている。 半そでのシャツのボタンをきちんと上まで留め、几帳面にネクタイを結んだ姿は紛れも無く優等生のもの。優等生だからと言ってすべての成績がいいとは限らないけれど、どういう訳か国語の成績だけが芳しくない。とは言え、中の上、と言ったところか。 「具体的には?」 「期末試験で上位に入ります」 そう、きっぱりと言ってのけた。 「じゃあ、上位十番以内に入れたら、私も考えてもいい」 言えばふわりと笑顔が浮かぶ。 真正面から飛び切りの笑顔を見る贅沢に胸のうち、喜びが湧き上がる。かすかなため息と共に。 高遠が生徒である以上、恋焦がれたってどうする見込みもない。 同僚の中には上手くやっている人間も居はしたけれど、私には到底まねの出来ようはずもない。 生徒に恋をしておいて「教師の倫理」もへったくれもなかったけれど。 「……それにしてもなぜ、急に?」 もう少し話をしていたくて、そんなことを言って引き止めた。 「笑いませんか」 少しだけ目元を染めて目をそらす。都合のいい誤解をしたくなる顔だった。 「笑わないよ。言ってごらん」 「……先生の授業ではじめて国語が面白いって、思ったんです。だから……今までないがしろにしてたぶん、大学でもっと勉強したくて。……憧れの先生に、追いつきたいんです」 今度は私が真正面から見られる番だった。 そんなことを言ってくれたお前が愛しい、そう言ったらお前は怒るだろうか。 「嬉しいよ。がんばりなさい」 内心の動揺を隠し、今の私が言えたのはそれだけだった。 結局高遠は期末テストでの約束を果たしてしまった。 それも学年トップで。 「なんでいまさら人の席取りやがんだよ、お前は」 新田が毒づく。 事実新田は他は明渡したことはあっても国語の学年トップだけは誰にも譲ったことがなかった。 「いいじゃん。親友がやる気になったんだよ? 喜びなよ」 「大体できるならなんで今まで手ぇ抜いてたんだよ」 もしも他の教師が聞いたなら卒倒しかねない問いかけだ。新田にしたってこつこつ努力を積み重ねているとはとても言いがたい。 「しょうがないじゃん。今までの先生とはそりがあわなかったんだから」 「教師の好き嫌いで勉強すんのかよ、お前」 呆れた物言いで新田が問えば当然だと言いたそうに高遠は肯く。 「水野先生が大好きだから認めて欲しくってがんばるんだよ。なにが悪いわけ」 そう開き直った。 心底嬉しかったけれどやはり教師として慕われているだけかと思えばわずかに落胆もする。 落胆したとたん、その教師の良心とやらがずきずきと痛んで、結局私はどうしたいのか、分らなくなってしまう。 「廊下で大きな声を出さない」 「せっ先生……っ」 まさか二人は後ろから私が歩いてくるとは思ってもみなかったようだ。 「……聞いてました?」 新田にたいしてとは明らかに違う、羞いを含んだかの表情にどきりとしつつ少し、肯いて見せた。 「努力は充分に認めたよ。……ただ、勉強というものは自分のためにするものだ、ということを忘れないようにな」 「つめてーの」 あえて堅物教師ぶって行き過ぎた私の背中に、そう毒づく新田の声が聞こえた。 「先生っ。お願いがあるんです」 息せき切って職員室に高遠が駆け込んできたのは終業式の午後のことだった。 「どうした。高遠」 「あの……」 駆け込んできたのはいいけれど、どうやら他人の目が気になるらしい。 「ああ。これからちょっと会議があるから……そうだな。三十分くらい、待てるか?」 「はい」 「じゃあ、自習室で。いいね」 たいして話し合う議題もない会議で時間を無駄にした後、図書室へ。 いったい何を言ってくるつもりなのか、そう考えるだけでどきどきする。 驚かせないよう開けた自習室のドアの向こう、頼りなげに背中が揺れていた。 「高遠?」 そう声をかけかけて、やめる。 静かな寝息。机にうつぶせて眠る額に、わずかに明るい色をした髪が乱れている。 苦手な国語でいくらやる気になったとは言ってもどれほど努力したものか。 眠る時間を惜しんで勉強したのだろう。たぶん、今でも。私に近づきたい、その一心で。 愛おしさにため息さえついてしまいそうで。効き過ぎたクーラーに風邪を引かぬよう脱いだ上着をそっと肩に着せ掛け、自習室を後にした。 軽やかで、焦ってもいるように駆け上がってくる足音がしたのはそれから小一時間もした頃だった。 「すみませんっ」 そう言って差し出されたジャケットはまだほのかに高遠の体温を残して温かかった。 真っ赤になって頭を下げるその手に握り締めているのは、私が残してきたメモ。 ――二階の専門書を読んでいるから。水野。 それだけを最初書いたのだけれど、随分とそっけなく逆に何かを隠しているようにも自分で思えて、 ――あまり無理をしないように。 そう書き添えた。 「大丈夫か?」 「……はい、すみません」 「いや、私なら大丈夫だから。気にしなくていい」 それで、と促しつつまた地下の自習室へと降りて行く。 「あの……あつかましいとは思うんです」 言ってごらん、それからさらに二回、そう言わなければ高遠は言い出さなかった。 「その、補習を、して欲しいんです」 「いいよ。べつに」 「え、あ……その。夏休みに、でも?」 まさかそうくるとは思いもせず、一瞬息を呑む。 それはたぶん、夏休みにも高遠と同じ時間を過ごせる、そんな期待だった。 「やっぱり、だめですよね」 「いや、補習自体はいいんだが……どこでするかな、と思って」 あっさり諦めて欲しくなくてそんなことを言ってみた。 実際、夏休み中は保安上の関係もあって職員室棟に入るためには許可がいる。ああだこうだとややこしい書類を書かされた挙句、許可が下りるのは教師だけ。職員室棟からしか入れない図書室棟も同じこと。 「あ、そうか。図書室、入れないんですよね……」 ふ、と落胆する顔がなんて綺麗なんだろう、そんなことを考えては慌て打ち消した。少なくともこんな男だということを高遠に知られたくはない。今は。 「ご自宅のそばに、図書館、ありますか?」 「あるよ」 「じゃあ、そこまで行きます」 「来るのはいいけどな……」 苦笑してしまう。学校の図書館じゃあるまいし。それだけ高遠も必死なのかと思えば微笑ましい。 「図書館でしゃべるのは、まずいだろう」 「あ……」 そうですよね、そう呟いてはしゅんとするのもまた、可愛い。要するに開き直った私にとって高遠はなにをやっても可愛くて仕方ない、ということだ。 想っているだけなら、かまうまい、と。 「うちでやるか……」 「え」 「お前の所に家庭教師に行くわけにもいかないだろ」 「それは……でもいいんですか」 「悪ければ最初から言わない」 結局そうして夏休み中、週に一度高遠は私の家に通ってくることになったのだった。 亡くなった伯父が居間とも書斎とも使っていた部屋をやはり私も同じような使い方をしている。 私自身は一人暮らしなだけに好き勝手な使い方が出来るけれど、やはり伯父が使っていた通りに使うのが一番自然らしい。 緑の多いこの町は夏でも窓を開けておくだけでだいぶ、涼しい。それに居間に面した庭は結構な広さで、木々が風に揺れていたりもする。 ガラス戸も障子も開け放ち、吹き抜ける風が体を掠めていく感触が好きだった。 高遠がはじめてこの家に来たのはそんな夏の午後だった。 「よろしく、お願いします」 幾分照れ臭げに、そう礼をした。すらりとしたコットンパンツに半そでのパーカーシャツ。はじめてみる私服姿は思いのほか、大人びて見えたけれど後から考えれば服装自体は幼いような選択だった。要するに何でも良かったと言うことだろう、私にとっては。 事前に電話で連絡を取ってあった通り、補習は文学史。もともと頭のいい子だから細かいことを言わなくても解るだろう。 そんな頭のいい子なのに、あの電話でどれほど私が緊張していたかなんて、知りもしないんだな、そう思ったらなんだかおかしくなった。 「静かでいいところですね」 学校にも近いし、そう高遠は笑った。 「もういいかげんぼろ家だけどな」 「趣があって、好きですよ。僕は」 少し照れた笑みを浮かべて見上げてくる。たぶんそうだろう、と予想していた私は開け放した障子の向こうの縁側に蚊取り線香を置いてみた。我ながら演出の仕方があざとい。 どうやら気に入ってくれたらしいからすべてそれでよしだ。高遠が気に入ってくれたこと。それがまた嬉しくてたまらない。我ながら恥ずかしくなるほどの溺愛ぶりだ。 冷たい麦茶を持ってきた時、高遠はすでに補習を受ける準備を済ませていた。何の気なしに正面に座り、講義開始。 「文学史の頭からざっと流していくから、解らないとこがあったら言えよ。重点的に教えるから、いいね」 「はい」 「……上代、まず七世紀までは口誦文学がずっと続いていたから文字として残っているものは少ない、定型歌が発達して定着したのが大体この頃だな」 「聖徳太子の頃?」 「そう。聖徳太子自体、文学史に名を残しているからね」 「そうなんですか」 ノートをとっていた手をふ、と休め目を上げては驚いた。 大概の人間が聖徳太子が文学史に名を……なんて言われると驚くからこちらとしても予定のこと。もっともそれ自体は前の学年で学んでいるはずのことなのだが。 「憲法十七条だよ」 「……アリですか、それって」 頬を膨らませて膨れる寸前、と言った顔で高遠は言う。 学校以外で会っている、そんな開放感かもしれない。礼儀正しい高遠がするにはあまりにも子供じみて、それがまた可愛かった。 「アリだよ。憲法十七条をもって口誦文学から記録文学との境になるんだから。憲法、とは言っても今の憲法とは随分性格の違うものだってのは日本史でやってるはずだよな」 開放感に浸っているのは高遠だけではないらしい。自分でも随分口調がくだけているのが、わかる。 「和を以って貴きと為す、ですよね?」 ふわり、高遠が笑う。それなら解る、そんな得意げな笑み。他人がやれば鼻につくはずのそんな仕種さえもが妙な透明感に包まれていて私を慌てさせるのだ。 |