初めて会ったのは高校の入学式の朝だった。 いくら新一年生と言っても、高等部の制服を着ていなければ中等部の生徒が紛れ込んだとしか思えないほど、ずいぶん幼すぎるように見えてわずかに惑った。 それなのになぜか、一目で魅せられて居心地の悪い思いをしたのをよく覚えている。 少年の名を高遠翡翠と言う。 私が教鞭を取るここ、私立紅葉坂学園は横浜の紅葉坂にある男子校で、校名はもちろんその地名に由来している。 小学部から中等部、高等部とあり、大学部に大学院、研究所までを備えた完全一貫教育の学校だ。 だからと言って一度入ればそれで大学まで簡単に進めるかと言ったらそんなことはなく、校内の進級試験さえ熾烈を極める、ぬるま湯とは縁のない学校だった。 あれから二年が経つ。 高遠は三年生になり、子供子供した線がすっきりと抜けて、性格さえ問題にしなければ成長半ばではあっても青年、と言える程度にはなってきた。 が、いかんせん中身が余りにも子供なのだ。 その上、校内の噂を知らないのは教師と高遠だけなんて言われるほどにも鈍い。 それを可愛いと思う私はどうしようもない教師かもしれない。 水野春真と書かれた出欠札を出勤のほうにかけ直し、私は教室へと急ぐ。 今日から新年度が始まる。 三年生の最後の一年、前年度の担任が病気で退職した所為で私が彼らの担任を務めることに決まったのは年が明けてから。 始業式で聞かされたばかりの生徒はまだざわめいていることだろう、そう思うとなんだか楽しかった。 高遠と面識は、ない。 クラス担任はおろかクラブの顧問さえしていない私と高遠が知り合う接点はなく、かろうじて放課後の図書室で顔をあわせる程度だった。 毎日、ではあるのだけれど。 それでも自称「水野先生のファン」だそうだ生徒のように付きまとうようなことはなく、目が合ったときに軽く会釈をしてくる位。 かすかに話をしたそうにも見えるのだけれどうるさくされるのを私が嫌うと言うことを知ってか知らずか、いつもそれに留まっている昨今稀なゆかしい性格の持ち主だった。 その高遠のクラスの担任に、私はなったのだった。 いいかげん三年生にもなると配布物を配り終える頃にはもうやることは無くなってしまっている。そもそも生徒たちだって決まりきった行事には慣れきって飽きているのだ。 簡単な自己紹介を各自してもらった後、私自身の紹介に代えて――授業の説明。 「一学期の現国は近代詩歌をやります。水野琥珀という歌人の短歌を中心に進めていくのできちんと予習してくること」 何度も落ちてもいない眼鏡を指で持ち上げている自分に気づき、少し苦笑する。 緊張しているときの癖。柄にもなく緊張しているらしい。 もともとこういったことは苦手なのではあるけれど、目の前でさも嬉しそうにこちらを見ている高遠がいると、なんだか調子が狂っていけない。 「レベル的にはうちの国文学部に行こうと思うのでなければどこに出しても恥ずかしくない程度にするつもりだから。国文行こうと思ってる人間は選択の講読とってるだろうしな」 うちの大学部というのは全体としてもずいぶん偏差値の高いほうだとは思う。私立校でありながら有名国立大学とレベル的には大差ない。 けれど、国文学部というのは中でもずば抜けた秀才の集まる所で、国文学者になりたいのならば紅葉坂、なんて言われていたりもする。 実際は高等部の授業にちゃんとついてこれていて、国文に興味があるなら内部から進学するのは外から受験するほど難しいわけではない。 無論、点が甘くなるのではなく、高等部のレベル自体が結構高い、そういうことだ。 ざわつく中で鐘が鳴り、生徒も私もそれぞれ散っていった。 放課後の図書室も始業式の日と終業式の日だけはなんとなく騒がしい。司書さんが結構こまめに見て回っている所為でさほどではないのだけれど。 高等部の図書室は「図書館」といっても誇張表現にはならないだろう。職員室棟から直結された図書室棟は地上二階地下一階。うち地下部分の半分近くを定員二名の自習室が占めている。 その数二十。生徒同士で教えあったり、教師から補習を受けたり使い道はさまざまだ。珍しいことはないが、変わったことといえば全室にきちんとドアがついていること。 畳一枚半ほどの部屋の中に机と椅子が二脚、そんな所にドアなんかつけたら圧迫感があって仕方ないと私は思う。 「雑音のない静かな環境で勉強を」 が、校長はそのように主張している。おかげでなのかどうかは知らないけれど、ドアは御丁寧にも防音つき。 それはともかく図書室としての設備は他に誇れるもので、大学部の学生はおろか時によっては教授までが借り出しに来るほどの蔵書量だった。 さっき生徒にああいった手前、と言う訳ではなかったけれど、琥珀の歌をひとつ度忘れしたのが気になって本を紐解く。 茜色の絹で表装した愛蔵版。金の箔押し文字。私立だからというわけでもあるまいに本当にこの学校は設備には金に糸目をつけない癖がある。 ふ、と見れば高遠の姿。どうやら探し物らしい。 「ッからそっちじゃねえって」 隣にいるのは新田か。 新田勇二、去年の半ばまではとにかく授業はサボる行事には出てこないといった問題児だった。大体新田は寮生だからどこに行く当てもなかっただろうに。 紅葉坂は半寮制度で自宅から通えるならそれでもかまわなかったけれど、新田は実家がだいぶ遠い。とても通える距離ではなかったから寮に入っている。 授業に出なくても成績はいつも学年トップ、たまに出てきた体育の授業では学校記録を樹立。何をやっても何でもできる。こんなに面白くないこともないだろうな、私はそう思う。 それが「どういう訳か」すっかり人が変わって今ではとりあえず真面目と言ってもいい程度には授業に出て来るし無暗にサボることもなくなった。 先生方は首をかしげているけれど何のことはない。恋人が出来て生き方変わった、それだけのことだ。 寮で同室のひとつ後輩。学園始まって以来といわれた美少年。それが新田を変えたわけだった。 そんな事も知らずに不思議がっているから噂を知らないのは教師と高遠だけなんていわれる始末になる。 だからたぶん高遠は親友のその事実を知らないと、私は思っている。とにかく疎くて鈍くて、新田がさりげなく分らせようとしたって絶対に分っちゃくれないタイプだから。 大体ごく普通の子だから新田の恋人が下級生だと知ったらどんなにか驚くだろう。私自身は男子校育ちだからあまり違和感はなかったのだが。無論、一般的な感覚からずれていることは自覚している。 「なにを探してる?」 「あ……先生」 弾かれた様に私を見上げると弾みに前髪が跳ね上がり、きれいな白い額が現れた。 不覚にもどきりとして少しばかり暗澹たる思いに駆られる。教師にあるまじきことを考えた自分に。 「琥珀の愛蔵版だってさ。担任知らない?」 にやりと新田が笑う。たぶん高遠は私に黙って読んでおきたかったのだろう、うつむいて赤くなっている。 「これか?」 まだ持ったままの本を示せば、高遠は少し困った顔をしながら答えた。 「あ、はい」 「いいよ、私の用はすんだから」 「ありがとうございます」 そう言って渡した本に向かって頭を下げて、高遠は小さく呟くよう礼を言った。 再び見上げてきた時もまだわずかに目元に赤みが残っていて、これならば「高遠先輩をお守りする会」なる地下組織があるのも肯ける。 実際新田の恋人、四條と人気を二分しているのだ高遠は。 四條はどちらかというまでもなく勝気で気が強いじゃじゃ馬だ。高遠はこの通り内気で控えめでともすれば生まれてくる性別を間違えたかな、というほどおとなしい。が、これで結構頑固でこうと決めたら引かない所もあるらしい。 その辺が後輩たちを熱狂させてもいるようだった。 「あぁ高遠、それ帯出禁止だからな。借りていくつもりだったら文庫版にしておけよ。場所……わかるか」 まるで小動物のように急いで彼は首を振る。 「高遠、後は担任が教えてくれるみたいだし。俺あっちにいるから」 言いながら歩き去った先には四條の姿。 好都合だな、そう思った自分に気づいて頭を振りかけ慌ててやめる。よっぽど今日は挙動不審だ。どうか、している。 高遠が鈍い子で本当によかった。新田が側にいれば嫌味のひとつでも言われる所だ。 「先生?」 「ん、どうした」 「……名前、覚えるの早いですね」 穏やかな、笑顔。思わず見惚れかけて内心で慌てた。それほど純でも不道徳でもないつもりだった私はどうやら自分を欺いていたか裏切られたかしたらしい。 「毎日図書室に居ただろう? だからかな」 「……っ。覚えてたんですか?」 そんなに驚くことはないだろうに、そう思っているうちにふわっと頬が上気してくる。 そんなに嬉しそうに顔をされるとどうにかなってしまいそうだった。 「話した事はなかったけど。覚えていたよ」 出来るだけ教師の態度を崩さずに、それでも精一杯やさしく言えば高遠の口元が少し、笑う。 「なんだか嬉しいです。先生のこと、あこがれてますから」 恥ずかしそうに、それでも笑み崩れて高遠は言う。それでどんなに私がどきまぎしているかなんて知りもせずに。 「じゃあ、これな」 書架の高い位置にあった本をとって手渡せば、嬉しそうに笑っている。 それは本に向けたものなのか、それとも私に向けたものなのか。人気のない図書室の一角で不意に抱きしめてしまいたくなる。思った途端、また慌てた。 「先生?」 知らず見詰めていたのか。 「琥珀の歌集は初めてか?」 そんなことを聞いてなんとか紛らわせた。 「はい」 「じゃあ……せっかくだから秀歌集より最初の歌集から順番に読んでいった方が楽しいと思う、どうする?」 「あ、はい。そのほうが」 何の邪気もなく、何の思惑も持たず、高遠は笑う。 今この瞬間ほど教師をやめてしまいたいと思ったことはなかった。 高遠が教え子でさえなかったなら私は。 琥珀の最初の歌集、耳成山の梔子。必要なのは私のほうだった。 生徒の前では吸わない煙草をくゆらせて一人、家でぼうっとする。 古い、昔ながらの日本家屋は亡くなった伯父から譲られたものだ。 「戦争にも焼け残った」 頑丈なつくりだから、と伯父はそう言って笑っていた。 確かに古い家でだいぶ手も入れてはいるのだけれど、丈夫なことこの上もなく、そしてやっぱり趣のあるこの家が好きだった。 伯父が生きている頃から書庫代わりに使っていた部屋から一冊、本を持ち出す。 時間を経た本の匂いが懐かしい。篠原忍の旅行記だ。 彼の本来の小説よりこの旅行記というそっけないタイトルの随筆が好きだった。 彼があちらこちらに旅行に行ったときの徒然や歴史やそう言ったものを書いた作品だったけれど、そこにはいつももう一人の人が居る。 水野琥珀、と言う歌人。お互いが相手の一番の理解者だといって憚らなかった終生の友人だ。 いつどこに行っても琥珀は彼の側にいる。篠原はどこに行くのでも琥珀を伴って行ったから。 文中には琥珀があふれている。琥珀、琥珀、琥珀。人はこの事実をどう解釈しているのだろう。琥珀の文字が翡翠、に見えてくらり、目眩がした。 |