程なく帰宅した夏樹の父にコンラートは怪我の具合を診てもらい 「派手な怪我だが、たいしたことはないね」 太鼓判をもらった。 夏樹は、と言えばあんまりにもあっさり父が言うものだから不機嫌で仕方ない。目にはありありと本当に診察したのか、と不信が浮かんでいる。 「お父様を信じないなんて、とんでもない子だね」 「その調子のよさが信用できない」 「まぁまぁ。その、大丈夫ですから、ね?」 親子の間に入ってなにをやっているのだろうか、と突然空しくなる。少なくとも軽口を叩ける程度には、仲のいい親子なのだから。 「本当に?」 「本当に、大丈夫」 「だから大丈夫だって、私が言ってるのに、もう」 穏やかな笑みを交わした、と思ったらこれだ。どうしてこうも話を交ぜ返すのか。ふと父親を見ればにたり、笑った。 どこかで見た記憶がある笑い方。 「あぁ……」 思わず声を上げてしまう。 「どうしたのかな。コンラート」 「いえ……」 「おかしいね。遠慮がいるような仲じゃないだろう?」 言えるわけがなかった。 このとんでもない性格を知っている。まぎれもなく露貴はこの叔父そっくりの性格をしている。 コンラートの困惑を察したか、うつむいた夏樹が笑いをこらえていた。 夕食後にまた一悶着あった。それ以前に夕食中にも悶着があった。 コンラートが夏樹相手に敬語を使うのをなぜだと問われ、夏樹が珍しくこんなに誰かになついているとからかわれ、そのたびにさりげなく間に入って話題を変えたおかげでコンラートは疲労困憊だ。 その後、客間を用意する、と言って聞かない父に、夏樹は断固として話したいことがあるから自分の部屋に布団を用意する、そう言って譲らなかった。 結局はあれもからかっていたのだろう、夏樹の部屋に寝具が用意され、いまは二人、なにを話すわけでもなく落ち着いている。 「親父、変だろ」 二人でひとつ本をのぞいていた。読んでいる、と言うわけでもなく眺めているわけでもない。なんとも奇妙な時間の流れ方が心地いい。 そんなときに突然、彼は言ったのだった。どうも言い出しかねていたらしい。 「面白い方ですよ」 「あれが?」 「えぇ……なんと言うか。あなたが可愛くて仕方ないのだな、と感じて」 「……あれが?」 嫌そうな顔をして夏樹が繰り返した。 事実、可愛くてたまらないのだろう。夕食の席では夏樹の弟も同席していたが、あれほど父親が長男を偏愛していると弟はひねてしまわないだろうか、とコンラートが懸念したほど、可愛がっているように見えた。 その息子に血縁以外の友人が――コンラートとて遠くたどれば血縁ではあるのだが――できたのが本当に嬉しくて仕方ない、だからついついからかってしまう、そう見受けられた。 表現の仕方こそとんでもないが、愛情の方は本物だろう。 「カイルが」 「え……?」 「嫌な思いしなかったなら、いいや」 ぼそり、うつむいて言った。 いまこの瞬間、コンラートははじめて西本に感謝したくなった。痛い目にあったおかげでこんなにも夏樹と近くなれた。 自分が彼を気遣うだけではなく、彼が自分を気にしてくれている。嬉しかった。 「寝よう」 照れたのか、言うだけ言ってさっさと立ち上がり、ベッドに上がってしまう。 彼のベッドの下に寝具が一組。黙ってコンラートもそちらにもぐりこむ。 「まだ、痛い?」 ベッドの上、うつ伏せた夏樹が下に手を伸ばしてコンラートの頬、軽く触れた。 「少し、痛みますね」 「ごめん……」 「あなたのせいじゃないでしょう?」 「でも」 「わかっていて、のこのこついて行った私が悪いんですよ」 「俺と……俺が、カイルに付きまとったりしなかったら、カイルが……」 頬に触れていた手がきつく、握り締められた。目の前のそれにコンラートはそっと触れ、自分の手の中、包み込む。 「あなたのせいでも、たぶん私のせいでもないです」 ベッドの上、首を振っている気配。 「悪いのは、西本さんでしょ」 なにかを飲み込んだ音がした。 「夏樹さん」 体を起こしてコンラートが夏樹の髪を梳いた。柔らかい髪。黙っていつまでも。彼が泣き止むまで。 「カイル……」 何事か言いかけたのを押し止め、それからまた彼の髪を撫でた。 「あなたが眠るまで、こうしていますよ」 だから、安心して眠ればいい。 その言外の言葉に夏樹はうなずき、緊張を解いては目を閉じたまま笑んで見せた。 「おやすみ」 まだ目許に残る彼の涙を指先で拭ったコンラートもまた、微笑んでいた。 大急ぎでクリーニングに出してくれたものか、制服は新品同様に綺麗になっていた。 寮より早く起き、早くに朝食を取る。たったそれだけのことがなんだか新鮮で楽しかった。 ――それだけ、じゃないか。 胸の内、コンラートは苦笑する。今の楽しさの最大の原因。横に、夏樹がいる。 普段、感情を露にすることを極端なほどに嫌う彼が昨日見せた素振り。それが一夜明けてどうなるものか、コンラートは不安で仕方なかった。 あるいは彼はそんな風にさせた自分を遠ざけるのではないか、そうも思ったのだった。 けれど、そんなことはなかった。目が覚めて一番最初に見たのは、少し照れくさげな夏樹の笑顔。 「寝れなかった?」 学校へ向かう道々、夏樹が問う。 「そんなこと、ありませんよ」 「そう?」 小首を傾げて歩きながら覗き込んできた顔にどきり、する。 事実、寝不足気味だった。 それは枕が替わって眠れなかった、などと言う繊細な理由ではなく、消毒液を浸して綿をつまむ夏樹の指だとか、その指が塗り薬を口許に塗っただとか、そんなものがちらついてはいささか方向性に問題があるものの、健全な青少年である、そうそう安眠はできない。 「まだ、痛そう」 コンラートの口許を見上げ、夏樹が言う。昨日は切れているだけだった傷が、今日は青黒く腫れあがってしまっている。 「大丈夫ですよ」 半分くらいは嘘をつく。 蹴られた腹は痛いし、殴られた肩口も痛む。全身に鈍痛がある、と言っても過言ではない。 が、身も世もなく痛い、と言うわけでもないのだ。西本と言う男、肝心な所で度胸がないのか、怪我自体は夏樹の父が言う通りたいしたことはない。 「カイル」 呼び声に顔を向ければ、にやり笑った顔。その頬が多少、引き攣ってる。 「騒ぎには、なるでしょうね」 紳士協定、と言うわけでもあるまいが、夏樹にあえて手出しをするような輩はいない。西本のような例外は除くとして、あとはたいてい遠くから眺めるとか、その程度なのだ。 その夏樹が留学生――それも普段は寮住まいの――と一緒に登校してくるとなれば一騒動くらいは覚悟しておかなければなるまい。 コンラートは面倒事を嫌ったし、別段日本の遠縁に頼る気もなかったから、彼らが薄くはあるが親類だ、ということを知る人は少ない。 ましてコンラートの怪我だ。騒ぎが起きないほうが嘘、と言うもの。 「心配、しないでいい」 ぽつり、夏樹が言った。 「あなたばかりが、かぶることはないんですよ」 人目もあることなのでそっと腕に触れるだけに止め、驚いて顔を上げた彼に笑みを向けた。 「はったりのひとつくらい、かましましょうかね」 殴られたのは私ですし。コンラートはそうしてもう一度、笑って見せた。 「おい、それ」 「西本さんかよ」 「よく無事だったなぁ」 案の定、教室に入った途端またこれだ。校門をくぐるときに一騒動、夏樹と別れるときにも騒がれて、校舎に入れば大騒動。 野次馬ばかりと顔を顰めたくもなるが、潤いのない男子校のこと、多少の騒ぎは潤いのうち、と諦めもする。 「たいした怪我じゃないし。大丈夫だよ」 「でもそれさ……西本さんだろ」 「そうだけど?」 「その、さー。噂だけど。脅されたりとか、したんじゃね?」 かしましい級友にコンラートは傲慢になる寸前ぎりぎりの笑みを向ける。 「伯爵家の誇りにかけて、あの程度の男には屈しない」 言ってのけた。 正直に言えばコンラートは貴族の誇りとやらを信じていない。そもそも爵位を名乗ることを許されているだけであって、身分としての貴族はドイツにはすでにない。 それでも使えるところでは使っておこう、と言う程度には役にたつ。 今もどうやら、役にたったようだった。 が、一息に別の方向に着火してしまったのを見て、内心で頭を抱えたくなった。打倒西本などと騒がれても、困る。そもそも騒がれること自体が困る。 ちようど間のいい所で担任が入ってきてくれなかったら、いったいどうなっていたことやら。ほっと胸を撫で下ろすコンラートの横で一言たりとも助けてくれなかった露貴がにやにや笑っていた。 試験直前だと言うのに教師から呼び出されて事情を聞かれた。もちろん、西本に関してのことである。 もっとも教師たちは直接西本の、とは言わず、その怪我はどうした、と言う聞き方をしたのだが。が、しかし、その場に夏樹も呼び出されているところを見れば事件のあらましを彼らが知っていることは明白だった。 夏樹とは別々に話を聞かれる。それが少しばかり不快だ。なにせコンラートは被害者なのだ。後になって実は西本と言う男、政治家の息子だったことがコンラートの耳に入る。それで教師陣の取った対応にも不愉快ながらうなずけたのだが、現時点では単に気分が悪い、とそれだけだ。 結局、試験前だから、などと理由をつけてどうなったかはコンラートたちに知らせられることはなかった。 しかし噂、と言うのは足の速いもの。試験の週になっても西本は姿を見せず、自宅謹慎させられているらしいと生徒たちは言った。それも処分が確定するまでの謹慎だと、言う。 「停学らしいぜ」 コンラートの級友も意地悪く、と言うか楽しげにと言うか噂している。 なんだかざわつくままに試験も終わり、この調子では結果は振るわないな、そう思ったとおり、終了式にもらった成績表は予想を下回る出来だ。 西本がどうなったかもわからず、成績もひどいもの。これではいかなコンラートとは言え、落ち込んでしまうのだった。 「ちったァ浮上したかー」 露貴の声と共に寮の自室のドアが開いた。普段はつるんで歩く二人だが、コンラートの落ち込みように今日はそっとしておいた方がいい、と判断したのか露貴はかまわずいてくれたのだ。 入ってきた途端、露貴がぎょっとして立ち止まる。そこには晴れやかな顔をして鼻歌まで歌っているコンラートがいた。 「……なにもそこまで浮上しなくても……つーか、浮かれてないか?」 「うん、浮かれてる!」 「あー、じゃあ、これいらないよな。落ち込んでるコンラート君にと思って甘いもん買ってきたんだけ……」 「いる。もちろん!」 「……コンラート、熱ないか」 「あるかもね」 露貴の手から奪い取った菓子を嬉々として食べるコンラートに彼は深い溜息をついて見せ一言 「夏樹か」 そう問うた。 「まぁ、そういうこと、かな」 「で」 照れるコンラートなど見つけないものを見るのは気色悪い、とばかりに手を振って話しの続きを促す。 「夏休み、招待された」 「なるほどね、それでか」 「うん」 「いつから行くんだ」 「帰ってからかな」 夏休みの間に一度、帰国する予定だった。兄も顔を見たがっているし、なにより進学の話をしておきたい。 「どれくらいさ」 「どれくらいって……! 一日か二日か、その程度だよ」 「ゆっくりすりゃいいのに」 「……理性が、持たないよ」 知らず、苦笑いが浮かんでしまった。 西本事件以来、夏樹との間が極端に縮まった気がする。それはそれで大変ありがたいのだが、なにせ相手は年齢以上に幼いのだ。不意に触られたり寄り添ってこられたりするものだからコンラートとしては、たまらない。 「あぁ……」 察したものか露貴も苦笑い。 「俺により、なついてるもんな」 「露貴より? それはないんじゃないのか」 「あいつ、俺にはあんなにくっつかんよ」 「……そうか」 コンラートの口許には笑みが浮かび、けれど目許は泣き出しそうだった。 つらい。けれど嬉しい。相反した思いが体内を駆け巡る。歪んだ顔を露貴に見られたくなくて、片手で顔を覆った。 「……愚痴ならいつでも聞くぜ」 かすかに聞こえた露貴の声。無言でコンラートはうなずくだけだった。 |