空港に降り立ち、電車を乗り継いで故郷に帰った。
 空気が違う。すっかり日本に馴染んでしまったせいか、どことなく落ち着かなかった。
 日本を発つとき、夏樹がわざわざ見送りに来てくれたのを思い出す。名残惜しくなりそうだったからコンラートは知らせなかったのに、露貴が教えてしまったらしい。それを酷くうらんでいた。
「ずるい」
 ただ一言だけそう言って、黙ってしまう。それがあの人なりの寂しさの表現なのだと理解できるコンラートは、だから教えなかったのに、と露貴を無言で睨んだ。
「すぐ、帰ってきますよ」
 どこを見るでもなく視線をそらした夏樹に向かって言う。
 搭乗のアナウンスが流れ、慰めるよう一度、彼の腕に手を置く。けれど夏樹は頑なに反応しない。諦めて溜息一つ。
 露貴に向かって目顔で「後は頼む」そう合図して踵を返した。そのコンラートの後姿に
「カイル」
 一言、名を呼んだだけ。振り返ったとき、視線はすでに外されていた。
「すぐに帰りますよ」
 再び言っては露貴に軽く手を上げる。
 夏樹は聞こえただろうか、言外の言葉が。続けなかった言葉――あなたのところへ。
 聞こえては困る。けれど聞こえても欲しい。苦笑いを浮かべたところ、ちょうど駅に着いた。
 そしてはじめて違和感の正体がつかめた。
 ――そうか、ドイツ語が聞こえてるんだ。
 当たり前のことなのに、それが返って妙に新鮮だった。それだけ、日本語を聞き慣れてしまった、と言うことなのかもしれない。

「休みはまだあるんだろう」
 兄が不満げに言う。久しぶりに帰国した弟が用だけ済ませてさっさと日本に行こうとするのが残念でならないらしい。
 数日前に、と言うよりは帰国早々、兄には進学の話をしてしまった。単純に勉学が楽しいだけだと思ってくれたものか、快く了承してくれたのがありがたい。
 もうひとつの用事も、済ませた。
 亡き長兄の墓参り。
「一人で行きたいから」
 そう言って心配する兄を振り切って出かけてしまった。次兄とて、長兄を愛していなかったわけではない。けれど、やはり性格の違いすぎた兄弟だから、コンラートほどの執着はないのかもしれない。
 花束一つ手に持って出かける。
 亡き兄が好んだ、澄んだ青いコスモスのような花を墓前に手向け、じっとしていた。
 特別、語ることはない気がする。兄はずっと見守ってくれている、そんな気がするから。優しかった兄。穏やかで、柔和な笑顔。今も忘れない、兄の手が頭を撫でてくれる感触。父にそうしてもらったことはほとんど覚えていないのに、兄のことは今も鮮明に覚えている。
 だからこそ、耐え切れなくて日本に逃げた。
「好きな人が、出来たよ」
 それだけ言ってまた口をつぐんだ。
 心配した次兄が迎えに来るまで、コンラートはただ一人、その場に立ち尽くしているだけだった。

 実にあわただしく日本に戻ってみると、寮内にはかなりの人数が残っていた。
 紅葉坂の寮は長期休暇の間も閉鎖されることなく生活を続けることができる。とは言え、大半の生徒はやはり羽を伸ばしに自宅へ帰るのだが、一度帰ってもすぐ飽きて戻ってきてしまう、そんな生徒も少なからずいたのだ。
 なにしろ寮にいれば遊び仲間には事欠かないし、普段と違って外出もさほど制約がない。一日中遊びまわって寮に帰ると食事の用意が出来ている。こんなにありがたいこともない。
 コンラートが戻った日にも仲間たちは大勢、談話室に集まって騒いでいた。
 案の定、と言うか見込み済み、と言うか土産をせがまれ、そのために買ってきた菓子などを出したと思ったら少し話している間に食い尽くされる。この騒がしさも今のコンラートには心地良い。
 ――帰ってきた、と言う気がするから、不思議だな。
 自室に戻りながら思う。その口許に知らず笑みが浮かんでいる。
 楽しげな理由のひとつはもちろん仲間の所に戻ってきたせいなのだが、もうひとつ、最大の理由は空港で起きていた。
 まず、水野家に連絡を入れたのだ。残念ながら夏樹は出なかったけれど、電話口で彼の母が
「明日にでもいらっしゃい」
 そう言ってくれたのだった。
 自室のドアを開ければ、少し寂しい。いつもならばいるはずの露貴がいない。
 彼も自宅に帰っているのだ。あるいはコンラートが帰国している間、何度か夏樹と遊びに行っているかもしれない。
 わずかに嫉妬する。仲の良い従兄弟同士。ただそれだけだ、とわかっているけれど、夏樹が自分には見せい顔を露貴に見せているのだと思えば心は騒ぐ。
 露貴は露貴で、夏樹は自分にあんな態度はしない、そう言ったけれど、でもコンラートは思うのだ。自分の見ていないときの夏樹がどんな顔をしているのか、知りたい、と。
「馬鹿だな」
 自嘲の言葉が漏れてしまう。
 独占欲など、持てるはずもない。そんな立場ではない。一介の友人に過ぎない、自分。
 今の所はあの夏樹が友人だ、と認めてくれただけで良しとするべきだと、わかっているのに。
 荷物も片付けずベッドに倒れこむ。
 その胸の辺り、硬いものが当たった。
「あ……」
 ドイツから持ち帰ったもの。母が、と言うより歴代の伯爵夫人たちが愛した宝飾品を見ていてふと思いついて町を探し回った。
 結局目当てのものはなくて、兄と付き合いがある、と言う宝石商に頼んで作ってもらったものだった。そうは言ってもコンラート個人の小遣いの範囲だ。それほど高価なものではない。
「受け取って、くれるかな」
 箱に収めたまま、開封せずに眺めた。これをすぐに持って行くつもりはない。機会を見て、と言うよりすでにいつ、と決めてはいる。
「勘のいい人だからなぁ」
 思わずぼやいてしまうのも、そのチャンスに乗じた時、下心を見透かされないか、と言う危惧のせい。
 ただ、おかしな所で素直な人なだけに、返って見過ごしてくれる、そんな気もしている。
「楽観的すぎか」
 一人、笑い声を立ててしまって寂しさがつのった。茶々を入れてくる露貴がいないのが、寂しい。決して広くはない寮の部屋が馬鹿に広く見えて、困る。
 ――露貴がいないと、つまんないな。
 そんなことを思っただなんて、まかり間違っても露貴に言うことはないのだけれど。

 とにかく機嫌が悪かった。
 水野家を訪問した途端「お世話になります」の挨拶もろくにするまもなく、夏樹に腕を引かれて彼の部屋に引っ張り込まれてしまった。背後から彼の母親の笑う声が聞こえている。
 夏樹は無言だった。まだ一言も口を聞いていない。むっつりと黙り込んだまま、仕種だけで待っていろ、と伝え、コーヒーを手に戻ってくる。
「夏樹さん」
 けれど呼びかければ目顔で返事だけはする。
 内心で肩をすくめ、コンラートはとりあえず持参した土産を手渡した。
「これ、好きだったでしょう?」
 以前、兄が送ってきたチョコレートを一緒に食べたとき、ずいぶん気に入っていたのだ。コンラート自身もお気に入りのチョコレートで、ラムレーズンが入っている。
 夏樹はやはり黙ったまま受け取ると、唇だけでありがとう、そう言った。
「夏樹さん」
 今度は返事もしない。目をそらしてうつむき加減に床を見ている。
 いくらなんでも少し、おかしい。もう一度声をかけよう、そう思ったとき彼がコンラートの腕に触れた。
「すぐ戻るって、言った」
 掠れた声がまだコンラートを見ず、言う。急にどうしようもない愛しさに駆られて、コンラートはたまらなくなる。
 細い指がきゅっとコンラートの袖をつかんでいる。それにそっと触れて引き離し、両手の間に包み込む。小さな子供のようにいやいやをする夏樹の顔を覗き込めば唇を噛んでいた。
「遅くなって、ごめんなさい」
 いっそう強く唇を噛みしめた。手の中の彼の手が緊張している。
「兄に報告したいこともあって、遅くなってしまいました」
 不意に夏樹の目に恐怖が浮かぶ。噛んだ唇は、これ以上強く噛んだら噛み破ってしまいそうだった。
 包み込んだ彼の手をなだめるように撫で、大丈夫、そう言いたげに彼の目を見る。
「西本さんのことじゃないですよ」
 コンラートの言葉にほっと息をつく気配。どれほど心配してくれたのか、それを思うと胸が熱くなる。
 その思いに浸りそうなコンラートを、夏樹の目が促していた。続きは、と。
「実は……」
 それなのに言いかけたコンラートの言葉を止めるよう、夏樹が首を振る。聞きたくない、全身で言っていた。
「夏樹さん……」
 それでも聞かせよう、とするコンラートの声に夏樹は手を振り払って背を向けた。その肩に手をかける。今度は振り払われなかった。その代わり自分の手で耳をふさがれてしまった。
「あなたのことですよ」
 びくり、夏樹が体をすくめる。
「新しい友達ができたって、兄にあなたのことを話したくって」
 コンラートは夏樹の態度を意に介さず、続けた。声に笑いが含まないよう、気をつけながら。
 夏樹が嫌がっている。こんなにも聞くのを嫌がっているのはただ一点。コンラートがドイツに帰ること。なぜか、帰ると思い込んでしまっている。だから聞きたがらない。たぶん、それで機嫌も悪い。本当は進学のことを話してもよかった。けれどなぜか今はその時期ではない、そうも思ってやめてしまった。進学すると決めた、と言うよりもあなたのことを話した、そう言ったほうが彼は喜ぶ、コンラートは我知らずそう決めたのかもしれない。
 夏樹が言葉に驚いて振り返った。それから本当に?と目を見開き、次いでコンラートが嘘を言ってはいないとわかると華やかに微笑んで。
 コンラートに飛びついた。
「な、夏樹さん」
 腕の中、愛しい人がいる。コンラートが望むようなものではない、と理解してはいるけれど、でも今ここにこの人がいる。
 首に巻きついている腕。頬を掠める柔らかい髪。少年らしい細い体をそっと抱き返せば、温かい。
「帰っちゃうんだと思ってた」
 ようやく離れた夏樹は、掠れ声で照れくさそうにそう言った。目許がかすかに染まっている。
「どうしてそんなことを」
「だって……」
 言ってわずかに眉をひそめ咳き込んだ。
「あ……」
 驚いて声を上げてしまったコンラートにいぶかしげな視線を送る。それはいかにもやりすぎだった。コンラートがわかったことを彼が見逃すわけはない。わからないふりをしているだけ。
 その証拠に目許がさらに赤くなっていた。
「なんだよ」
 ぶっきらぼうな声。やはり、掠れている。思わずコンラートは微笑み、それを見た夏樹が唇を尖らせて嫌そうな顔をした。
「声変わりですね」
 帰国するとき、空港で呼んでくれたあの声。少年らしい澄んだ声をもう聞くことがないのかと思えば、少しばかり残念ではある。けれど、これから変わる大人の声。どんな風に呼んでくれるのだろうか。待ち遠しくてたまらなかった。
「ん……」
 夏樹とて、大人になる一歩を踏み出すのが楽しみでないわけではない。ただ、なんと言うか、照れくさくて、恥ずかしい。それから不安で、少し怖い。
 けれど、こんな風に穏やかに楽しみだ、と言う顔をされては躊躇うことなどないのだ、そう思うことができる。
 ほっとしてコンラートを見れば、まだ微笑んでいた。

 まったくなんてことだろう、そう思いながらコンラートは闇の中、目を開けている。
 少し上からは夏樹の規則正しい寝息が聞こえていた。
 すでに夜中であった。以前と同じ様、彼の部屋に寝具を持ち込み、夏樹のベッドの下で横になっている。
 今コンラートは夕食時の騒ぎの顛末を思い出していたのだった。実際は騒ぎ、ではない。少し驚いたなぁ、と言う程度なのだが、本来だったらそんなことはあり得ないようなことが起こっていたのだから、コンラートにとってはやはり、騒ぎだった。
 夏樹の家族と夕食のテーブルを囲んでいた。
「コンラート、あなたお味噌汁は大丈夫かしら」
「だいたいの和食は大丈夫ですから。気にしないでください」
「ほー。じゃ、納豆は?」
 夏樹の母とコンラートの間に入って、気の抜けるような声を出したのは、珍しく早く帰ってきた夏樹の父親だ。
「……極端な例を持ち出さないでくださいよ」
「やっぱりダメか」
「食べられなくはないですけど、好みはしません」
「んじゃ、くさやは?」
「それはなんですか」
「あなた、おやめなさいな」
 年若い留学生をからかっているように見えるのだろう――事実その通りなのだが――彼の母はそう夫をたしなめる。
 その横で夏樹が声に出さずに笑っていた。
「この子ったら、無口でしょう?」
「小母様が思うほどでは、ないような気がします」
「あら、やっぱりお友達と一緒だったらよく喋るのかしら」
「よく、は喋りませんが」
 ついコンラートは苦笑い。本人の目の前で噂話に興じているような気になってしまう。
「夏樹、どうなんだ」
 父親が問うのにも無言で、ただ目だけで笑って見せた。
「まったくこれだ」
 呆れた、と造って見せる顔のその表情が露貴によく似ていて、コンラートはうっかり笑った。それを見咎めて睨みつけるのも、よく似ている。
「ここしばらく息子の声を聞いていないってのもどうかと思うぞ。なんか言え」
 これが父なる人の物言いか。どうもよく言えば稚気がある。悪く言えばガキくさい。父子の対話はまるで子供同士の口喧嘩のよう。もっとも一方は一言も口を聞いていないのだが。
 コンラートが口を開きかけたその時、夏樹が咳き込んだ。あちら側で父親が、おや風邪かい、など言っていた。




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