薄暗く、木々に囲まれた場所に殴打の音が響いている。
 例の木立とは違う。あそこは綺麗な木漏れ日が射す。ここは、昼なお暗い、そんな形容詞がぴったりだ。
 見れば手入れが行き届かないのか、ひこばえがまばらに生えた木々には、気味の悪い茸まで生えている。
「生意気だとかな」
 頬を張る音。
「あの子に近づいたとかな」
 子分共だろうか、後ろから二人がかりで羽交い絞めにされた相手を蹴りつける。
「とにかくなんでもいい」
 さらに一発。
「気に入らないんだよ!」
 拳で顔を殴る音が続いた。

 試験の一週間前から、職員室は生徒立ち入り禁止になる。大忙しで問題を作る教師陣のデスクの上には、正にその試験問題が散乱しているのだから立ち入り禁止もむべなるかな。
 そういうわけだから、自習に励む生徒、教師に補習をせがむ生徒、といった普段はあまり顔を出さない生徒たちで図書室はいっぱいだった。
 その中に一人、ぽつん、と座っている生徒がいる。大きな六人がけの机に一人だけで座ってるのも異様ならば、遠巻きにちらちらと見つめられているのもまた異様。
 夏樹だった。
 いま彼は一人きりで本を読んでいる。読んではいないのかもしれない。ページを追うふりをしているだけで、視線がちっとも動いていなかった。
 彼にしては珍しく大きな溜息をつき、窓の外を見やる。
 夏樹はコンラートを待っていたのだった。とにかく試験前のこと、ドイツ語の勉強は後回しにして、夏樹がコンラートに古典を教えている。
 いつもだったら時間に律儀なコンラートのこと、決して約束した時間に遅れるようなことはなかったのだが、今日に限ってコンラートは姿を見せなかった。
 ――なにか用事があるにしても言伝くらいはする人だけどな。
 内心で呟き、思わず立ち上がってしまう。その行為に自身が動揺したのか、そっと図書室内をうかがった。
 その視線の先にコンラートの同級生。
 夏樹は意を決して歩き出す。こういうのは自分の柄ではない、と不機嫌になりながら。
「あの」
 そもそも知り合いでもない先輩に、それも高校生の先輩に声をかけたことなどない。まずなんと言って訊いていいかがわからない夏樹はそんな呼びかけしかできなかった。
「え、あ……」
 対する同級生の方の対応もなにかがおかしかった。人一倍鋭い夏樹のこと、気がつかないわけがない。一瞬にして目つきに険が宿る。
「コンラート先輩を待ってるんですが、なにかご存知ありませんか」
 口調は、知っているはずなのだからさっさと話せ、と言わんばかり。
「し、知らないな。うん、全然知らない」
 とぼけるにしてももう少しやりようがあるだろうに。普段の夏樹だったら呆れたかもしれない。
 いまは嫌な予感に突き動かされている、そんな夏樹だった。
 一歩、詰め寄る。なにも言わない。目つきの険はどこかに消えていっそ柔和なほど。しかし笑ってはいなかった。これが中学生の目か。コンラートが見たならば、こんな目をさせてしまったことを深く深く悔いるだろう、目。
「た……」
 落ちた。
「体育館の裏に西本さんが……!」
 一言発してからは、言ってしまった方が楽だと見えてすんなり吐いた。
 礼も言わずに夏樹は飛び出す。
 夏樹が出て行ったあと、はじめて見せる夏樹の狂態に、図書室内が騒然としていた。

 制服は泥と血に塗れていた。殴られた衝撃に切れた口許からまだ血が滴っている。夏服の白いシャツが点々と赤く染まった。
 コンラートだった。
 それほどまでに殴られた、と言うのに、後ろの少年たちはまだコンラートを放そうとはしない。
 立ち続けているせいかもしれない。どれほど殴られようとも矜持だけは失うまいとするように彼は立ち続けている。
「けっ。気にいらねぇ」
 言わずと知れた西本だった。
 何一つ言おうとしないでただ睨みつけてくるコンラートの視線を真っ向からこちらも睨んで、またひとつ、殴った。
 口許の血が量を増す。
「水野に近づくな」
 あえてにやり、笑って見せたコンラート。激して蹴りつける西本。
「さっさと退学しちまえよ」
 子分共がよろけかねない勢いでさらに蹴りつけた。
「あんたがな」
 コンラートの声ではない。
 別の声が、西本の後ろから。
 ゆっくりと歩いてくる人影。けれど今まで走ってきたのだろう、肩が弾んでいる。
「水野……」
 見られたくないものを見られた、そんなばつの悪そうな顔を西本がする。
 それは決して自分の行動を後悔する者の顔ではなかった。
「放せ」
 西本には目もくれず夏樹はコンラートを捕まえている子分共に言う。
 とっさに従ってしまった。中学生のただ一言に。高校生である彼らが。
 放された途端、コンラートがよろける。
「水野、汚れ……」
 抱き留めたのは夏樹。小さな体でコンラートをしっかり受け止めた。
 そのまま湿った地面に座らせてはハンカチで口許の血を拭う。傷に触れられた痛みに顔をしかめたコンラートの耳元に囁くよう
「ごめん、痛い?」
 言った。
 西本を無視しているようで、意識している。後ろで自分たちを呆然と見ている西本の視線を感じている。
 だからいっそう夏樹は激するのだ。それが暴力と言う形に結びつかずに。
「大丈夫」
 青ざめた顔で、コンラートが少し微笑んで見せる。その途端、傷が引き攣れたのか呻いた。
 静かにコンラートの手を取って立てあがらせる。
「外泊届け。出してきて」
 有無を言わさぬ夏樹の口調。けれど戸惑う。
「そんなんで寮になんて帰せない。心配できっと寝れない。だからうちにつれて帰る。これ以上、俺を心配させたくなかったら、黙ってついてきて」
 きゅっと唇を噛み締め言ってのけた。
 怒り狂っているに違いない。頬は上気して桜色、目にはうっすら涙まで浮かんでいる。
 なにより、彼が長い言葉を使ったそのことにこそ、怒りがこめられている。
「仰せの通りに」
 そんな夏樹を見ているのが痛々しくてコンラートは茶化してしまう。
 夏樹は、きっと道化たコンラートを睨み、次いで顔を伏せた。
 大丈夫、心配は要らない、そう言うように彼の肩にコンラートは手を伸ばし、触れる前に止める。手指に血がついていた。
 気配を感じた夏樹が、自分でコンラートの肩に、顔を埋めた。
 そう気づくまでコンラート自身も、またあっけに取られて見ているだけだった西本も、ずいぶんと時間がかかったものだった。
「水野、その」
 ためらいがちに西本が後ろから声をかける。
「気安く呼ぶな」
 返答は、怒り狂っていない分、恐ろしい。
 コンラートの肩から顔を上げ、振り返った夏樹が宣言する。それは宣言、としか言いようがないものだった。
「退学するのはあんただ。このままでは……済まさない。絶対に」
 言葉を返させるより早く、コンラートの手を取って夏樹が動いた。怪我人の具合などかまっていられない、と言いたげにその歩調は速かった。

 消毒液に浸した綿が口許を撫でる。冷たい感触が気持ちよかった。
 二人は水野家に戻っていた。
 夏樹の部屋である。部屋、というよりは書庫に家具を入れたような離れなのだが、彼はここを自分の部屋として使っているらしい。
 書庫のような、というのはあながち間違った感想ではなかった。元々は篠原忍の家にあった本なのだった。自分の伯父にあたる篠原の家にいま住んでいるのは夏樹の叔父。教師の水野。その彼が篠原と琥珀と、二人分の蔵書を「手狭になったから」とこの離れに移してきたのは、もうずいぶん前になる。
 この離れ屋とて、元をただせば、篠原が子供時分に使っていた部屋なのだ。さすがに当時の家具類が残っていることはなかったけれど、往事のままの使い方をしている、と言えなくもない。
 夏樹は帰宅早々、コンラートをこの部屋に残し、無言で出て行ったかと思えば薬箱を手に戻った。ここに戻る途中も一言も口を聞かなかった。
 黙ったまま消毒液に綿を浸し、コンラートの手当てをする。かすかに震える手。怒りよりもなお、悲しんでいるようだった。
「夏樹さん」
「うるさい」
「大丈夫だから」
「黙れ」
 言い募る夏樹の手をコンラートは捕らえ、静かに自分の手の中、包み込む。
「カイル……」
 唇を噛み締め、今にも泣き出しそうな、顔。安心させたくて微笑めば、無理が祟って唇の端がまた切れた。
「あ。だから……」
「そんなに心配しないで。本当に、大丈夫ですよ」
「血が」
「すぐ止まりますから」
 けれど、夏樹の指が触れて血を拭った。冷たい指だった。
 夏樹は首を振り、身振りでおとなしくしているようコンラートに命じ、手当てを続ける。コンラートも今度はじっとしていた。それで彼の気が済むならば、と。
「親父が帰ってきたら、診てもらって」
 しばらくしてからようやく夏樹が言う。彼の父親は医者であるのだから、診てもらいたくない、と言うことはないのだが、そこまでするのも、と気が引ける。
「わかりました」
 しかしコンラートは素直にそう言ったのだった。夏樹がそれで安心するならばそれでいい、そう思って。
 傷が開かないよう、目許だけに微笑をたたえたコンラートを夏樹は目の前で見ていた。床に置いたクッションの上に座らせられたコンラートの前に自分も座り込んで手当てしていたのだから。
 きつく食いしばった唇が切れてしまいそうに思えてコンラートはそっと彼の肩に手を置く。大丈夫だ、その思いをこめて。
「カイル……」
 不意に。夏樹がコンラートの肩、額を預けた。先ほどまであれほど気遣っていた怪我の様子など気づきもしない風にコンラート体にしがみつく。
 小さな体が震えていた。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
 コンラートはなんの下心もなく、その体を静かに抱きしめる。怖がっている夏樹をただ慰めたい、その一心で。
 腕の中、夏樹がいやいやをするよう、首を振る。泥だらけになってしまった制服の代わりに着替えさせられた薄いシャツが熱くなる。
 泣いていた。
 夏樹が泣いていた。
 無言でコンラートは彼の髪に手を触れ、それから優しく撫でる。
「あんなこと、されて」
 涙声を聞かれたくないのか、必死で普通に話そうとするも叶わない。それを慰めるよう、また髪を梳く。
「どこにも行きませんよ。友達でしょう? 嫌いになったりしませんし、それに学校やめてドイツに帰ったりも、しませんよ」
 夏樹が恐れているのは確かにそれだった。腕の中、驚いたように体をすくめたのがわかる。それから、言葉に安堵して緊張を解いたのも。
 それに思わずコンラートは微笑を浮かべた。そして決心する。
 彼を守ることはできない。いずれそう遠くない未来、己の力でもって立ち、道を切り開いていく男になるであろう彼を守るなど、おこがましい。けれどもこの人の内に棲む幼い魂の守護者になることならばできる。いや、なってみせる。そう決心した。
 泣きじゃくる夏樹をずっと抱いていた。泣き疲れた彼が眠ってしまうまで。
 痛む体をおしてそっと夏樹を抱き上げ、部屋の片隅にあるベッドに運ぶ。
 起こさないよう横たわらせ、それから彼の髪をもう一度梳いた。
 ――ずっと、そばにいますよ。
 心の中に呟いてコンラートはその場を離れる。彼を守る、と決めたばかりの自分が夏樹を傷つけることになっては目も当てられない。
 自嘲と共にそう思う。が、いまの夏樹には決して邪な振る舞いをしようとも思わないことも自分では知っていた。
 それほど綺麗な寝顔だった。
 確かに額に乱れた髪が張りついたままだったし、泣き濡れた目許は少し腫れている。食いしばっていたせいか唇は血の色が透けてさえいる。
 それでも、綺麗な寝顔だった。
 コンラートはもう一度振り返り、それから苦笑して今後こそ離れる。
 普段、夏樹が勉強机に使っているのだろうか、古風な両袖机のライトを灯し、手近な書架から本を選び出す。
 先ほど座っていたクッションを引っ張ってきては、辺りを見回して腰を下ろして本を読みはじめた。
 夕暮れ遅く、目覚めた夏樹が見つけたのはコンラートのそんな姿だった。
 夏樹は不意に確信した。目が覚めたとき、姿が見えなくて不安にさせないよう、そんな所にいてくれたのだ、と。わざわざ硬い床の上、本棚を背にして痛いだろうに、コンラートは。
 しばらくの間、じっと見ていた。上から射す、机のライトがコンラートの髪に当たっている。
 と、視線を感じたのかコンラートが夏樹のほうを向いた。
「おはよう」
「……目、悪くする」
 わざとぶっきらぼうに言った夏樹の声に、コンラートは心の中で笑ってしまった。愛しさと共に。彼の声はあからさまな照れ隠しだったのだから。




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