薄暗い展示室の中を軽く触れ合いながらゆっくりとまわる。 なにを見ているのか、コンラートはよく頭に入らなかった。 無理も、ない。 一周してホールに戻ったとき、これほど残念なことはなかったのだった。 「コンビニ、寄らない?」 触れていた指を引き戻して夏樹が言う。さすがに陽光の下、そうしているのは恥ずかしいのだろう。 「いいですよ」 まったくなにもなかった、と言う顔をしてコンラートが言葉を返す。 のんびり歩きながらコンビニに向かう。特になにを話すわけでもなかった。 話したことと言えば、コンビニでこれがいいとかあれがいいとか。飲み物はなんにしよう、とか。他愛ない話。 なんとなく夏樹がぎこちないのはやはり、記念館の中での出来事が恥ずかしいのだろう。あるいは、後悔か、ふとコンラートは疑念に囚われる。 「おやつ、買ってこうよ」 店内をまわっていたはずの夏樹が隣に戻ってきては言う。そっとコンラートの腕に触れて。 「そうしましょう」 それだけでコンラートの気持ちは晴れるのだ。 相変わらず言葉の少ない夏樹はコンビニで食料を仕入れた後、どこに行こうとも言わなかった。 すでにコンラートもそんな彼のやり方に慣れてしまっている。だから黙ってついて行った。 と。戻った先は先ほどの野毛山公園。 「夏樹さん?」 「こっち」 悪戯をするように夏樹が笑った。 諦めてまたついて歩けば、記念館とは違う方向へ。 「動物園」 子供のような場所に照れているのか、今度は彼も視線をはずしたまま、言う。 「久しぶりです」 「そう?」 「楽しくて、好きですよ」 言えば心から良かった、そんな顔をしてくれる。 そのまますいすいと歩いていってしまう夏樹に驚いた。 「無料なんだ」 背後の気配で戸惑いを知ったか夏樹が振り返りもせずに言う。 慌てて追いかけて周りを見渡せば、市民の憩いの場、と言うやつだろうか。子供連れが多い。ベビーカーに赤ん坊を乗せた若い母親、あちらには幼稚園の先生に連れられた幼児たちが駆け回って遊んでいる。 「ズーラシアができたから」 動物も少し移った、と夏樹が言う。なんだか寂しげだった。 見れば改修工事中なのだろうか、あちらこちらに工事の幕が張ってあった。 「よく来てたんですか?」 「子供の頃ね」 「小父様が……」 あの、夏樹の父が子供を動物園に連れて行くところなど、ちょっと想像しがたかった。思わず呆然とし、次いで笑ってしまう。 夏樹もそれを見て苦笑い。コンラートの思うように、確かに似合わない。 「親父じゃないよ」 そうなのだった。夏樹の父はあまりに似合わない行為は自分ではしない。 噂に言う。夏樹の父・春樹も紅葉坂の卒業生だった。その在校当時、「学園始まって以来の美少年」と言われたそうだ。もっとも、記憶が薄れるに従ってまた新たな「美少年」が出現するのだから、信憑性にはいささか欠ける。 が、確かに美貌であったことは間違いない。双子の弟である国語教師の水野と、同じ顔をしているのだが、なんとも言えず春樹は華やかなのだった。 それは今も変わらない。子供を持ってなお、春樹は「学園一の美少年」の面影が去らない。自身、それを自覚していると見えて、自分のスタイルではない、と決めたことは何一つやろうとしない。 ある意味でそれは立派なスタイリストの姿でもあろうが、子供の父親としてならば褒められたものではない。 「え」 「叔父貴」 だから結局、不憫な子供の面倒を文句を言い言いみたのは弟の春真、と言うことになる。傍から見れば、これとても決して「父親稼業が似合いますね」とは言い難いものだったが。 「……充分似合いませんよ」 「そうかな。けっこう優しいけど」 「水野先生が?」 「しごかれた?」 「……かなり」 だいたいの所を想像したのか珍しく夏樹が声を立てて笑った。 彼にとっては優しい叔父なのだろう。 父の双子の弟、それも一卵性なので当然よく似ている。ごく幼いころはよく間違えたのだ、自分の父と。 だが似ているのは顔だけで、性格もなにもずいぶん違う。全体的に常識を逸しているのが夏樹の父で、常識家のふりをして実はとんでもないことをやらかすのが叔父だった。 そんなことをぽつりぽつり、と夏樹が話す。決して一人きりの寂しい子供時代、というわけではなかっただろうに、彼にとって幼いころの思い出のうち、楽しいものはどうやら叔父に属しているようだった。 「水野先生への見方が変わりそうですよ」 「嫌な顔するだろうな」 「そうですか」 「うん」 学校では、真面目なふりしてるからね。そう言って再び夏樹が笑った。 「あの辺がいいな」 いつの間にか高台に上っている。ゆったりと象が歩いている展示場の前。ベンチが一つ、二つ。風が通って気持ちよかった。 「座ろうよ」 促されて座る。どうやらここで食事にしよう、という魂胆らしい。なんだかピクニックみたいでこれはこれで楽しかった。 実を言えばコンラート、どこで食事をしよう、そのあとどこへ行こう、そんなことをかなり念入りに考えてきてはいたのだ。 あっさり夏樹に覆されてしまったけれど、思えば今日ここに誘ったのは夏樹なのだ。彼にしてみれば一日を楽しく過ごしてもらえるように計画を立てるのは自分の仕事、と思ったことだろう。 それが微笑ましくもありがたい。 途端、驚いてしまった。それを顔に出さないよう、身をすくめたりしないよう、必死でこらえる。 夏樹がごく自然に隣に座っただけだと言うのに。触れてしまいそうなほど、近くにいるから。 「食べないの」 不審げな顔で見上げられてしまった。すでにコンビニの袋をごそごそやっているから、空腹なのだろう。 「あ、いえ」 「疲れた?」 「外で、こうやって食べるの、久しぶりで」 「そう? 購買とかで、パン買ったりしない?」 「……言われて見ればそうですね。なんだか、中庭で食べたりするのと感じが違って」 必死で、けれど必死だと思われないよう言い繕えば、それで納得したのか夏樹が少し笑った。 たいしておいしいわけでもないコンビニのパンを二人して齧る。傍から見ればわびしい食事なのだが、コンラートにとってはこれほど幸せな食事もなかった。 「それ、新製品?」 キャップをひねって飲んだばかりのペットボトルを指して夏樹が聞く。 紅茶は紅茶なのだが、マスカットフレーバーなのは見たことがないな、とコンラートが先ほど求めたものだ。 「そうみたいですね。はじめてみました」 「ふうん」 興味深げにボトルを見ている。それに何の気なしにコンラートは言う。 「一口、飲みます?」 「あ。いや、いい」 慌てて拒絶されるのが少しだけ、悲しい。別に他意はなかった。おかしな意図など微塵もなかったと言うのに。 「……そういうの」 「え」 「慣れてなくって。ごめん」 うつむいて彼が言う。それを言わせてしまった、唇を噛み締めてコンラートもまた、言葉をなくす。 邪推だったのだ。自分の下心がなかったから、と言って、彼が素直に受けてくれなかったことを悲しむなんて。 なんて自分は浅ましい。 「今度買ってみようかな。おいしそうだし」 明るく夏樹が言ってくれた。言ってくれた、というのがコンラートにはわかった。気を使わせてしまっている。年下の、まだ充分に子供と言っていい彼に。 「あのさ」 話題を変えようとしているのがありありとわかる口調で彼が言う。いまはそれをありがたく受けることにしてコンラートは夏樹を見た。今後は決して同じ過ちをしない、と誓って。 「どうしました」 「お願いが、あるんだけど」 「私にできることなら、なんでもどうぞ」 だから、茶化した口調で――まるで露貴のように――コンラートが言って見せれば、照れたように夏樹が笑う。 「ドイツ語、教えてくれない?」 「ドイツ語、ですか」 「うん」 「また、なぜ……訊いてもいいですか」 「なんていうかな……」 ぽつりぽつり、つたない言葉で彼が話す。 お互いに育った文化背景が違うこと、言葉に対する感覚が違うこと。上面の文法や会話文を習っても補いきれないものがあること。 「カイルのこと、知りたいから」 そこまで言って不意に夏樹は視線をそらす。あらぬほうを見つめた視線に先に穏やかな目をした象の姿。小さな子供が象の名だろうか、呼んでいる。 「いいですよ、その代わり」 コンラートのほうを見ないままでいる夏樹の背中がびくり、震えた。 「私に日本語を教えてください」 「もう、充分知ってるじゃん」 「一緒にやれば習得も早いと思うんですが」 「ずるいよ、俺の方が負けるもん」 子供のように拗ねる夏樹を見ているだけで心が温かくなる。細い肩、小さな背中。子供のように、ではなく子供なんだな、コンラートは思い、口許に微笑を浮かべた。 「あぁそうだ」 「なに」 「実はわからない教科があって」 「高校生に教えろって?」 「露貴があなたを推薦してました」 「……もしかして」 「ええ、古典が」 振り返った夏樹が見たものは心底困った、と言う顔をしたコンラート。コンラートとて嘘をついているわけではなかった。が、多少は大袈裟な顔つきをして見せてもいる。 それを見抜いたのだろうか、夏樹はにやり笑っていいよ、とうなずいた。 試験休みが明けた後、二人が放課後を図書室で過ごすようになったのは、そういうわけだった。 遠くで呼び声が聞こえている。 寮の自室だった。 「コンラートってばさ」 ようやく耳に入ったのは露貴の声。 「あ、ごめん。なに」 「なにじゃないだろうよ」 呆れぬいた露貴の口調に怪訝な顔を返した。 「浮かれまくってお忘れのようだがね」 言葉を切り、コンラートの顔を下から覗き込むように見つめてくる。 改めてみれば見るほど、従弟である夏樹に似てはいない。つい、そんなことを考えてしまうコンラートだった。 「またあいつのこと考えてるな」 「ほっとけ」 「ほっとくさ。でもな、お前、期末、どーすんだ」 この良き友が夏樹と同じ時間を共有するようになって浮かれているのを露貴は知っている。それを喜んでもいるが、学生の本分を疎かにさせるわけにも行くまい、とも思っている。疎かにした結果、後悔して落ち込むのはコンラートなのだ。忠告のひとつくらい、友としてしてやるのが当たり前、と言うもの。 「……は?」 「は、じゃないだろ!」 「期末、近かったっけ?」 「近いもなにもお前、来週ですが」 血の気が音を立てて引いていくのが聞こえるようだった。まったく勉強をしていない。 確かに授業はちゃんと出ているし、ある程度、予習復習もしている。が、試験勉強となるとまったくやっていない。というよりも試験範囲も覚えていない。 さすがに試験はきちんとした成績をとりたかった。別に学年のトップを狙おうなど、大それたことは考えていない。 ただ、このまま大学に進もう、と一人心に決めたのだ。ならばそれ相応の成績はとりたい。少なくとも故郷の兄を説得できる程度の結果を残さなければ、恥ずかしくて報告のひとつもできない。 「やっぱりわかってなかったか」 大袈裟に肩を落としてがっくりして見せる露貴の仕種も目に入らない。まったく完全にコンラートは青ざめていたのだ。 「いや……その。最近、雨が多いなぁとは思ってたんだけど」 「梅雨だよ! って言うか、試験終わったら夏休み! 梅雨明け! とっくに夏服にも変わってるだろ! わかってるか」 「すいません、よくわかりました」 「よろしい」 勉強しろよな、そう言って露貴は笑った。 「まったく俺が勉強しろなんて柄じゃないんだけどなぁ」 「いえいえ、ありがたいことですよ、露貴君」 「礼なら現物でどうぞ」 「ケーキおごるから、ついでと言ってはなんだけど……」 「……なに」 「試験範囲、教えて」 この後、露貴の怒号が寮中に響き渡ったのは言うまでもない。 |