どうにか時間通りに夏樹の家につくことができた。実際、焦っていたのだ。そう何度も行ったことのある家ではない。記憶違いで道筋一本、間違える所だったのだ。 「どうぞ」 そっけない物言いの夏樹が出迎えてくれる。けれど目が笑っているから、彼は彼なりに照れているのかもしれなかった。 「これ、土産です。小父様に渡してください」 「気にすることなかったのに」 「兄が送ってくれたもので、おいしいですから」 あなたにも食べて欲しくて、そう付け加えてコンラートは微笑む。 夏樹はありがとう、と言うように袋を掲げて見せ、軽く掌をこちらに向けてちょっと待て、といった仕種をして行ってしまった。 程なく手ぶらで戻ってきたから土産を置いてきたのだろう。 「小母様はお元気ですか」 「相変わらずね」 行こう、と手振りで示しコンラートを外に促す。 つまりどうやら夏樹の母も外出中でいないのか、とりあえずこれ以上ここに用はない、と言うことらしい。 水野の家から野毛山に向かう。 月曜日の午前中、人通りもあまりない。もう出勤時間はとっくに過ぎているのだから、そういうものなのだろう。 そう思っていたのが電車に乗った途端、裏切られた。まるでラッシュのような混み方をしている。 だからコンラートは野毛山につくまでのことをほとんど覚えていなかった。 ただひたすらに夏樹に不用意に触らないように、それだけを考えていたから。 公園の緑を見てようやくほっと人心地がついたのだった。 隣を歩く夏樹が意外と小さいことにもはじめて気づいた。今まで並んで歩く機会がなかったわけではないのに。 夏樹はコンラートの肩までしかなかった。細くて小さい。そういえばまだ声変わりもしていないのだものな、コンラートは思う。 「びっくりした?」 「Was?」 「……日本語で言って」 「すみません、驚いてしまって」 「その程度だったらわかるけど。でも」 日本にいるのだから日本語で話したほうがいい。珍しく夏樹は長い言葉を使ってそう言った。 「はい」 知らずコンラートの顔に笑みが浮かぶ。それを不思議そうに夏樹は見上げていた。 忠告してくれるのが嬉しかった。どうでも良い人間相手に忠告など、しない。だからコンラートは嬉しかった。 「電車」 それがわかったのか夏樹は目を伏せた。やはり照れたのだろう、その証拠に話題を変え、しかも言葉はいつも以上に短くぶっきらぼうでさえある。 「あんなにいるとは思いもしなくて」 「硬直してた」 「びっくりしちゃって」 言い繕いはしたがコンラートは自分がそう思っていたのではないことを知っている。彼に触れるのが怖かった。触れたかったけれど、それで嫌われるのが怖かったから。 夏樹は言葉の表面だけをとったのだろう、明るい笑い声を立て、ほら、と指差した。 目の前に建物があった。大きくはない。華美ではなく、質素ですらあったが、みすぼらしくはなかった。 「あれが篠原記念館、ですね」 コンラートの頭ひとつぶん低い位置でうなずく気配がした。 内部は薄暗かった。展示品を守るためだろう、必要最低限の明かりだけが灯されている。 入ったところがまずホール。正面に飾られているのは二枚の写真。一枚はびっしりと字の書かれた原稿用紙の、一方はさらりと何文字かが書いてあるだけの写真だった。 明らかに筆跡の違うそれにコンラートは少し、戸惑ってしまう。ここは「篠原記念館」ではなかったのか、と。 「あっちは」 それを察したか、夏樹が指差したのは原稿用紙の写真。 「篠原の」 それから反対を指す。 「こっちが琥珀の」 「琥珀? それはbernsteinのことですか」 「まぁ、それで間違ってはいないんだけど」 珍しく夏樹は苦笑い。 「琥珀、と言うのは人名」 あれを書いた人の名前だよ、そう言ってコンラートを見上げた。 「名前、でしたか」 コンラートの戸惑いももっともだろう。とても人名だと認識できる名ではない。 「琥珀色の目をしていたって聞いてる。だから筆名」 でも歌人だから筆名じゃないか。口の中で呟くよう夏樹は言う。 「こっち」 彼に連れられて行った先には写真があった。今度は人物の写真。二人とも着物を着ている。古い写真だった。 「あ」 コンラートが驚きの声を上げる。 それを見上げて夏樹がにやり、笑った。そういう反応をする、と思っていたらしい。 一方の写真の人物は、夏樹に酷似していた。大人と子供の差はある。だけれどもきっと夏樹が成長したらこういう男になることは間違いない、そう思わせる。 「これが、篠原」 言われるまでもなかった。篠原の経歴だろうか、写真の下部に色々と書いてあるのが目に止まる。篠原忍。本名・水野夏樹。 「同じ、名なんですね」 「親父がね」 夏樹の父は、敬愛する伯父だっただろう人の名を、息子につけたのだろうか。偉大な作家としてしかコンラートは知らないけれど、家族の中では慕われる男だったのかもしれない、そう思う。 「こっちが琥珀」 先ほどと同じ口調で彼が言う。目を転じれば華奢とも言えるほどに細身の男が写った写真。鮮明ではない写真だったから、目の色はわからなかった。 篠原と同じように写真の下部には経歴が記されている。 水野琥珀。本名・加賀真人。早くから和歌の道を志し、少年時代に「加賀沈香」の名で数首を発表したこともある。戦後、篠原に見出され名を変え再出発した――。 書かれていることに対する、なんだろう、このわずかな違和感は。知らずコンラートは唇に指を当て、さらによく読もう、と顔を近づけた。 「恋人同士だったから」 その耳に入った言葉。一瞬、認識できなかった。 「名前。不思議でしょ」 言われてようやく違和感の正体がつかめた。篠原の本名が水野、その名を琥珀は名乗っている。それが、不思議だったのだ。 「なるほど……え――」 納得しかけ、そしてとんでもない事を聞いてしまったことにようやく気づいた。今まで読んだものの中にそんなことは一言も書いていなかった。自分が知らないだけかもしれないが。 それで気づく。篠原の「旅行記」を読み始めたばかりのときに抱いた感想。あの時は「下種の勘繰りか」とも思ったのだが、間違ってはいなかったのか。 あの文中にあふれ出る篠原の思い。口下手な人だった、と聞く。 その分、なのだろうか。文章には琥珀への思いが満ち満ちてとどめなく打ち寄せてくる。 今こうして夏樹に事実を聞いてよくわかった。あれは間違いなく、愛情だったのだ、と。どれほど慈しみあったのか日本語を完全に理解しているわけではないコンラートにだって、よくわかった。 妬ましくなるほどに。 「ほんとは内緒だけど」 カイルを信用する。 そう、夏樹は言った。どこでもない所を見つめ、視線をそらして。 やはり、明かされてはいないことだったか、コンラートは思う。それを夏樹は言ってくれた。どういう意図があるのかはわからない。あるいはただ信用しているのだ、とそれだけを言いたいのかもしれない。 それで、充分だった。 「俺ね」 その場に立ち止まってしまったコンラートを促すよう、腕に手をかける。そっと触れられたところが、熱かった。 「別に」 歩きながら話す。その間も彼の手は腕にかけられたまま。コンラートの肩の辺り、彼の髪が触れそうなほど近くにある。 後ろから追い越す人をよけるよう、夏樹が身を寄せる。肩に髪が触れた。 「同性だからどうのって」 思わないよ――。 そのままの姿勢で、彼は言う。 まるで冗談のように鼓動が高まっているのをコンラートは感じている。 まるで告白されているかのように、感じている自分がいる。 わかっている。 夏樹はただ、篠原と琥珀のことを言っているだけ。それから偏見は持っていない、と言っているだけ。 決して自分を思っていると言ってはいない、コンラートにはわかっている。 それでも今、彼がここにいる。これほど近くに身を寄せて。コンラートは不埒な行動をしたりしない。それを全身で信じてくれている。 それが、嬉しかった。 「私も、偏見は持ってないですよ」 コンラートは微笑む。微笑んでそっと彼の体を押しやる。もう、人はいないから、そんな体裁をとって。 悲しすぎたから。つらすぎたから。 愛しく思った人に、友人として信用されるのがこんなにつらいとは思わなかった。露貴に誓った言葉が悔やまれる。 でもコンラートは夏樹を悲しませたくはなかった。だから、押し隠す。自分の思いもつらさも、全部。 「良かった」 コンラートの葛藤など知らぬげに夏樹が微笑った。 「行こう」 幼子のようにはしゃいでコンラートの腕を引く。 「はい」 思わずコンラートは笑った。 笑って気づく。つらいだけじゃない。彼が彼自身、気づいていない幼い顔を自分は知っている。自分といるとき、夏樹はあれほどまでに無防備だ。とても校内では考えられないほどに。 今はまだ友人だけでいい。いつか、いつか、と。 一足先に立った夏樹が食い入るように展示物を見ている。そのガラスに彼の顔が映る。熱心であどけない。 「ほら」 手帳を取り出し、さらさらとなにかを書き付ける。それをコンラートに向かって差し出した。 「似て、ますね」 展示されている篠原の原稿用紙。埋め尽くされた万年筆の字、だろうか。癖はあるが端正な文字だった。不機嫌そうな写真の顔からはうかがえないほど、繊細な字だった。 夏樹が出した手帳の文字はそれによく似ている。やや乱暴だけれど、それは年齢差かもしれない。 「おかしなとこまで似てる」 「おかしいですか」 「会ったこともないんだよ」 言われてみればその通りだろう。夏樹にとっては祖父の兄だ。それも早くに亡くなっているというのだから、会ったことがあろうはずもない。 「血って面白いよな」 ぽつり、夏樹が呟いた。 それはただの述懐だったかもしれない。けれどコンラートには重たい言葉に聞こえた。 彼の目の前に、今までこうして続いてきた水野家の血の証がある。自分が継ぐべきもの、次代に伝えなくてはいけないもの。 伝統と家名とに押しつぶされ――。 違う。心の中でひっそりコンラートは首を振る。それは兄だ。自分の長兄だ。潰されて死んでいったのは兄であってこの人ではない。そうなるとは限ったものではない。 「面白いものですね」 振り絞るようにコンラートは言う。 「だろ?」 振り返った夏樹の顔は少し、白い。照明のせいかも知れない。コンラートは夏樹の言葉に首を振る。 「篠原氏は作家でしょう。小父様は医師。同じ血を引いていても色々なのだな、と思って」 言葉の裏にこめた思いがわかってもらえるだろうか。 「そう……だな」 コンラートを見上げる目が、かすかに笑った。戸惑ったような、寂しげな笑みだったけれど。 「あっちはなんですか」 見に行きましょうよ、明るくコンラートが促した。夏樹の見せた笑みには気づかなかったふりをする。どうしようもなかったから。今のコンラートには、これ以上夏樹になにが言えた、というのだろう。 先に立って歩き出すコンラートの手の中に。 「カイル」 夏樹の指が滑り込む。 「ありがとう」 小声で言って、夏樹はすぐに手を引いた。誤解されるのを怖がるように。 「さぁ、案内してください」 夏樹の顔を覗き込んでコンラートは微笑む。それからわざと、彼の腕をつかんだ。 決しておかしなことを考えてはいない。決してあなたの行為を誤解してもいない。 それを知らせようと、強くつかんだ。 |