彼と別れたあと、足取りが怪しい。寮に戻った途端、寮生から 「大丈夫か」 問われた。 「なにが」 「なんか、具合悪そうだ」 「顔色でも悪いかな」 「ってか、熱でもあんじゃねーの」 仲間はそう言って手を伸ばしてコンラートの額に触れる。それから首をかしげて 「なさそうだなぁ」 そう、不思議そうにさらに首をかしげた。 「ちょっと考え事。大丈夫だよ」 礼を言っては部屋に戻る。 「大丈夫か」 やはり先に戻っていた露貴にも、訊かれた。 「さっき下でも言われたんだけど」 階下での出来事をかいつまんで話し、そんなに変な顔してるかな、とコンラートは苦笑する。 「具合悪そうって言うか、浮かれまくって心ここにあらずって感じ?」 さすがであった。 気の置けない友に見抜かれて、今度こそコンラートは盛大な笑顔を浮かべて露貴に抱きついた。 「ちょっ、おい。待て、コンラート。気を確かに持てッ」 「確かだよ、確か!」 「俺に抱きつくなっ。放せってば!」 「あぁ、もうすごい幸せ」 「聞いてやる、聞いてやるから放せって」 浮かれ騒ぐコンラートを力ずくで押し戻し、睨みつける。もっともコンラートが狂乱する理由など見当がついていたから、さほど真剣に怒っているわけでもなかったが。 「夏樹に会ったんだろ、図書室」 「それだけじゃないんだって」 口許に手を当てて、少しばかり言葉につまる。あるいは、照れているのかもしれない。 「あぁ、なるほどね」 それで露貴は理解した。 なんと言ってもあの夏樹の従兄である。口にしなかった言葉の意味を察せられなければ会話が成り立たない「あの」夏樹の従兄なのだ、露貴は。 「野毛山にでも誘われたか」 にやり、笑ってコンラートを見ればどうやら図星。耳まで赤くなって視線を窓の外に向けたところを見れば、それはコンラートにとってこの上なく幸福な誘われ方だったらしい。 「あいつ、野毛山好きなんだよ」 「記念館、だっけ?」 「というか、野毛山公園が、好きなんだ」 そもそも場所自体を知らないコンラートは不思議そうな顔をする。無理もない。 「野毛山、野毛山って言っててもな」 野毛山公園の中に野毛山動物園があって、公園の一角に篠原記念館がある。自分たちは通称としてその記念館のことも野毛山、と言っているのだ、そう露貴は言う。 「つまり野毛山って、公園のことでもあり動物園でもあり、その記念館でもあるってこと?」 「それから……」 「まだあるのかよ」 多少、混乱しているらしいコンラートが嫌そうな顔をする。それを横目で見て露貴は意地の悪い笑みを口許に浮かべ、言った。 「典型的なデートコースでもあるわな」 ま、お子様向だけどさ、そう笑った。 「露貴ッ」 思わず手をあげたコンラートに向かって露貴は大げさに体をすくめて見せる。 「そういきり立つなって」 「自業自得だろ」 「なんでだよー。事実を言っただけだろ」 「事実でからかうな」 「そりゃ失礼」 言いつつもまだにやにやと笑っている。コンラートは心底呆れた、といった顔をして見せはするものの、まだ頬が赤い。 それについてまだなにか一言、と露貴は思う。が、友情に免じてやめておいた。 「まったく、質が悪いったら」 「でも好きでしょ」 「あの人を? そりゃね」 「……誰が誰をだよ。つうか、お前、あいつが質悪いとでも?」 好き、の一言に見当違いの答えを返すコンラートに笑ってしまった。たった一言が彼には夏樹を連想させたらしい。 瞬時に自分の間違いを悟ったコンラートはまた耳まだ赤く染めて口ごもりながらもなにかを言っている。どうやら言い訳らしいのだがさっぱり聞き取れなかった。 「そこ、ドイツ語で言い訳しない」 「……悪い」 「言い訳するんなら日本語でしてくんなきゃ、わかんないなー」 あえて冗談に紛らわせて言ってみせ。 「お前が間際らしいこと言うから間違えたんだ、と言った!」 「そうやって人のせいにするんだ、コンラート君ってば」 「紛らわしいこと言ったじゃんか」 まだぶつぶつと言っている。 照れて、いたのだ。確かに夏樹は好きだ。間違いなく好きの一言に彼を思った。けれど、露貴も事実、大好きだった。それは夏樹とは違う思いで、まぎれもなく友情、ではあったが。 けれど、やはり照れくさいのだ。男が男に友情である、と言う意味で「彼を好きだ」と言うのはなぜにこれほどまで恥ずかしいのだろうか。 いっそ夏樹を好きだ、と言うほうがずっとずっと恥ずかしくない。露貴を好きだなんて言うのはもう、身悶えするほど恥ずかしい。 「はいはい、悪うござんしたね」 そのあたりを汲んで露貴は茶化して言う。露貴とて、照れくさいのだ。茶化して言わなければならないほどに。 「お前が悪いんだから、お茶一回おごれよな」 「なんか騙されてる感じがしなくもないけど、ま、いいか。おごるよ」 互いに顔を見合わせ、笑ってしまった。二人して自分たちがいまなにをごまかしたかわかっている、というのは、中々良いものだった。 試験が終わったあとの浮かれ騒ぎがまだ寮内では続いていた。中から話し声とも歓声ともつかないものが聞こえている。 コンラートは一人、外にいた。 寮の小さな庭は明かりもなく、ただ内部の明かりが漏れ出ているだけ。寮生の熱気に当てられるように彷徨い出てきたコンラートにはちょうどいい明るさだった。 明日一日我慢すれば彼に会える。 そう思うだけでこの場で踊りだしたいくらい嬉しい。 が、不安もあった。当然だ。 なにを話したらいいんだろう、とか、どこに行ったらいいんだろう、とか。ごく当たり前の少年がはじめてのデートを前にした不安。 今夜のことはいつになっても忘れないだろうな、コンラートは思う。事実、決して忘れることはなかった。後年、コンラートは折に触れて思い出すことになるのだから。 頭上には綺麗な半月がかかっている。振り仰いで手をかざす。 あの人も家でこの月を見ているのかもしれない。 そう思っては苦笑いを浮かべてしまう。妙に感傷的で、いっそ少女趣味に過ぎる自分の感想。 人を好きになる、というのはこんな思いを抱くものなのか、と。 「コンラート」 寮内から声が聞こえた。 光を背後にした人影が手を振っている。 「いま戻るよ」 声をかけ、もう一度空を仰いだ。 眠れなかった。 部屋の反対側、露貴の静かな寝息が聞こえている。とっくに夜はふけていた。 彼を起こさないよう、そっとカーテンを開ける。 半月はすでに見えなかった。もう沈みかけているのかもしれない。 それがなにとはなしに残念だった。 先ほどのあの、夢想。夏樹が見ているかもしれない。 くすぐったいような思いだった。 カーテンはそのままにコンラートはベッドに戻る。温かいベッドもちっとも眠りを誘わない。 高揚している。 それを思えば苦笑いも浮かび、余計に眠れなくなる。 「どうしよう」 小声で呟いた。 なにが、とかなにを、とかそういうことではない。ただ、正に露貴が言う通り、浮かれているのかもしれない。 しかしコンラートとしては浮かれているだけではなかった。 やはり、不安だった。たった一言の失敗で、彼から愛想をつかされてしまうかもしない。それを考えるだけで本当に眠れなくなってしまう。 かと言って、こんなに期待もあらわな寝不足の顔のままではやはり、彼に嫌われそうな気もする。 寝返りを打ち、布団を頭までかぶってうずくまる。彼の笑顔が瞼の裏に焼きついている。 自分と出かけるのを楽しみにしてくれているらしい笑み。笑うと意外とあどけない顔になるんだ、と知った。 まだ幼くても当然の年齢だというのに。なぜか彼には幼さが似合わない。 「いや……」 違うな、コンラートは思う。幼いはずなのだ。けれど彼は自分でそれを押さえつけているのではないだろうか。 背伸びをしているのとは違う。幼いままでいることを自分に許していない、そんな印象を受ける。 まるで、最愛の兄のように。 コンラートはその連想に強く首を振り、退ける。 彼は兄ではない。それに、兄には頼るべき人も、そばにいてくれる友も、いなかった。 自分は。 そう、せめて彼の友でありたい。彼の行く道を自分がひくことはできないし、するつもりもない。 けれど、振り返ったときにいつもそこにいられればいい。彼が少し立ち止まったとき、追いついてただ、そばにいられればいい。 いまはまだかなわない。 それほどの人間ではない。だから、そうなるよう、努力は惜しむまい。コンラートは今、それを決めた。彼が必要としてくれる限り、友でありたい、と。 高校を卒業したら、ドイツに戻るつもりだった。つもり、というよりなにも考えていなかった。留学が終わったのだから、戻る。それだけ。 が、いまは違う。 「決めた」 進学する。大学に行こう。日本の大学に進めば、それだけ彼のそばにいられる時間が増える。それからあとのことは――また後のこと。 まだ、誰にも言うまい。露貴は言わなくとも察してくれるだろう。夏樹に言えば、動揺させる気がする。自分のために、と彼はきっと思ってしまう。だから、もっともらしい理由ができるまで、彼には黙っておこう。ただ、ドイツの次兄にだけは言わなければならないな、それを思えば少しばかり憂鬱ではあった。 仲が悪いわけではない。むしろとても可愛がってくれている。 しかしコンラートは年頃の少年なのだ。自分では少年、とは思っていない。男だ、と思っている。が、周りから見れば精々が半人前の少年なのだ。 兄もそう思っている。だから弟のため、なにくれとなく世話を焼きたがる。ドイツにいたときにはそれほどかまわれたわけではないのに。そう思っては苦笑い。やはり離れていると気にかかるものらしい。 大学に行く、などと言えばまたきっと心配する。心配した挙句、決心はひるがえせないと知って落胆し、次いで菓子だの服だのを送ってくるに違いなかった。それも大量に。 「困ったもんだよ」 長兄とは似ていない風貌。それが懐かしかった。似ていないからこそ、思い出せる。 元気かな、故郷の黒い森の景色の中、兄の顔が重なって笑っている。まだ少年じみた顔。自分の視点はずっと低くて。 ――あぁ、子供の頃だ。 走り回って遊んだ思い出が浮かんでは消え、そうしているうちにいつしかコンラートは眠っていた。 昨日は一日中おろおろとし通しだった。きっと露貴の目から見れば今日もおろおろとしていることだろう。 一応は後見人殿の家に行くのである。なにか手土産のひとつも持っていくべきなのだろうか、と気づいたのはすでに昨日の夕刻過ぎ。 「うわ、まずい」 「どうした」 「なんか、土産もって行ったほうがいいよな」 「どっちでもいいと思うけど? 叔父さん、そういうことにこだわる質じゃないし」 「でも……」 「あぁ、じゃあさ、こないだ兄さんから荷物届いたって言ってなかったっけ?」 その菓子でも持っていけば、珍しいし。そう露貴が言う。 それではじめて兄から菓子が送られてきていたことにコンラートは気づいた。あらかたは寮の仲間と食べつくしている。が、しかしなにかの折に食べようと一箱残しておいたのだった。 「あ、あれか」 そうだ、コンラートは思い出す。試験が終わったらみんなで食べよう、と思って取って置いたのだ、と。 「それそれ。もって行けば?」 せっかくの露貴の提案なのでそうしてしまうことにした。あえて打ち上げに食べようと思っていたことは、伏せる。言ってしまえば間違いなく「なにか代わりに買って来い」と言われるに違いない。 コンラートはその菓子を紙袋に入れ、身支度を調えて鏡の前に立つ。とりあえず見苦しくはない、はずだ。 鏡の奥に露貴が映った。 「なに笑ってるわけ」 「別にー」 言いながらもにやにや笑いを止めようとしない。 「コンラート」 「なに」 「顎んとこ。髭、剃り残してるぜ」 「え、嘘」 慌ててまじまじと見れば、確かに。大急ぎでシェーバーを取りに戻るコンラートの向こう側で 「デートって大変だねェ」 露貴がベッドに転がって笑っていた。 |