夏樹のことで浮かれ騒いでいたが、ふと気づけば中間試験が目前に迫っていた。いい加減、真面目に試験勉強をしなければ大変なことになる。 寮の自室でともかくも教科書を開いて、そして頭痛がした。 「露貴、頼みが」 先日、彼の英語の宿題を手伝うのをすげなく断ったことがちらりと頭を掠めたものの、そんなことはおくびにも出さずコンラートは笑顔で近づく。 「えー。なんかいやだな」 冗談交じりに嫌な顔をして見せるのに手を振って、ここぞとばかりに頼みごと。 「古典、教えて。頼む」 留学してそろそろ一年半が経とうとしている。元々が勉強熱心なコンラートのこと、日常会話に支障はないし、難解でなければ漢字もさほど問題ではない。 だから現代国語の試験は「人より頑張る」という程度でいいのだ。それほど成績は良くなかったけれど、取り立てて学年トップをとろう、というわけでもない。 だがしかし、古典となると話が違う。現代日本語で苦労をしているところにさらに別の言語を習うようなもの。いかに語学の才能があるとは言っても少しばかり荷が重い。 「しかたないな、じゃ取引」 「なんだよ取引って」 「古典のご教授はしましょ。代わりに……」 「英語?」 「そ、ね?」 日本人にしては色素の薄い目をわざとらしく潤ませて見つめてくるのにコンラートは大笑いをし、つられて露貴もまた笑う。 コンラートとて英語がそれほど得意、というわけではなかったけれど、日本語を母語にしている露貴よりは覚えが早かった。 「だいたいさ、むごいよな」 「なにが」 「どうして英語と古典が同じ日に試験なんだよ」 「それのどこがむごいんだよ」 「一日に語学二つは厳しい」 「……露貴、日本人だろ」 古典を語学と言い切った露貴に呆れてしまう。 「あんなもん外国語だって」 それをさらにきっぱり言いののけた露貴。呆れるのを通り越して吹き出した。 「だいたいな、コンラート」 憤然として露貴は指を突きつけ、滔々とまくし立てる態勢に入っている。 「お前、ラテン語を普通に読めるか、読めないだろ。教養だったのって昔の事だと思うけど、どうよ」 「わかった、わかった。俺が悪かったって」 いったいなにが言いたいのかわからないが、とにかく露貴も古典が得意ではないことだけはよくわかった。そんな彼をこれ以上笑っては教えてもらえなくなること請け合いだった。 「そもそも俺に頼むのが間違ってるんだって」 「露貴ほど気安く言える友達がいない」 「……寂しいやつだなぁ」 「真面目な声で言うな」 真剣に言われては思い切り落ち込みそうになってしまう。知らず頭を抱えたコンラートの頭上に笑い声が降ってきた。 「悪い。許せ」 「許すから教えろよな」 「だからね、俺じゃなくって夏樹に頼めばよかったんだってば」 「だって……」 「中学生に教えてもらうのはプライドが許さない?」 笑いを含んだ声が言う。 「そういう問題じゃなくて、まだ習ってないんじゃないのかな、と」 「あいつ、古典得意だから高校レベルだったら全然問題ないさ」 そう、そそのかす。自分で悟られるな、と言ったくせにコンラートをわざわざ夏樹に近づけようとしている。 不意に心の奥が温かくなる。露貴なりに応援していてくれるのかもしれない。夏樹を決して傷つけることはない、と知って、ならば少しでもコンラートで幸福であるように、と気遣ってくれている。 良い友に出会えた、そう思う。 「……期末の前には頼もうかな」 「いまじゃなくて?」 「あの人も試験前だろ。急に言って迷惑はかけたくない」 知らずコンラートの口許に笑みが浮かぶ。いったい彼はどんな顔をして教えてくれるのだろうか。同じ時間を持つことが出来るかもしれない、そう思うだけでこんなに胸が温かい。 「……ひとつ聞いていいか」 いささか険悪な露貴の声も気にならなかった。 「ん? なに」 「あいつは迷惑かもって思うくせに、俺はどうでもいいのかよ」 「その辺は、まぁ、あれ、ね」 「ほんっと、そういう日本語だけは覚えんの早かったよなっ!」 荒々しい言葉の向こう、露貴が笑っていた。本気ではない、よくわかっている。 寮の自室の隣り合った机に並んで座って、じゃれるように言い合いをして。こうやって少しずつ言葉を覚えていくのも楽しかった。今ではすっかり露貴に言い負かされることもなくなっているが、彼としてはそれが悔しいやら嬉しいやらで複雑らしい。 「なにせ先生がいいんでね」 言い返せばとんでもないものが飛んでくる。 「うわっ」 危うくよけたのは、辞書。それも国語辞典の大きいもの。なにもわざわざ本棚から抜いてまでこんなものを投げなくともよさそうなものなのに、露貴は容赦なく投げる。そんなところが好きだな、と思うのだからコンラートもどうかしている。 「それは俺の口が悪い、と言うことかね、コンラート君」 「誰もそんなこと言ってないじゃんか!」 「言ってるように聞こえたけどなー」 「被害妄想だって。言ってない、言ってない」 「聞こえた」 「露貴」 わざとらしくコンラートは心配げな声を出す。ついつい吹き出しそうで困ったが、それでも彼の手まで取って露貴の顔を覗き込む。 「耳鼻科行け」 びくり、露貴の眉が跳ね上がる。 「どっかに広辞苑なかったっけ。あれでぶん殴られたらさぞかし爽快だろうねぇ」 にっこり笑って言う露貴にコンラートは両手を挙げた。かなうものではない。本気でやりかねない。 「ごめんなさい。俺が悪うございました。だから古典教えてください」 深々と頭を下げて見せるコンラート。鷹揚に微笑んで受け入れる露貴。 互いが互いの姿に爆笑し、そして気づく。 「……遊んでる場合じゃないんだよな」 「そうなんだよね」 二人して思い切り溜息をつき、ようやく教科書に向かう。 どうして試験前はこんなに馬鹿な会話が楽しいのだろう。いつも試験前の寮は騒がしい。談話室になど行こうものなら消灯まで決して自室に帰ってなどこれやしない。また、自分も帰ろうなどとは思わず遊んでしまうのだった。 頭痛の種の数学の教科書と睨みあいつつ、お互いにいつまで真面目に勉強していられるかわかったものではない、と心の中で思っていた。 どこかで悲鳴が聞こえた。むしろ歓声、と言ったほうがいいかもしれない。 あっという間の試験最終日。終了のチャイムと共にあがったのはやはり、歓声と言うべきだろう。 「どうよ、コンラート」 露貴がげっそりした顔に笑みを浮かべて訊いてくる。 「まぁまぁかな」 言えば、ちっと舌打ちが飛ぶ。 「ゆーとーせーは違うよな」 忌々しげに言うのだが、コンラートはひるまない。成績優秀、と言う意味では露貴の方がはるかに上なのを知っているのだ。 「とりあえず赤点はまぬがれるかなってことなんだけど」 「お前が赤点? 信じがたいね」 「……古典はねぇ」 「あぁ、古典かぁ」 「赤点取らないようにするのが精一杯だな」 「ま、俺の英語と似たりよったりか」 茶化して笑うのが露貴でなかったら、癇に障るところだな、コンラートは思う。癇には障らなかったけれど心の中で「誰が赤点だよ」と突っ込んでは、いる。 「試験終了の祝いに甘いもんでもいかが?」 自分が茶化したことなどすっかり忘れて露貴は誘う。無邪気な、と言えばきっと彼は怒るのだろうが、そんな辺りがコンラートには好ましい。 「残念。とりあえず図書室」 「なんだよ」 「借りてる本があるんだ、それ返してこないと」 「んじゃ、寮で待ってるわ」 あっさり言ってはひらひら手を振り背を向ける露貴を笑顔で見送った。 図書室は閑散としていた。無理もない。試験中は自習に励む生徒であふれていたのだが、終わってしまえば用もない。 図書委員と司書が手持ち無沙汰にカウンターで栞作りをしているのが返って寂しいばかり。 コンラートはさっさと返却を済ませ、それからなにとはなく書架の間をめぐっていく。 こうやって本の間を歩くのが好きだった。印刷物の匂いだとか、背表紙の色合いだとか、そんなものを感じながら歩を進めていくのは、楽しい。 「あ」 背後で声が聞こえた。澄んだ高い声だった。 誰もいないと思っていた書架の間で聞こえた声にぎょっとする。そもそも、その人のことを考えていたのだから。 試験が終われば試験休みにはいる。中高一貫の紅葉坂では教師陣も中高兼任のせいで、中等部にも試験休みがある。 一週間の休み。普段ならばコンラートとて歓迎したことだろう。が、しかし。いまは。 試験中とは言っても夏樹に会えた。廊下ですれ違ったり、図書室でめぐりあったり。一言二言、言葉を交わすだけ。 それでも会えなかったわけではない。 でも休みに入ってしまっては、会えない。 寮生の自分と、自宅組の夏樹と。 後見人の家なのだから挨拶にでも行けばいい。そうも思う。でもいままで一度たりともそんなことはしたことがない。返って、不自然ですらある。 彼に会えない。そう思っただけで寂しさに胸が苦しくて仕方なかった。 せめて休み前、彼と会うこともあった図書室に来たかった。彼の姿がないと知っていて、来てみたかった。 それなのに。 「夏樹さん……」 中等部の濃紺のブレザーが、薄暗い図書室の中に浮かび上がっていた。 「驚いた」 そう言って彼は少しだけ笑った。 「そんなに驚いた顔しましたか」 「うん」 「もう、帰ったと思ってましたしね。中等部の試験は一時間前に終わってるでしょう?」 「暇だし」 ぷい、と横を向いてかすかに唇を尖らせる。妙に子供じみた仕種。それを見せてくれるだけ、自分に心を許してくれているのだな、コンラートはそう悟って自然、口許に笑みが浮かんだ。 「休み、暇?」 「特別これと言って用はないですよ」 「じゃあ、野毛山」 彼が言った瞬間、コンラートの心が躍る。会えない、と思っていたその夏樹に誘ってもらえた。しかも以前の約束を覚えていてくれた。 それがこんなにも、嬉しい。 「あなたの都合のいい日でいいですよ」 「二十四日は」 「月曜日ですけど、開いてるんですか」 「休み、木曜だから」 博物館だとかそういうものは、てっきり月曜日が休みだと思い込んでいた。 ばつの悪い顔をしたコンラートに今度こそはっきり夏樹は笑って見せ、 「半分、私営だから」 そう言ってくれた。彼なりに慰めようとしているらしいことは伝わって、コンラートも照れたように笑い返す。 「待ち合わせ、どうする」 「そうですね……迎えに行きましょうか。小父さんにもずいぶんご挨拶してないですし」 「どうせいないよ」 さっきまで思ってもいなかったことを口にしたコンラートに、夏樹はあっさりそう返す。かといって来るな、と言っているわけではないようだ。 「何時ごろ、来る?」 そう言った言葉でそれは裏付けられる。 「せっかくだから、十時ごろはどうです」 「俺はいいけど」 「ここから夏樹さんところまでたいして距離じゃないですし、私もそれくらいの時間なら大丈夫」 「じゃ、待ってる」 ふっと浮かんだ笑顔。心から楽しみにしている、と言外に伝えてくるその顔は、まるでデートのようだ、と舞い上がっているコンラートをさらに有頂天にさせかねないものだった。 「時間は」 問われて一瞬言葉につまる。いまの事を聞いているのか、それとも当日の事を聞いているのかわかりかねた。 コンラートは夏樹をうかがうように見る。なにがどう、と言葉で言えるものではない。 でも、わかった。視線だとか、態度だとかと、そんなものかもしれない。 「当日ですね。もちろん一日あけておきますよ」 思わず「もちろん」に力が入ってしまう。それを自覚したコンラートは心の中で苦笑い。 だが夏樹は。たかがあれだけの言葉でよくわかる、と相変わらずの感想を持ったようだった。そしてまた、嬉しい、とも。 柔らかな笑みでそれと知れた。 「せっかくだし、遊び、行こうよ」 「喜んで」 |