無言の二人の間に、なにか柔らかい空気のようなものが流れる。お互いに口を開くことはない。それがこんなにも心地いい。
 先程、図書室で読んでいたときにはさっぱり身が入らなかった篠原の「旅行記」も、いまこうして隣に夏樹がいて覗き込むようにして一緒に読んでいれば、驚くほどに楽しく読むことが出来る。
「カイル……」
 西本が現れる前に言いかけたなにかを思い出したのか、夏樹が顔を上げて呼びかけた。
 そのときに再び、足音。
 彼にしては思い切り歪めた顔をしてそちらを見やった。
「驚いたな……」
 木の陰から姿を見せたのは西本ならぬ露貴。コンラートの視界の端にほっと夏樹が息をつくのが映った。
「コンラートがいるかと思って探しに来たんだけどお前が一緒だとは思わなかったよ」
 そう従弟に向かって微笑んだ。
「偶然」
 やはり従兄に向かっても同じような短い言葉遣いをし、露貴もそれで理解しているらしい。自分よりもはるかに長い付き合いなのだから、と思っても少しばかりの嫉妬はやむをえない。二人の間からそっとコンラートは視線を外した。
「俺、行くから」
 それを見て取ったわけでもないはずなのに夏樹は軽くコンラートの腕に手をかけて、言う。それがまるで露貴は露貴、カイルはカイル、従兄弟と友人はわけが違う、信じているから、とでも言っているように思えてしまう。
 そんなわけはないのに。
 一瞬でもそう思った自分に内心で苦笑し、コンラートはうなずく。そして夏樹と同じように視線に言葉をこめる。西本のことは言いませんよ、と。
 そんなコンラートに夏樹はかすかに目許だけで笑って見せては立ち上がる。そして二人に軽く手を振って帰っていく。
「カイル」
 木立から抜けるその直前、夏樹が振り向いた。
「今度、野毛山行こう」
 それだけ言って返事も聞かずに立ち去った。
 さすがのコンラートもこれには呆然とするしかない。野毛山と言うのはどこなのか。山登りの趣味があるとも思えないし、そもそも脈絡がない。
「ははぁ」
 だがしかし、どうやら露貴は理解しているらしい。それが悔しかった。
 きっとそんな顔をしたのだろう、露貴がにやりと笑って片目をつぶる。
「お前、よっぽど気に入られたんだな」
「なにがだよ」
「あいつが遊びに誘うなんてとこ俺、はじめて見た」
「遊び?」
「それだよそれ」
 そう言って露貴はまだ膝に乗せたままだった「旅行記」を指す。
「野毛山公園ってとこにな、篠原記念館があるんだ」
「この著者の?」
「そうそう。で、あいつはそこに一緒に行こうって誘ってたわけさ」
 コンラートの顔が知らずほころぶ。無意識のうちに本の表紙を撫でていた。
「嬉しい……」
「ご指名だしな」
「そんなんじゃ……っ」
「どこがさ。正に『そんなん』だぜ?」
 わざと下卑た声を上げて笑ってからかって見せる露貴に、コンラートもまたわざと殴りかかるふりをする。
「……ごめんな」
 笑い声を不意に収め、露貴が言う。
「気にしなくっていいってば。お前に軽蔑されないだけで充分」
「そうじゃない」
「じゃあ……」
 彼にしては珍しく、言い難そうに口をつぐんで視線を外した。
 木立の木漏れ日もずいぶん翳り、風が冷え始めている。夕暮れの赤い光が差し込んで露貴の横顔を染めていた。
「さっきあいつ……お前のことカイルって呼んでたな」
「……ああ」
「お前が?」
「うん」
 細かい経緯は抜きにしてコンラートは彼にそう頼んだのだ、と話した。
 それを露貴はただ黙って横を向いたまま聞いていた。
 露貴は知っていた。
 コンラートに最愛の長兄がいたこと。その兄が自分のせいで亡くなったと言ってもよいこと。愛する兄が自分をどんな名で呼んだかということさえ、すでにコンラート自身から聞いて知っていた。
 だから、余計につらいのだ。
「つらいよな、ごめん」
「お前のほうがつらそうだって。大丈夫、俺は」
 ありありと無理をしているのがわかる顔をして言うコンラート。それに付き合うしかないのもまた、露貴にはつらい。
 コンラートにとって「カイル」の名がどれほど大切なものか知っている露貴は、彼がその名を夏樹に呼ばせているのを聞いて身をかきむしりたくなるほど悲しい。
 いっそ友の恋を心から応援できたならばどれほど楽か。けれど、思う。
 友に最愛の兄がいたように、露貴にとっては従弟が可愛くてならない。あれほどまでに精神の幼い従弟を守ってやりたい。いまコンラートに裏切られた、と感じたならば、もしかしたら夏樹は立ち直れないかもしれない。
 そう思うからこそ、友につらい思いをさせている。
 友人思いの露貴は、これが悲しくてならなかった。
「俺はね、露貴」
「うん?」
「あの人にあの名前で呼んでもらえるのが、嬉しいよ」
 それでいいんだ、今は。
 そう、コンラートは笑った。
「で、お前はなんて呼んでるわけさ」
 いつまでも悩み顔をしているのは露貴の性分ではない。つらいつらいと言っていてもつらさが減るわけではないのならば、いっそのこと笑い飛ばした方がいい、そう思うのが彼と言う人間だった。
 だから茶化してみせた。
「え、あ。それは」
「照れるなよ、気色悪い」
「自分で聞いたんだろ!」
「ほらさっさと吐けってば」
 ひらひらとコンラートの顔の前で手を振って意地悪を言う。
 こんな顔をするならば、もしかしたらつらいだけの思いをさせているわけではないのかもしれない、と思いながら。
「……さん、て」
「えー。聞こえなーい」
「お前な!」
「だって聞こえないんだもーん」
 耳まで赤くなって照れてはわめくコンラートを見ているのは気持ちよかった。
 それは決して意地悪な感想ではなくて、ほんの一瞬であってもこの友が幸せであるということが心から嬉しかったのだった。
「で。なんて呼んでるって?」
「ったく。……夏樹さんって呼ばせてくれた」
「……お前さ」
「なんだよ」
 すっかり機嫌を損ねて、あるいは照れてそっぽを向いたコンラートに露貴は呆れて言う。
「自分が年上だって自覚、ある?」
「別に関係ないだろ」
「そりゃないけどさ」
「あの人も……それでいいって言ってる」
「そか。ならいいや」
 わずかな懸念が露貴にはあったのだった。年上のコンラートに敬称つきで呼ばれたりしたら夏樹がどんな思いをするのだろうか、と。
 本人が彼にいいと言ったのならばそれはきっと嘘ではないはずだ。そもそもそんな嘘がつけるくらいならばあのような性格にはなるまい。
 そう思ったら知らず露貴は吹きだしていた。
「ホント失礼なやつだな」
「悪い。思い出し笑みたいなもん」
 あえてそれがなんだったのかコンラートは追求しない。少なくとも名前の一件で、どれほどまでに彼が従弟を案じているのか、よくわかった。
 いまのコンラートは夏樹を悲しませたくないのと同じくらいこの良き友を傷つけたなかった。
 夕暮れの最後の光が没したのか、あたりが急に暗くなる。風もすっかり冷えていた。
 どちらからともなく二人は立ち上がり、他愛ないことを話しながら寮に戻る。
「晩飯、なにかな」
「肉じゃがだったっけなぁ」
「あれ、あんまり好きじゃないんだよな」
「なんでさ。芋じゃんか。ドイツ人だろ」
「芋食ってりゃ幸せってわけでもないんですけど」
「ま、そりゃそうだ」
 馬鹿な会話が妙に楽しかった。そんなときも、ある。

「そういえば」
 ベッドの中でぬくぬくとしながらコンラートは露貴に話しかける。その露貴は、といえばいまだ机にしがみついて宿題を片付けている最中だ。
「んー」
 だから返事もはなはだ上の空だ、と言わねばなるまい。
「さっき、探しに来たって言っただろ?」
「言った言った」
「なにか、用だったの」
「……別に」
 わずか口ごもったのをコンラートは見逃さない。普段だったら言いたくないことをわざわざ追求するような真似はしないのだけれど、今回ばかりは訊ねてしまう。
「西本さん、だっけ? そのことじゃないのか」
 そう、確信があったから。
「お前……」
 そしてその確信はどうやら正解だったらしい。露貴は呆然とした顔をしてこちらを向いていた。
「あったのか?」
「いや」
「じゃあ、なんで知ってるんだよ」
 逆に問われて言葉につまる。夏樹には言わない、と誓った。口に出して誓ったわけではないけれど、コンラートにとってはそれに等しい。言ってみれば「夏樹式」に言葉にしたわけだったのだから。
「彼に、警告されたんだ」
 結局ためらった挙句にそれだけを言う。
「……なるほどね」
 露貴もまた短くそれだけを。
「だからさ」
 察しのいい友と言うものは貴重であるとともに厄介だ。いまコンラートが口にしなかったことも露貴にはおそらくわかってしまっただろう。
 なぜあの時、夏樹が警戒した顔をしていたのか。いまコンラートの口から西本の名が出たのか。露貴には理解できたに違いなかった。
「まぁ、いいか」
「そういうことにしてくれよ」
「了解」
 軽く手をあげて見せ露貴は笑う。
「あいつに警告されたんだったら言うまでもないことだけどさ。西本にゃ気をつけろよ」
 笑い顔を一瞬のうちに消して彼は言う。それにコンラートは驚くのだった。確実に夏樹は西本を嫌がっている。だが、その西本が自分になにかするとはやはり、思い難かったのだった。
「奴は夏樹に異常に執着してる」
「あの人が、好き?」
「惚れた腫れただったら別に当事者同士の問題だし、なんにも言わないさ。反対はするけど」
「言ってるだろ、それ」
「だって俺、西本嫌いだもん」
「……まぁいいや。それで?」
「西本本人は夏樹に惚れてると思ってるのかもしれないけどさ、奴はあいつが欲しいだけ。夏樹の意思なんかどうでもいい」
 吐き捨てるように言った露貴の言葉。コンラートも同じ嫌悪を感じていた。
 その言葉の通りならば、絶対に許すことなど出来ない。大切な人の感情を無視してまで自分の思い通りにしたい、など愛情などとは呼ばない。
 いまだかつて感じたことのない強い、それは嫌悪だった。
「だからさ、奴はあいつに近づくやつを力ずくで排除しかねないから」
 気をつけろ。真摯に忠告してくれる露貴を心からありがたい、と思う。同時にそれが夏樹のためになるならば自分のほうこそ西本を排除してしまいたい、とも思う。出来るならば、だが。
「まったく。信じがたいな」
 いったいどんな世界に紛れ込んでしまったのだろう。当事者だと言うのに半ば呆れてしまう。
 ここは現代の日本で、山奥でも絶海の孤島でもない、都市部の学校だ。確かに男子校ではあるし、寮もある。が、なにもわざわざ下級生の取り合いをするほど女性を目にする機会がない、などということはないのに。
 そう考えたらつい、コンラートは笑ってしまった。
「笑い事でもないんだぜ」
 少しばかり拗ねたように言った露貴に、コンラートは思ったままのことを告げれば、やはり露貴は呆れた顔をし、次いで案の定、笑い出した。
「言われてみりゃその通り。抽象化するとけっこう笑える」
「だろ」
「でもな、コンラート」
 ひとしきり笑った後、露貴は真面目な声で言いつのる。
「西本のせいで退学に追いやられたやつがいるってこと、覚えといた方がいい」
「そんな……」
「嘘じゃないんだ。まだお前がこっちに馴染む前だったから」
 気づかなかったのかもしれない。そう言って露貴は続ける。
 実際なにがあったのか事実はわからない。本人は学校に来なくなってしばらくして休学になった。その後戻ってくることなく退学した、と言う。
「まぁあいつにしてみればどっちもどっちの嫌な男だったろうし。同級生からも好かれてた、とは言いがたいからなぁ。それであんまり騒ぎにならなかったってのもあるんだけど」
「でも事実なわけだ」
「そう、事実なわけさ」
 ひょいと肩をすくめて見せ、再び気をつけろよ、とだけ言い机に視線を戻す。露貴にはそうしか言いようがなかったのだから。たとえ危険だとわかっていてもコンラートが夏樹を諦めることはないだろう、と。
「それからもうひとつ大事なことが」
 視線は机に向けたまま。露貴が言う。その言い難そうな様子にコンラートは内心で身をすくめてしまう。
「……なに」
 ついつい乗り気でない返事をしてしまうのもやむをえないところと言うもの。
「英語の宿題、手伝って」
 情けない声の露貴に、いったいコンラートがどんな返答をしたかは、言うまでもあるまい。




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