すぅっと、彼が目を開けるのは何度見てもきれいな光景だった。
「あ……」
 ベッドサイドにかしこまったカイルを見て小さな声を、あげる。夢じゃなかったのか、そんな形に唇が動いた。
「帰ってきて、しまいました」
 ためらったカイルの言葉にただ、夏樹はうなずきを返すだけ。それでも今ここにいる事を容認した仕種だった。
「仕事、たまってるからな」
 目を合わせず、彼が言う。照れていたのかもしれない。なぜかそんな風にカイルは思う。
「実家に用があったことになってる」
「はい……」
「会社、どうなってる?」
 そう訊いたのは、カイルのことだから帰ってきた以上それなりの手は打っている、そう判断してくれたからか。
 どこかで掛け違ってしまった信頼のボタンがまた、元に戻る。思わずカイルの口元に笑みがこぼれた。
「今は先代と冬樹さんが業務を見てらっしゃるそうです」
 彼の父と弟が忙しいなか手分けをして仕事を見ている。そう教えてくれたのは先ほど食事をともにした露貴だった。
「まだフユは大学生だってのに、まぁ叔父さんの手伝い程度だったらできるらしいな」
 冬樹はいま大学の四年生のはずだった。若年のうちから有能なのは父祖の薫陶かそれとも家系か。
 場当たり的な対応ではあるけれど今は父が社内を取りまとめ弟がその代理として外を飛びまわっているという。それを彼に伝えればかすかにうなずく。
「そうか」
「カイザーのお許しが頂ければ……」
「親父に冬樹だけじゃ荷が重い。明日から出勤、できるな?」
 初めてまともに見合わせてきた目が、蒼の色を強めた。まるで睨みつけるように。
「はい」
 ただそれだけを答えたカイル。表情さえ変えずにそれだけ。その胸のうちがどれほどの喜びに満たされているのか、きっと彼にはわかってもらえないから。
 夏樹の側にいる事を許された。例えそれがただの片腕に過ぎなくとも。傍らで、彼のために働いていられる。
「……別れたから」
 突然、ぽつり。言った意味がわからなかったわけではなかったけれど、しかし。
「え?」
「だからッ」
「あ、いえ……わかりました」
「……ったく」
 癇性に声を荒らげてまた、目をそらす。
 カイルとの信頼関係を崩してさえ、側におこうとしていた恋人と別れたと言う。
 彼の気性ではあんな事があったのだから当たり前ではある。
 しかし怒りを解いた時にもし真琴が願うのならば夏樹はきっと、またともにすごす事を望むだろう。
 なぜというわけではなくカイルはそう思っていたから。別れた、ということは夏樹自身にもう真琴への想いがない、ということ。
 決して真琴の方から去っていったのではない事がカイルにはそれだけの言葉でわかる。
 不思議でもあり嬉しくもある。それを彼が自分の口から告げた、ということが。まるでカイルを想ってくれてでもいるようで。
 あの白昼夢が。
 蘇る。
「誰が知らせた?」
 事故を起したと誰が知らせた、そう訊いているのか。
 相変わらず言葉すくなにしか言わない彼の、そんな物言いが懐かしい。
 懐かしい。そう思ったらどんなに長く彼の元を離れていたのか自覚した。
 こんなに離れていた事ははじめて会ってから十五年、一度もなかった。
「露貴が電話をよこしました」
「そうか」
「ご迷惑でしたか?」
「そんなことは誰も言ってないだろっ」
 そう言うだろう、と思って。
 わざと問うたのだと、夏樹は気づかない。それでいい。カイルが相手だから、声を荒らげようとも語調がきつかろうとも。夏樹は穏やかな気分で対応している。信じてもらえている。さりげなく何度も、それを確かめたかった。
 目をそらしたままの夏樹をいいことにカイルはそっと微笑する。
 なぜか、ままごとのように腕に抱いていたあの日よりもずっと、彼が側にいる、そんな気がした。

 毎日、昼休みのほんの三十分ほどの間、カイルは夏樹の元を訪れる。
 見舞い、ではない。仕事の報告をしに、ただそれだけのためにくる。
 一分の隙もなく身につけたスーツ。それがもしかしたらカイルの精一杯の壁、なのかもしれない。
「……以上ですが、なにか?」
「それでかまわない」
「はい」
 報告をする側と受ける側、それぞれがそれぞれの意図を持って、目をあわせようとしない。最初に視線をはずしたのはどちらだったか。
 夏樹だった、カイルは胸のなかで苦味をかみしめる。
「時間、いいのか?」
 そんな言葉でカイルを会社に帰そうとする、追い払うように。そんなわけはないはずだと思いはしても、不安ばかりが頭をよぎった。
「いえ、もう戻ります」
 そう言った瞬間、夏樹はいつもほうっとひとつ、溜息をつく。
 わざとではない。もちろん。本人も気づいてはいないくらい小さなそれは、まるでカイルがいなくなるのに安堵するかのような、溜息。
「邪魔なのか……」
 そんな苦さをかきたてる。一度は元に、戻れたはずなのに。そう思ったこと自体が胸に痛い。
「また明日、報告にきます。カイザー」
 わかった、などと彼が言うわけもない。ただひとつ肯いて顔ごとカイルから背けた。
 言葉が少ないのは昔から。判りきったことを言うのも返事をするのも嫌いだった。
 ふと、気づく。気づいてしまう。気づかなければ、よかった。
 仕事に復帰してから夏樹は一度も、カイルの名を呼んだことはなかった。
 暗澹たる思いを抱えて病院の廊下を歩く。
 会社に戻るまでにはいつもの顔を取り戻さなければならない。
 夏樹との溝はあくまでも個人的なこと。何があろうとも業務上の支障は出ていないのだ。また、出してはいけない。
 入院加療中ではあっても夏樹は良き経営者で、カイルは復帰直後であっても勘を失う事のない優秀な秘書だった。二人の個人的な意思疎通が上手くいかなくともそれは変わらない、変わらない事が。
「苦々しい……」
 カイルはそう思う。

 今日も自分がいらついているのがわかる。廊下の消毒臭にさえいらつきが募った。
 昨日も病院を出るときに浮かんでいたひどい顔を会社につくまでに戻すのがどれほどつらかった事か。どうしようもない溜息が、もれる。
「ちょっと!」
 甲高い女の声に呼び止められて不審げに振り返る。
「……なにか?」
 振り返った先には看護婦が仁王立ちしていた。
「なにか、じゃありませんよ。水野さんは怪我以上に過労で休養が必要、と申し上げていたはずです。毎日仕事の話をされたんじゃなんの休養にもならないでしょう!」
 立て板に水の勢い、とはこのことか。
 こっちにはこっちの事情というものがある。ただ彼の顔を見にきたい、というもっともな、事情が。
 そう言ってやったらこの看護婦はなんと言うだろうか。そんなことを考えている自分に胸の内、自嘲がもれる。
 言えるわけがない言葉。彼女にも、誰よりも彼に。会いたい。話がしたい。せめて顔だけでも見たい。言えるはずもない。
「わかりました。今日は伺いませんと、カイザーにそうお伝えください」
 苦笑いとともに言い捨てて看護婦の返事など待たずに歩き始め。遠くの方でまだ呼び止めている声が聞こえたけれど、カイルの足は止まらなかった。
 病院の玄関を抜けたら雨が、降っていた。
 夏の細かい、雨。見上げて不意に中庭へと足を進めた。雨を含んだ芝の冴えた緑を踏んで歩けば、草いきれが立ち上る。夏の、匂い。
 中庭からは病室の並んだ窓が見渡せる。見当をつけて、ひとつの窓を見上げた。鬱陶しく湿った髪をかきあげれば思ったよりずっと雨に濡れていた。
「あ……」
 そう驚く事はなかった、と苦笑う。
 二階の窓のなかには彼の、姿。それからあの、看護婦が。立ち上がり身振り手振りも大きくなにかを言っている、夏樹。たぶん怒っているのだ。
 あの看護婦に怒っているのだろうか。なにを。
 特段彼女に同情したわけではなかったけれどこのまま怒らせていたらそれこそ傷に障る。
 小石を拾って軽く窓にぶつけた。
 彼が振り向く。ゆっくりと、まるでスローモーションのように見え。
 久しぶりに目と目が見交わされる。たったそんなことがどうしてこんなにも嬉しいのだろう。
 窓が開いた。
「カイル……」
 耳に聞こえるあの人の声が自分の名を呼んでくれる。優しくうっとりと甘い夏樹の声が自分を呼んでいる。どれほど、彼を想っているのか思い知らされるそんな、声。耳に馴染んで懐かしい彼の声。
「上がってこい」
 報告が必要なのだろうか。
 それとも夏樹は、自分に会いたい、そう言ってくれているのか。
 一瞬浮かんだ幻めいた願いを強いて退ける。無様な幻想を持たなかったからこそ十五年、想っていられた。カイルはそれを知っている。
 けれど、今の言葉は間違いなんかではない、そうどこかでわかっている気も、する。
「水野さん、まだ休まなくっちゃ……」
 したり顔で後ろから彼を止めようとした看護婦に彼はなにも言いはしなかった。
 ただ、黙って彼女を振り返る。射竦める視線は威嚇というよりむしろ恫喝。看護婦が小さく息を飲んだのが見えた。
「上がってこい」
 再び。そう言ってカイルのほうを向いた時にはその目のきつさは消えてなくなり。代わりに浮かんだのは。
「上がってこい。風邪ひく……」
 カイル、呼びはしなかった名が唇で形作られ。
「今日は帰ります」
 カイルの告げた言葉に彼はどうしようもなく傷ついた顔を、した。
 また、誤解してしまう。ずきり胸の奥が痛んだ。
「その代わり……明日ゆっくりと伺ってもいいですか。午前中だけ仕事したら午後は、こちらに」
「……わかった」
 不意に。彼の目が、微笑う。あれからはじめて、久しぶりに目にした彼の微笑。
 いや。こんな風に微笑った顔は見たことがなかった、そんな気がする。
 誤解は誤解ではないのかも、しれない。
「行けよ……濡れてる」
 思い切るように言う彼の声。
 もっと話していたいと、そう思っているのか。窓から見下ろす彼の髪もはや、濡れはじめ。見上げたカイルの髪からは雨が、滴り落ちた。
「あなたが横になるまで、ここにいますよ」
 穏やかなカイルの笑みが広がっていく。
 ゆっくりと肯いて見せれば夏樹は少しためらって立ち尽くす。
「また明日……」
 カイルが動かないのを確認するようじっと見つめ、そう背を向けた。
「おやすみなさい」
 閉ざされていく窓にちいさく呟けば、聞こえたわけはないはずなのに夏樹は一度、振り返ってそれから部屋の奥へと消えた。

 土曜日の、本来ならば休日出勤の仕事が思ったよりも長引いて、彼に約束した午後、がだいぶ遅くなってしまった。
 けれどカイルはそれでも一度部屋に戻って着替えて、それから病院に向かう。
 スーツで行くのがいやだったのだ。仕事の延長ではないのだ、とそんなカイルの意思表示が夏樹にはわかってもらえるだろうか。
 きっとわかってもらえる。だから遅くなっても着替えてきた。
 何度来ても好きにはなれない消毒臭がする廊下。わずかな色がついていなければ見逃しそうなドアをノックした。
「カイザー」
 ノックにも呼び声にも返事はない。返事がない、ということは彼の場合はいっても差し支えない、ということ。
 一呼吸おいてからドアを開けた。
「うわ……っ」




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