背筋が冷える。いやな予感がする。予感、ではない。なにかもっと、確実な、もの。背中に汗が引いては落ちる。 「……背、中」 彼が抱き返してきた、背中。彼の手は。体は。 「つめ、たか……た……」 冷たかった。 嘘だ。嘘だ。嘘だ。信じない、そんな事はない、あるはずがない。 言い聞かせているのにカイルの足は勝手に城に向かって走り出す。彼の声がよみがえる。 「それだけ言いたかった……自分の口でちゃんと言いたかった」 そう言った彼の声が。過去形で言った、彼の、声が。そのために。そのためだけに会いにきたのだとしたら。 「夏樹……!」 「兄さんっ」 息せき切って走りこんできたカイルを驚いたように兄、ヘルベルトが見る。 「どう……」 どうした、そう言いかけたその時ベルが鳴る。電話の、ベル。 恐怖に喉が鳴った。 電話はいつも、ろくな知らせをもたらさない。 義姉が電話に出た声がすぐそこなのに遠く、耳鳴りのように聞こえている。 「コンラート」 ためらった呼び声。 目眩。自分の足がまるで他人のそれのようにぎこちなく動き、誰のものだかわからない腕が伸びて受話器をとった。 「俺だ、コンラート。露貴だ」 予感が現実に姿を変え始める。 「……おい聞いてるか?」 「……すまない。どう、した」 馬鹿みたいに舌がもつれる。 しばらく日本語を話していなかった所為に、してしまいたかった。 「落ち着いて聞けよ」 「落ち着いてる」 「……夏樹が事故を起した」 再び、目眩。急に受話器が重たくなった気がして知らず取り落としそうになった。遥かから聞こえてくる露貴の声にぎゅっと握りなおしてそれを知る。 「とりあえず生きては、いる」 「とりあえずって……なんなんだよ……」 かすれた声は、その先を聞くのが怖いからか。 「そのまんまだ! とにかく、帰ってこい、今すぐ!」 「かえ……って?」 「夏樹が呼んでる。うわごとでお前の事を呼んでる!」 他の、誰でもなく。あの人でも、露貴でも父母でも、なく。この自分を。 「すぐ帰る」 それだけ言って切った電話の前からカイルは振り返る。 「兄さん」 切羽詰った、声。だけれどドイツに帰ってきてからのカイルの声からは想像もつかない、声。 自分のいるべき場所へ、必要とされる場所へ帰ることを決めた、その声。 「すぐに日本に帰ります。手配してください」 例えすんなりと数少ない直通便が見つかったとしても日本まで飛行機で十二時間以上、そもそも空港に行くまでだって鉄道で三時間かかるところを、カイルは露貴からの電話のほぼ十二時間後、病院にいた。 朝の光が白々と白い廊下を染めている。不健康な眺めだった。 「早かったな」 疲れた顔をした露貴が迎えた。 「あぁ……」 それだけを言う。 兄に面倒をかけるのは甚だ不本意ではあったけれど危急の事態にそうも言ってはいられなかった。 今も残る伯爵家のわずかばかりの権威とこちらのほうがはるかに重要なコネクションに物を言わせて、カイルは帰ってきた。 あのあと兄があちこちに礼という名の愛想を振りまきに行くのかと思えば少しばかり胸が、痛む。 「か……カイザーは?」 夏樹、そう言いかけて、やめた。 そう呼んでいい立場ではもう、ない。例え彼が自分を呼び寄せてくれたのだとしても今は。 「まだ眠ったままだ」 「眠ったまま?」 「昏睡って言った方がいいのかもしれないが……怪我といっても外傷はたいしたことがないらしい」 「じゃあどうして!」 「叔父さんに訊くんだな」 白い壁にうっすらとそこだけ色のついた、ドア。 看護婦のものだろうか、几帳面な字で書かれた、名。 水野夏樹の文字が、そこに。 露貴はカイルの背をドアの向こうに押しやり扉を閉めた。 そうでもしなければきっと、足のすくんだ彼はドアを開けることすらできなかっただろう。 「……」 消毒液の匂いがする。閑散とした、部屋。機械のコードやら点滴の管やらに無残につながれていると思っていた彼の姿はあっけないほどただ、ベッドに眠っているだけで。 額に巻かれた包帯だけが、痛々しかった。 「夏樹……」 カイザーと呼びかけて今度はやめた。 もしも黒い森の出来事が夢でないなら、夏樹は。今ここでカイザーなどともっともらしく呼ばれたくなんてないはずだから。 ベッドの端に腰を下ろしそっと覗き込めば軋んだ音がする。 いやになるほど白い肌。血の気のない頬はげっそりとこけ、きつく引き結んだ唇にさえ血の気はなかった。 「夏樹……」 冗談みたいな色をした頬を掌で包んでもほんのわずかな温もりがあるだけ。 「いかないで……おいていかないで……」 他の誰かの。 それは。 あの日の無言の叫びのように。 「夏樹……」 目を覚ましてくれるなら、生きていてくれるならどんな事だって甘受する。 もう側にいるなと言った彼の元に戻ってきてしまったことを彼が嫌がるならば。 二度と。姿を見せはしない。ただ。遠くから彼の噂を聞くだけでいい。生きていてくれるだけでいい。 だから。 「目を、開けて……」 頬を離れた手がシーツをつかむ。きりきりと音を立てそうなほど、つかむ。握りこんだ手指が血の気を失うほどに。 「……いてぇよ」 「え……」 「髪、つかんでる」 彼は、そう言ってひとつ、咳をした。 「夏樹……」 うっすらと開けられた、目。透明な朝の光に蒼く透けた、目。 「カイルがいる……。夢か? 夢なら……それでもいいか……」 呟き。かすれ声。その混乱が。 本当にたった今意識を取り戻したのだと、語っていて。 「ここに……ここに、います」 「なに、泣いてんだ。みっともねェ……」 そう引きつるように少し、笑った。 ぎこちなく上がった手が指先が、カイルの頬をぬぐう。初めて自分が泣いていた事に、気づいた。 「やっぱ夢でも見てんだな……」 カイルが、側にいるわけなんてないと言うのか。それほどまでに求めてくれたのか、この自分を。カイルは声を振り絞る。 「ここにいます。本当に!」 「本当?」 「はい……」 「起きたらきっと……いないんだ……」 「この次ぎ目覚めた時もあなたの側に。必ず」 頬に触れたままの彼の手をそっと握って自分の手の中、包み込む。もう二度と寂しい思いなどさせはしない。たとえ友としてでしかないとしても。 「そうか……」 口元にわずかの微笑。安心したかのように彼は再び目を閉じる。まるで今の会話こそが夢ででもあった、ように。 「ずっと呼んでたよ」 不意に話し掛けられ始めてそこに夏樹の父がいたことに、気づく。 「小父さん……」 そう言いながら努めてさりげなく彼の手を離した。 「気にするな、わかってる、とっくに」 一瞬青ざめたカイルに彼の父は苦笑いで、答えた。 先代社長は会社から引退した後、医者として本来の仕事に専念している。 心臓外科医としての名が高かったけれどおそらく事故を起した息子の事はできる限りつききりで手当てをしたのだろう。 「露貴から聞いたか?」 「……はい」 「目が覚めないはずがないんだ。本人に……」 「小父さん?」 「本人に生きる気がなかったとしか言いようがない」 言いよどんだ末、彼の父親はそんなことを言う。 「医者としちゃあ言いたくない言葉だがね」 でもそうとしか考えられない。そう、言った。 「ずっとお前の事を呼んでた。呼び返すと言ったらなんだが、ね」 お前が呼んだら息子は帰ってくる気になるかもしれない。そう思ったのだと。切り取られた言葉の向こうにちらりとそんな影が、見えた。 「案の定だったじゃないか、なぁ? あぁ……忘れる所だった」 なにはともあれ息子が意識を取り戻したのが嬉しいのだろう、声さえも弾んでいる。 「馬鹿息子が事故った時、車にあった」 「車の、事故だったんですか?」 「聞いてないか?」 そう言って彼の父は事故のあらましを話してくれた。 カイルがドイツに帰ってしまってからずっと苛々としていた事。明らかに不眠症だった事。夜の箱根に車を転がしに行った帰りの坂で操作を誤ってガードレールに激突したという事故。一歩間違えばその場で命を落としかねないものだった。 「まぁ大事には至らなかったがね」 今の今まで意識のなかった事故の結果を大事無かった、とは。少し呆れはするもののカイルはそれに納得もしている。 とにかく、意識は取り戻してくれたのだから。 「で、その車のシートにあった」 そう差し出されたのは淡いブルーの。 「封筒?」 「宛名見てごらん」 「あ……」 まるで夏樹の目の色をずっとずっと淡くしていったような色をした封筒の宛名は。 ドイツ語だった。 カイルの、実家の住所。そしてカイルの、名。 「コンラートに書いた手紙を……早く出そうと思って事故をしたんじゃないかと、私は思ってるがね」 そんなわけはない、首を振りかけたけれど現実に、いまここに手紙がある。 その手紙をカイルはそっと、ベッドサイドの引き出しにしまった。 「読まないのか?」 少し驚いたように彼の父は言う。 「出す気だったとは、思えないですから……」 例えそこに彼の名が書いてあったとしても、夏樹は投函しなかった。 できなかったのだとしても実際に投函されなかったものを無断で読むわけにはいかない。それがカイルの倫理だった。 「まぁいいさ。飯でも食ってこい」 ひょいと肩をすくめて彼が言う。呆れているのかもしれない。 「でも……」 この次ぎ目覚めた時もあなたの側に。必ず。そう、約束したのだ。 「大丈夫だ。そうそう目を覚ましゃしない。意識を取り戻したといってもこれから検査もある」 だから今のうちに食事を済ませてこい。そう言うのだ。 「わかってるだろうが馬鹿息子がおとなしいのは寝てる時だけだからな」 にやり、笑う。 そんな顔は夏樹に、よく似ていた。 「ま、こんな事故のあとだ、馬鹿息子が当分ワガママ息子でも付き合ってやってくれよ」 そういってはまた笑う。 「わがままは……昔からですよ」 だからそんな軽口をカイルも言った。 とにかく、夏樹は生きているのだから。 |