開けたとたんに枕が飛んできた。 「遅い」 ベッドの上に半身を起こし、彼がこちらを睨んでいる。 睨んでいる、のだ。なのにどうしてだろう、怒られている気がしないのは。 「カイザー?」 落ちた枕を拾い上げ、そうして納得がいった。夏樹の口元が笑っているのだ。あまりにも久しぶりの、彼が取る矛盾した表情、行動に戸惑っただけ。 前のように、以前のように戻っただけ。 「いい加減待ちくたびれた」 だから眠い。そんな子供みたいな事を言ってはそっぽを向いてしまう。 ベッドの横におかれた椅子にカイルは腰を降ろし彼の横顔を見つめる。 「遅くなりました。思ったより片付ける書類が……」 「そんなこと言いに来たのかよ」 「え……あ。すみません」 「ほかに……言う事あんだろうが」 昨日はあれほど自然にあわせてきた目を、いまはあわせようとしない。壁に向かったまま呟く彼の肩がなぜか信じがたいほど寂しげでそれがカイルには妙に怖い。 「昼休みに来る時は仕事中だから仕事の話しかしない、それはわかってる。それがお前なりのけじめのつけ方だったし……でもそれにかこつけてわざわざ毎日来てたの……わかんないわけ、ないだろうが」 「カイザー……」 「帰ってきてから、言ってない事あるだろ。わかんないんだったら帰れよ……俺にどうしろって言うんだよ……」 カイルが相手でさえ多くの言葉を費やす事が苦手な夏樹がこうやって、ためらいながらも話をしている。絞り出すような声音で話している。 自分がなにを言っているか、だからわからないわけがないのに。 「カイザー」 呼びながら伸ばした腕は払われた。 「カイザーって呼ぶんなら、帰れ」 声が、震えている。 「……夏樹」 腕に抱けばちいさな吐息。安堵と緊張の入り混じった、けして安心だけではない、溜息が彼の唇からもれる。 「愛してます」 「……待ちくたびれた」 返って来るのは肯きだけだと思っていたのに。肯定でも否定でもない返事だけが返ってきていた、あれはもう過去の事だとそう思って、いいのか。 ためらいがちにそっと肩に預けられた頭の重み。頬に触れる柔らかい髪。抱いた体のその確かさ、ぬくもり。 彼の腕がごく自然に背中にまわされてさえいる。体中に痛みを感じるほどこの人が。愛おしい。 「退院……明日なんだけど」 黙っているのに耐えかねたか彼はカイルの体を押し戻し、そんなことを言った。その口元が照れて笑っている。 「なんでそういうことを早く言わないんですか」 少しばかりきつい調子で叱ったのはカイルもまた、照れて居心地が悪かったから。例え腕から逃れていってもこんなに側にいると感じた事はなかった。 「……訊かなかったの、どっちだよ」 すねたように視線をそらし、それからカイルを見る。見たとたんにまた視線をはずしたのは、いままでとは違う、そういうことか。 あらぬかたを見やる夏樹の耳がほんのり染まっていた。 「明日、迎えにきます」 「何時」 「十時ごろでいいですか?」 わかった、と肯く代わりに問うてきた。 「いま、お前どこに?」 まだ目をあわせないのはなぜだろうと疑問に思い彼の顔色をうかがえば、それでわかった。 「あの部屋に、いますよ」 後ろを向いたままの夏樹の耳が真紅に染まる。 露貴に呼び返されて疲れきった体をマンションのベッドに投げ出した時に感じたわずかな、違和感。自分のものではないアンテウスの、香り。 シーツに染み付いたその香りの違和感は。夏樹のものだったのか、と。わかった。 自分がいない間、愛しい人は自分のベッドで眠っていたのか。 寂しさ、後悔、虚脱。なんでもいい。彼が自分の匂いのするベッドに体を埋めていた。 それがどう言う事だか、夏樹が理解しているのかはわからない。けれどカイルには夏樹が自覚する以前になんとなく、わかった。 それでいい、そう思う。わかったのだから後は待てば、いい。あせる事はない。もう十五年、待ったのだから。 「そういや、手紙」 それ以上この話題に触れたくないのか強引に夏樹は話題を変える。 「手紙、ですか?」 「事故ったとき……車にあったと思うんだけど」 「あぁ……あったみたいですよ」 言いつつカイルは枕元の引き出しから淡い青の封筒を取り出した。 「これでしょう?」 「……読まなかったのか」 ゆっくりと振り向いた夏樹が意外そうに、言う。 「読んでもいいなら頂いて帰りますが」 「だめっ」 まるで子供みたいな言葉でカイルの手の中の封筒を取り上げる。その目元が赤かった。思わず笑み零れたカイルを夏樹は睨みつけ、わずかに唇を尖らせた。 「ホントに読んでない?」 「読んでませんが、そう言われると読みたくなりますね」 笑って言えば手にした封筒で頭をはたかれた。気の抜けたような音がするそれについカイルは声を立てて笑ってしまう。夏樹は不機嫌そうにそっぽを向いたまま言葉を繋いだ。 「たぶん……読ませりゃ話は早い。でも……」 「いいですよ。話してくれる気になったときに、それでかまいません」 「……ん」 少しばかりうつむいた夏樹。表情はうかがえなかったけれど口元が、微笑っていた。 朝。自分のものではない残り香の中、身を起こしかけ、また枕に顔を埋める。夏樹の匂いがする気がした。 思わず浮かんでしまう抑えきれない微笑と共にぼんやりと枕を抱いたまま視線を動かす。それが時計に止まった瞬間、覚醒した。 「まずい!」 慌てて飛び起きて熱いシャワーを浴びた。 目が覚めていく。幸福に。 「おはようございます」 軽いノックの後、扉を開ければすでに着替えた彼がベッドの上、所在なさげに外を見ていた。機嫌は悪くないらしい。むしろいいくらいだ。 「遅れましたか?」 「いや」 言いつつベッドを降りようとするのを咄嗟に止めた。 「だめですよ」 「なんで」 「病み上がりの癖になにしようというんです?」 笑いながらそっと肩を押し留めれば不満顔。 もともと家事は苦手ながら手際だけはいい人であって、すでに退院の準備だけは整っている。 着替えに本、無聊を慰めただろう細々とした、物。そんなものがふたつみっつ、紙袋にもう収められている。もしかしたら露貴が来て手伝ったのかもしれない、ふとそんな気がした。 「車に置いてきます」 「ん」 「ついでに退院の手続き、してきますから」 わかった、と言うわけでもなく彼はまた窓の外に目をやってそのまま手だけを振った。 懐かしい。不意にそんな思いが込み上げる。そっけない彼のそんな仕種。視線、言葉、声音。すべてが懐かしく慕わしく。 抱きしめたら、怒るだろうか。 「夏樹」 名だけを呼んで応える間さえ与えずに後ろから抱きしめた。身をよじる。逃げようと。いや、少しばかり体を抜いた彼はそっと、カイルの背に腕をまわした。 「なんだよ」 照れた声が、笑った。 「行ってきます」 気づかれないようにそっと、いつかしたように少しだけ、夏樹の髪に唇を触れさせて病室を後にした。 だからカイルはそのあと彼が口元に笑みを浮かべて髪に触れたことを、知らない。 「気づかないと思ってんのか、馬鹿」 そう呟いたことも。 退院の手続きはあっけないほど簡単にすんだ。薬代がどうのベッド使用料がどうのと、ただそれだけ。帰りに一応は彼の主治医でもあった父の所に顔を出せばカイルを見やって肩をすくめる。 「無茶させないように気をつけるんだな」 と、こちらもそれだけしか言わない。これでも息子の父である。何事かを言われるだろうと体を強張らせていたカイルが拍子抜けしてしまったほどだった。 「事故の怪我以外は要するにま、過労だってだけだからね」 父なる人はにやり、笑う。お前にはわかるはずだ、と。なぜ息子が運転を誤るほどに疲れていたのか、そもそもなぜ過労とまでになったのか。わかるはずだ。 そう、笑いにはこめられていていっそ恐いほどでもある。さすが彼の人の父と言うべきか。カイルにできたのはただ黙って頭を下げることだけだった。 嫌がるだろうと思ってはじめからセダンには乗ってこなかった。無残なまでに潰れていたという彼のRX-7だけれど、すでにきれいに修理もすんでそんな姿だったとはうかがえない。 「ごめんな」 呟くような声に振り返れば夏樹がそっと、車体を撫でていた。自分の無茶な運転できれいな体に傷をつけてしまった、そう車に詫びる。 子供じみた行為だと言うなら言えばいい。そんな彼が好きだった。 いたわるようにそっと、車を出す。 「これといった食事制限は聞いていませんが……夕食、なにかリクエストありますか?」 管理された病院から出たとたん、夏の暑さに彼は不貞腐れる。 「昼いらない」 不機嫌にそれだけを言った夏樹がなぜとなくカイルは嬉しい。ならば夕食は好きなものを、カイルは思う。彼の為に腕を振るうなら昼食より夕食の方がやりがいがある、そう笑いつつ。 「好きなもの、作りますよ」 「別に。なんでもいい」 張り合いのない返答につい、溜息が洩れそうになり、慌てて飲み込む。目の端で彼をうかがえば黙って外を眺めていた。 「お前が作ってくれんなら、なんでもいい」 「え」 「……ったくさ、よく彼女の手料理に飼いならされるとか言うじゃん。あれあながち嘘じゃねェよなッ」 彼はまだ。窓の外を眺めたまま。向こうをむいているのはもしかしたらその顔を、見られたくないから。 たぶん憮然としているだろう口元がすこし、笑っている気がした。 こんな調子で部屋に戻ったものだから彼の機嫌は当然のように最悪。けれどその機嫌の悪さはただもう恥ずかしくてどうしたらいいのかわからない、子供のようなそれであってカイルにとっては他愛なさが愛おしい。 だからそっと抱きしめて髪を梳く。くすぐったそうに、笑う。ただ。そんな風に過ぎていく、時間。こんなに貴重なものだとは、いまだかつて知りもしなかった。 「少し、眠られたらいかがです?」 退院の慌ただしさにほんの少し疲れたような顔をしている気がして、カイルは言う。 「ん」 返事ともいえない返事。彼らしい、それ。 わずかばかりの声を残して夏樹は歩き出す。寝室とは反対、自分の部屋への階段に向かって。その足取りにわずかばかりのためらいを見たカイルは彼の背中をそっと声をかけた。 「どこ行くんです?」 呼び止めた声は笑いを含んでいたかもしれない。予想よりも少しだけ早すぎる彼の立ち止まり方が可愛くてならない。 「ど、どこって」 「寝室は反対でしょう?」 言葉が届いた瞬間、耳まで彼は上気させ唇を噛みしめる。 「別にわざわざ下まで降りていくことないでしょう。ベッド貸しますからお昼寝されたらいいですよ」 だからつい、助け舟。そんな事は考えていない、気にしなくて大丈夫。そんな笑みを浮かべて柔らかく、言う。 「も、いいっ。風呂はいってくる」 わいてるだろ、言ったとたんに自分でなにを考えたかまた、赤面している。一人でおろおろとする夏樹をカイルは悠然と見つめていた。これほどまでに動揺する彼など、めったに見られるものではないとばかりに。 「そんなんじゃねェっ。入院してる間ゆっくり風呂なんて……」 「わかってますから行ってらっしゃい」 「……ん」 なだめるようにそっと髪を撫でればなだめられている自分が笑えてしまうのか夏樹は呆れたように、笑った。 |